第9話 追憶
学校を出たころには、まさに夕暮れといった感じだった。
しかし、自宅まで間近に迫った今では、もうすっかり夜闇が迫っている。電車の中も、心が折れるほどぎゅうぎゅう詰めだった。こんなに遅くなったのは、高校生活では初めてだ。
本当に、今日はいろいろなことがあった。
転校生とフライング接触するは、そいつが同じクラスで隣りの席に来るは、寝過ごして授業をサボり、そのせいで鬼のような罰を受けるは、ろくなことがない。
やはり雨の日は、俺にとっては最悪の象徴なんだろう。
お役御免になって久しい黒い傘を、軽くつま先で蹴り上げる。空は憎らしいほどに晴れ渡り、自転車とすれ違った回数は数えきれない。もはや、やるせなさは軽く限界突破気味。
ともあれ、この酷い一日の終わりはすぐそこだ。こうなると、いち早くベッドで横になってゆっくりしたい。昼間、散々寝たというのに、身体が強く疲労感を訴えている。
そう、これまで以上のことはないとは思っていた。
最後の曲がり角を折れるまでは。
「……あ」
正確には、ちゃんと声が聞こえたわけじゃない。
それがいるのは、あくまでも視線の先の方。やや叫ばなければ、言葉は決して相手に届かないだろう。
だから、今のは俺の予想だ。
そんな風に見えたのだ。口元が、表情が、身体の動きが。
確かなのは、向こうがこちらに気づいているということだけ。
昔と変わらない、相変わらずのボブカット。
ただ、色がちょっと明るくなっている。そして、見慣れない制服姿。ちょっとだらしない感じの着こなし。
少し化粧をしているらしいが、それでもさすがに見間違えようはない。
できれば、認識したくはなかったが。
――どうしてこう、今日に限って簡単に今年最悪が更新されていくのか。
互いの家の位置関係が、今は本当に憎らしい。
来た道を引き返して回り道をしない限りは、どうしてもお隣りを通過する必要がある。
ただ、ひとつ救いなのは相手の方が目的地に近い。
このままいけば、何事もなく終わっていく。いや、何かが決して始まってはいけない。エンディングを迎えた物語を無理やり続けようとするのは、墓穴を暴くのと同じこと。死人は、絶対に蘇ることはない。
そんなのは、やっぱりこちらの一方的な想いだった。
俺の家の前で、相手の足がピタリと止まる。
しっかりとこちらに視線を向けて、待ち構えているのは明白だ。
瞬間、俺の頭の中では雨が降り始めていた。
◆
全てを喪った日から、2週間近く経った。個人的には、ようやく平常運転に戻りつつある。
あからさまに噂されることは減った。しかし、相変わらず周りは腫れ物に触るかのような態度。友人と思っていた奴らにも、少し距離を置かれ気味。
別にもうどうだっていい。中学生活はすでに一年を切っている。しかも、大半は受験勉強に押し潰されていく。何一つ困ることはない。
校舎を出ると、分厚い雲が重く立ち込めていた。
一雨きそうだな……嫌な予感に、堪らず駆けだしていく。折り畳み傘ではやや心もとない。
走るのなんて、ほとんど久しぶりだった。
足の怪我を理由に、最近は見学が多い。実際にはそれを口実にサボっている。他クラスとの合同だと、煩わしいことが多すぎる。クラスメイトとは違った方向で、無遠慮だ。
例の2人とはあれから一切接触していない。律義にも、俺の言ったことを守ってくれているのか。無用なトラブルを避けたいのか。はたまた、別の理由で――奴らの胸中なんて、欠片も理解できないと思う。
それでも、さすがに校内で見かけることはある。よほど仲がいいのか、いつも一緒。女の方なんかは、大抵見覚えのない表情を浮かべていた。
決まって避けるのは俺だ。すっかり人の気配に敏感になってしまった。
「仙堂、お前カノジョ寝取られたんだって?」
誰かに言われた。いつかは忘れた。
そのとき初めて、今の自分を的確に言い表す表現を知った。
なんて屈辱的な言葉なんだろう。悔しくて、惨めで、情けなくて……鎮まったはずの怒りがぶり返した。
でも、行動に結びつくことはなかった。何をする気力もない、というのが本音。それと、連中には二度と関わりたくない。
卒業まで、騙し騙しやっていく――それが、俺の下した結論だ。
だというのに——
「なに、してんだよ……」
幼馴染にそっくりな女が、我が家の玄関前に立っていた。後ろに手を組んでぼんやり立つその姿は、周りの暗さと合わさって軽くホラーである。
思わず声を掛けたら、奴はゆっくりとこちらを振り向いた。
どうして嬉しそうなんだろう。相変わらずの得体の知れなさだ。
俺はぐっと唾を飲み込んだ。
「凱……あの、どうしても一言おめでとうが言いたくて」
「は?」
意味不明な言葉に、つい顔が強張る。
そんな心当たりはまるでない。しばらくは、人生最悪のどん底期間だった。
それでも、強いてあげるとすれば、例の2人と縁を切れたことぐらいだ。割と早い段階で……もうほぼ致命傷だったけど。
「聞いたよ、バド部大会で優勝したって! 個人はちょっと残念だったみたいだけど、それでも本当にすごいよ!」
「…………お前って、どれだけ頭が悪いんだよ」
奴の言葉はどこまでも的外れだ。しかも、それを最高に嬉しそうな表情で語るものだから、もはや手に負えない。
ここまでされて、なお平然としていることはできなかった。
「え?」
「辞めたよ、部活は。お前と別れた次の日にはな!」
「……え、そんな、ウソ、どうして。だって、凱、あんなに部活頑張ってたのに」
「どの口がそれを……妹がバド部だってのに、何も知らないのな」
「……
元幼馴染は気まずそうにさっと俯いた。
その言い方と表情が、少し俺の
「なんだよ、その顔。俺のせいって言いたいのか?」
「ち、違うよ。カエデが悪いのはわかってる。全部自業自得だって」
「じゃあ、何が悪かったのか言ってみろよ。ちゃんとわかってるんならな」
「それは……その……あたしがユウく――神崎くんと部屋で……」
さんざん言いにくそうにした挙句に、奴は黙り込んでしまった。目を伏せて、顔を真っ赤にして、唇を噛むようにして。
ずっと考えていた。何が悪かったのか。どうして、あんなことになってしまったのか、と。
元親友の言うように、俺のせいだとも思った。確かに、冬ごろからは部活や勉強の方に重きを置いていた。でもそれは、全部カエデのためで、ふさわしい男になろうと、もっと好きになってもらおうと――それが原動力だった。
わかってくれていると思った。無条件に信頼していた。
だってそうだ。幼いころからずっと一緒だったんだ。人となりはよくわかっているつもりだったし、俺たちの絆が壊れることは決してないとすら思っていた。無意識のうちに。
ある意味では、あの男の指摘はとても的を射ている。
幼馴染だからこそ、好きになった。幼馴染だからこそ、その像が歪んでいた。
眼鏡を外した今では、何の魅力も感じない。前の自分がどこに惹かれたのか、それが全くわからない。むしろ、時間が経てば経つほど自分の見る目のなさに絶望する。
平気で浮気できるクソ女。バレるリスクを考えないで、男を家に連れ込むバカ女。人の気持ちを思いやれない無遠慮な女。
心の底から幻滅した。その本性に、なぜだかひたすら悲しくなった。
今もこうして、俺の神経を逆なでしてくる。
「セックスしてたんだろ。いや、未遂だったけ。どっちにせよ、それまでずっとヤリまくりだったのに違いはないか」
「そ、それは……」
「隣り同士だってのに、わざわざ自分の家に連れ込んでさ。気づかない俺のことを馬鹿にして、ダシにして楽しかったよな。すっごい気持ちよさそうにキスしてたぞ、お前。――ほんっと、気持ち悪い。ただのクソビッチじゃねえか」
「そこまで言わなくたっていいでしょ!」
突然、元幼馴染が声を荒らげた。耳障りで、ちょっと甲高い音。目は大きく見開かれ、唇がわなわなと震えている。
この女がこんなに激昂するのは、初めて見た。昔から、穏やかで優しくて、温かみのある女の子だった。
瞬間、あれだけ沸き立っていた気持ちが落ち着いていく。なんで今更、あんなに熱くなっていたのか。
全てはもう終わったこと。とっくに結論は出て、自分ではなんともないと思っていたのに。
「今度は逆ギレかよ。本当にしょうもない」
「……ち、ちが、今のはその」
「結局さ、根本的に悪いと思ってないんだ、自分の行いを。あのときから今まで、一度でも謝ったことはあるか?」
発覚直後に出てきたのは、拙い言い訳。そのあとはただ、被害者面してなくばかり。今だって、決して自分から問題の核心に触れようとはしない。
それが、
ひとつ息を吸い込んで、改めて元幼馴染に正対する。
奴はもうすっかり錯乱していた。何だなんだかわからない。思考も感情も、まるでチグハグなんだろう。
その目をはっきりと見ながら、強い拒絶の意思を込めて言葉を紡ぐ。
「さっさとユウくんのとこにでも行けば? 大好きなんだろ、いっぱい慰めてもらえばいい。元カレに散々酷いこと言われたってさ。そして、二度と俺に関わるな」
「……カエデは――」
「早くしろよ。それとも、おばさんや葵ちゃんを呼んでこようか」
ちらりと、見慣れた隣家に目をやった。
絵に描いたような素敵な家族だった。あるいはそれも、気のせいだったのかもしれない。
「ごめんなさい!」
ようやく悟ったんだろう。全てが無駄な時間だったことを。後にも、何も生まれないことを。
元幼馴染は静かに深く頭を下げると、憔悴しきった様子で走り去っていった。そのまま、隣りの家へと消えていく。
ようやく解き放たれて、俺はふと空を見上げた。
ポツリ、ポツリ、控えめに落ちてくる水滴。だが、その勢いはすぐに増していく。
あれほど忌避したのに、結局降られてしまった。でも、もう何も気にならない。目の前にある玄関の門を押す気にもならない。
このまま全てを洗い流して欲しい。
ただ汚いだけの鬱屈した感情も、まばゆい輝きを放つ思い出も、どこまでも無様な自分も――何もかも全て。
「ああ、ああああ、あああああああっ!」
込み上げてくるままに、叫び出す。
雨に濡れるのも構わず、いやむしろずぶ濡れになりたかった。涙との区別がつかなくなるほどに激しく。
割り切った、立ち直ったつもりだった。
何のことはない。ただ思考停止していただけなのだ。胸の底に無理やり押し込めて、それ以上の対処を放棄した。
逃げ場がなければ、感情はひたすらに膨れ上がる。爆発するのは必然。それが今で、逆に良かったのかもしれない。
――慟哭の理由を、今はもう覚えていない。馳せることもできなければ、再現することなんて以ての外。
あの日から唯一進歩したところなんて、それくらいだ。
あれだけ執着した幼馴染を前にして、俺の心はひどく空虚だった。
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