短編の寄せ集め
あめやまあきら
背骨
このようなお手紙を差し上げることをお許しください。しかし私の中に吹き溜まり、燃え盛り、湧き上がる黒く、ねばねばとした得体のしれない情動を、ただ遺るものひとつなく消し去ることができないのです。ああ、さげすんでください。このみじめで哀れな男を存分にののしってください。それでこそこの思いは報われるのです。それ以外に方法はないのです。ああ、美しいあなた。狂気の淵に立とうとも揺らがないあなた。こんなものを愛などと呼んで捧げることはできませんがこの手に抱え込むことだけはお許しいただきたいのです。
わたくしはただただひたむきに働いてきたばかりのキャリアも地位もないしがない警察官でございます。体を動かすこともまあこんな仕事ですから人並み以上にはできますが表立って凶悪犯に突っ込んでゆけるようなものでもございません。休日はすっかり趣味のアマチュア無線などに没頭しておりました。わたくしは警察官ですから、警察無線など仕事上当たり前のように聞くことができますが、それでも休日にこっそり警察やらなにやらの電波を傍受してはいそいそと聞くことが何よりの、卑小な楽しみだったのでございます。
さる時、例の事件がありましたことを、あなたはよくよく覚えていらっしゃるでしょう。わたくしがあなたをお見かけしたのも、ええ、なんといっても大きい事件でしたから、わたくしなんかも駆り出されたのですよ、その時でありました。それは今でもわたくしの心に大穴を開けて、なおその淵をじりじりと焦がしております。あなたの立ち姿です。わたくしは幼少の砌から脊椎、背骨、というものに一種のフェティシズムを覚えていたのです。父や母に連れていかれた博物館では骨格標本の、その背骨の分解された椎というものの一つ一つまでをなめるように見ておりました。ティタノボア、という大昔の蛇をご存じですか。今まで地球上に登場した蛇の中で最も大きいのだそうです。わたくしはそれに心を奪われてしまったのです。そもそもが背骨さえあればいいわたくしの嗜好と、蛇、という生き物自体がよくかみ合っていました。気づけばわたくしの狭いねぐらは蛇だらけになっていたほどなのです。さて、話が離れましたね。わたくしはあなたの立ち姿に、いいえ。あなたの脊椎に心をめっきりと奪われてしまったのです。パリッと保たれたダークスーツは、美しいS字を描き、視線をつい、と上にやると白く筋の浮き出た細い首が伸びていました。もちろんあの事件はあのような顛末を辿ったものですから、顔には疲れと、焦りと、そしてなにかあなたにしかわからない情動が漂っておりましたが、それでも立ち姿ばかりがきりりと、美しく保たれていたのです。なにしろあの事件は目まぐるしく事態が動きましたから、わたくしとあなたがまみえたのはただその一回でしかないのですけれど、わたくしのこの狭く小さな心にはあなたばかりがよぎっては消え、よぎっては消えと大水槽の中を泳ぐ巨大な魚のように思えたのでした。
わたくしはなにせ蛇飼いなものですから、ペットショップやらにはよく顔を出すのでございます。最寄駅から二駅ほども行ったところによく爬虫類を扱ういい店があるものですから、脳裏をよぎるあなたを夢見てはかき消し、夢見てはかき消し、と悶々としていたところでなにか気晴らしになればいい、と何か魔術でもかけられて、吸い込まれてなぞゆくように入っていったのでございます。そこの奥に、一種隠されてなぞいるように一匹の蛇がおりました。黒々と光る、美しい蛇でした。そう、ちょうどあなたの御髪のようでありました。それはまだ大きくはなく、初めて会った私の腕にするすると上ってきては、縦に割れた水気のない瞳で、わたくしのことをじいっと見つめているのでありました。そうしてわたくしもその蛇の瞳を見つめ返すと神経に電流のような甘いしびれが走り、ただ何となく店に入っただけなのではありますが、わたしもすっかりと奴を気に入り、気づけば少ない給料をはたいて家に連れ帰っていました。ケージの準備を終え、それを移すと、なにせ生き物とこれから共に暮らすわけですから、名前がいるわけです。けれどもわたくしの中ではなんて名前にしようか、なんてことは決まり切って当たり前のことだったのです。あなたの部署は選りすぐりのエリートの集まりですから、その名はわたくしの耳にも届いておりました。その中でも取りまとめの男と、荒事でよく前に出ていくあなたの名前は普段何の関係もないわたくしでも知っているようなものだったのです。わたくしはその黒い蛇に、小桑という名前を付けました。
なかなか出会うことも多くはない部署ではございましたが、何せ同じ所に勤めておりますがゆえに研究を重ねれば、おこがましいことにあなたとまみえることは可能でありました。下っ端のわたくしは鑑識などに出入りすることも多くありましたから、あなたとよく話していた鑑識の男と会うことも多くあったのでございます。軽薄で信用にも値しない男でしたがなにせ有能ですので、会わなければならなかったのですけれども、あの男と会うたびにあなたの残り香、髪の毛一本でも残ってはいないか、と目を光らせ、見ていない隙に鼻をひくひくと空気を嗅いで見たりなぞしましたが、あなたは香水の類をお付けになりませんから、ただそう、鑑識にでもいるような美しくもない猫背の人間たちの匂いばかりがしたもので、うんざりとしました。
あなたの家は署内ではたいそう有名なのですよ。なにせ旧家の持ち家と来たものですから、あなたによく引っ付いている背の高い男と並べて、あなたの部署の後ろに何かついているんじゃあないか、それでゆすってやろうか、なんて奴らさえいたほどでございました。あなたの家の、大きな窓と庭のその向こうに、集合住宅があるのをご存じですか。わたくしのあなたへの思いは日ごとに増してゆきました。あなたは気づいておられませんでしたが、わたくしのこの滴るほどの情感は法を守り、市民を守るべきものたるわたくしの精神を水銀のようにとろとろと、溶かしていってしまったのでございます。
わたくしはあなたにそっとついてゆきました。旧家の、それほどの大邸宅ならいくつか見当はついておりましたので、気づかれないように、そろりそろりと裏道なんかも使っては何回も、二か月ほどかけて見つけたのでございます。わたくしは大層喜びました。そうして、今までの部屋を引き払い、多くはない荷物と、小桑を連れて、わたくしはその集合住宅に引っ越しをしました。ただあなたとどうこうなりたかったわけではないのです。おそばにいたかったのです。わたくしは望遠鏡を買いました。狭い部屋の窓にそれをしつらえて、じっと覗くのが何よりの楽しみでした。わたくしの部屋の窓と、あなたの家の窓は向かいになっていたのですよ。わたくしはカーテンの奥から漏れ出る光と、時々透けるあなたの影を見つめながら、小桑の濡れるようにきらめく鱗を撫でるのが好きでした。小桑もそれはそれは嬉しそうにわたくしの腕に巻き付いたり、かさかさと渇いた指先を軽く嚙んだりなんかして、楽しい時を過ごしたものです。人ほどの知能を有していないはずの蛇である小桑が、瞼のない目でこちらに何かをねだるように尻尾で掌をくすぐったりなんかすると、わたくしは背骨の終着点である尻尾のそのかたい尖りにくらくらとしてしまって、餌の生肉やら、蟲やら、ラットやらを与えてしまうのでした。
次第にわたくしはあなたの影だけでは満足出来なくなりました。あなたに触れたいわけではないのです。わたくしには小桑がいます。そう思おうとしました。あなたの影を糧にして小桑はどんどん美しく、大きくなります。そして思ったのです。ああ、わたくしの小桑には、まだ足りないのだ、と。感情のない小桑の瞳は桑色に怪しく艶めき、折り重なった鱗は黒真珠のように構造色を描いててらてらときらめいていました。その吸い込まれそうな色の奥にわたくしはよろよろと迷い込み、そうして張り詰めた糸が切れるようにあなたのもとへと踏み出してしまったのです。
わたくしはちょうどそのころにあなたのもとへと行く機会がありました。書類を届ける用でした。ドアのそばにコンセントがありますね。わたくしは書類を届け、そこのそばまで何気なく歩いてくると、靴紐がほどけた、としゃがみ込みました。その時に、盗聴器入りの、電源タップと、もともとあった電源タップを、すり替えたのです。靴紐を結んだふりをして、立ち上がり、ふりむいた視線の先にあるあなたが見えました。そのダークスーツに覆われた背はどうなっているのだろう、あのエリート集団一の武闘派だからきっと筋肉があの美しいS字に沿ってそっと浮き上がっているのだろうか、そしてそのみっしりとした筋肉の奥にある椎骨はああ、あんな立ち姿だからきっと美しいだろうけれど、どうやって弧を描いているのだろう……そんなことをつらつら、と考えているうちに体は勝手に動き、あいさつもほどほどにして職場へと帰ってきていました。なんとなく自分のデスクにつくと、ぱっと意識が戻りました。大きめの通勤鞄を開け、中にある機械からつながれたイヤフォンをそっと耳につなぎました。そうすると、あなたの声がしたのです。わたくしは手をぐっと握り、よしっ!と声を上げそうになってあわてて口をつぐみました。わたくしの、この歪んだ欲望ばかりに魅せられたたくらみは、成功したのです。上がりそうになる頬を必死に叱咤しながらわたくしはREC,と書かれたボタンを押しました。
そこからの暮らしは夢のようでした。仕事をして、少し休みがあればあなたの声を聴きました。その胸椎から広がるあばら骨に反響する声が、どのようにあなたの身体を駆け巡ってゆくかを考えるだけでわたくしのこのちっぽけで美しくもない椎骨たちに電流が走るようで、それがおこがましい話ですが、あなたの生白い骨と共鳴するのだ、などと考えるだけでわたくしのこの汚らわしい腐って泡を吹いた泥のような性欲が刺激されて、どうにかなってしまいそうなのでした。もちろん同僚の目がありますから、しれっと何ともありゃしませんよ、とでもいうように取り澄ましてみせるのですけれども、わたくしだけがこのほの暗い快感をたった一人で享受しているのだ、という実感ばかりが細胞にまで染み渡り、そのごまかしまでもがわたくしを昂らせたのです。
このひっそりとした、原生林の奥に踏み込んでゆくようなあそびは、家に帰ってからますます倒錯を増しました。まずドアを開けて帰ったよ、というと小桑がするすると奥からやってきます。そのころには小桑はわたくしと生き、ともに睦まじく夫婦のように暮らしていたものですから、ケージなんてものは取り払って、家中を小桑の暮らしやすい湿度に整えて、その中で暮らしておりました。そうして部屋につくとまず鞄の中から録音器具を取り出し、部屋に取り付けた特別な湿度にも耐えられるスピーカーに繋ぎます。そうすると、わたくしの集めた今日の分のあなたの声がひそやかに、踊るように、きゃらきゃらと流れ出すのでございます。そうして小桑とあなたの声を聴きながら望遠鏡をのぞき込み、あなたの影を視線でまさぐりながら小桑とまた怪しい戯れをするのです。
そのころには小桑と暮らし始めて半年ほどが経っていました。大きさは50センチを超え、ますますその鱗の輝きは濡れたように冴え、瞳はまるで猫目石のように不思議な輝きさえまとうようになっていました。随分としなやかに太くなった胴を軽く揉みしだいてやると、蛇のぎっちりと詰まった筋肉の奥に確かに存在する繊細な背骨の感触を知り、レンズをのぞき込むわたくしの視界と重なってまるであなたの背を、わたくしが、この手で、撫でさすっているような錯覚にさえ襲われたのです。そして小桑のためにしつらえたじっとりとした部屋の湿度が、あなたの吐息を感じるようでありました。わたくしと小桑は確かに愛し合っていたのです。そしてわたくしはあなたに恋をしていたのです。そして小桑は、わたくしがわたくしのためにあつらえた、理想の女でありました。小桑はその小さな口でわたくしの指を食み、なめらかな鱗でわたくしを慰め、そのかたい尻尾でわたくしをくすぐりました。萩原朔太郎の詩にあるように、これが肉体の結実、蛇のようなあそびなのだ、とふと思いいたり、わたくしを感情があるのかないのか、しかしわたくしはそこに愛があると信じていましたから――その瞳で見つめている小桑の鼻に接吻しました。
そうして小桑はわたくしの恋人になりました。あなたの骨と、あなたの声を受けて生まれた美しい、わたくしだけの恋人です。
わたくしは小桑をますます完璧にしよう、と思いました。機械には比較的強いものですから、ええ、小桑にはわたくし以外のひとはいらないので、今までに集めた音声データを編集して、あなただけの声だけを抜き出し、それを繋ぎ合わせて、それがひたすら流れるスピーカーを部屋の真ん中にそっと置いて、四六時中流しました。望遠鏡からのぞいたあなたの像を写真に収めて、部屋に貼り付けました。わたくしには小桑がいましたから、あなたに触れたい、なんて気持ちはこれっぽっちも湧かなかったのですけれど、小桑をわたくしの理想の恋人足らしめるためには、あなたが必要だったのでございます。それはわたくしが帰っていようとなんだろうと流しっぱなしにしておりました。寝るときも、起きるときも、小桑と食事をとる時も、わたくしのこのぷかぷかと浮かぶ脳にはあなたの声がひたすらに反響し続けていたのでした。
そうすると、警察に行っている時でもあなたの声が聞こえるようになりました。最初はなんだか気味が悪くて、怪訝にしていたのですけれど、なにか迷惑なことを言う訳でもなし、とりとめのないことを鈴のように喋ってばかりいるような声でしたので、なにせわたくしはあなたを好いておりましたから……気に留めることもなく、何なら幸せな気持ちでいたのでございました。
夢を見るような心地であなたの声に浸かり、埋まり、溺れながらわたくしは陶然として日々を過ごしておりました。その時にはなんだか仕事の方にも身が入らない、のだけれども、わたくしにささやくあなたの声が時折重要なときにばかり間違えそうになれば悲しげな声を上げ、また良い方向に行けばころころと笑って感じるようになりました。わたくしになにか霊感でも宿ったのか、それがよからぬもののささやきかもわかりませんでしたが、ただひたすらにあなたの笑い声ばかりを追いかけているうちに、仕事でも役に立つ、ようなことが増えていったのでございました。
そうしているとまた事件が起こりました。その詳細は申しませんが、あなたの部署が引っ張りだされてくるような大きなヤマでございました。わたくしは例の声のおかげで捜査にもかかわれるような部署へと転属しておりましたので、捜査会議にも出ることができたのでございます。その事件はあなた方が出てきてから1週間足らずで終息した事件でしたので、いっぱしの下っ端であるわたくしの出る幕などなかったのですけれど、そのようなことは何一つどうでもよかったのです。わたくしにとって大事で、重要だったのはあなたとまた再び生身で相見えたということだけなのですから。
わたくしは一番前の長机のパイプ椅子に掛けていたあなたを見ていました。見ていたのです。神経の最もそばにある場所はどこだかお分かりですか。それは目です。見ることはかないませんが、うなじからのぞく絹糸で織られたような肌がぴっしりとしなやかに幕を張り、背筋の二列の山脈にはさまれたその下には、椎骨の連なりがあり、そしてその脊椎の中には神経がぎっちりと詰まっているのです。そしてその神経の束は上に伸びてゆき、丸くつるりとした頭蓋骨に包まれた脳へとたどり着き、そしてそこに直結する視神経は眼球を通して物を見ているのです。目は唯一神経と感覚器官が直列になっている機関なのですよ。だからこそ古の人々は目をアイコンにしたのかもしれませんが。
わたくしはただぼんやりとあなたの後姿を見つめていました。それはやわらかな棘であり、硬質な綿であり、焦点を求める光であり、方向でもありました。何の話をしていたのか、今となっては覚えていませんしその価値もありません。そのままろれつの回らない瞳はただ前を向いていましたが、よくわからないうちに捜査会議も終わったようで、周りの警察官たちがぞろぞろと大会議室を出てゆきだしました。そうしているとあなたも席を立ち、こちらをくるり、と向きました。そのとき、目があいました。視線と視線が絡み合い、あなたの桑色の瞳が長い睫毛にふちどられた瞼に二度三度、隠れるのがゆっくりと、つぶさに見えました。黒い瞳孔が立ち上がったとたんにきゅう、と縮こまり、針のように細められた視線が私の神経を直接に、刺し貫いたのです。目は神経の最もそばにある器官です、と言いましたね。視線と視線の絡まりあいは、神経同士の愛撫なのですよ。それによって、変容しはじめていたわたくしは完全に作り変えられてしまったのです。これはあなたの罪なのです。こんなおこがましいことを言うつもりはなかったのですけれど、最期に背中を押したのは、あなたなのです。そしてそれだけが、わたくしがあなたに遺せる傷になり得るでしょう。
わたくしは、心ここにあらず、とでも言った感じでふらふらと家へと帰りつきました。おぼつかない手つきで鍵を開け、倒れ込むようにドアを開けると、奥から小桑がやってきました。それに気づき、何とか面を上げて、ああ、帰ったよ、と言おうとすると小桑の小さな口がぱかりと開き、あなたの声でおかえりなさいという声が聞こえたのです。最初は耳を疑いました。もう一度確認しなければ、と震えながら小桑、小桑かい?と問いかけるとええそうよ、と返ってきたのでした。わたくしの中に天上の花が開いたような歓びが駆け巡りました。わたくしの小桑はますます完璧になったのです。あなたと同じ色をもって生まれた小桑は、あなたの声までもを手に入れたのですから。わたくしの恋人、わたくしの小桑、わたくしだけのあなた!わたくしも小桑もそれからは遊ぶように暮らすようになりました。さて、わたくしと小桑は恋人なのですから、共に暮らすのはもちろん、食卓を共にせねばなるまい、と思いました。小桑は蛇、肉しか受け付けない体ですから、合わせるならばわたくしの方でしかありません。わたくしは大皿に刻んだ生肉を盛り付け、小桑と同じ皿から共に食べました。赤い肉汁の滴るような馬やら牛やら生の肉を、カトラリーさえ使わずに一心不乱に飲み下すのは、部屋に充満する鉄の匂いとともに、わたくしを酔わせたものです。そうして腹を満たした後で、小桑はまた大きくなっていましたから、ひとりと一匹、いいえ二匹の脊椎が、のたくって絡まりあう姿は、さながら愛の営み、と呼んで差し支えないものだったでしょう。
規則正しく並び、紫がかったつやつやとした鱗がしっとりと結露して、そこに小さく浮いた雫がひとつになろうとする意志に従って集合し、ぽとり、ぽとりとわたくしの口に落ちてゆきます。それをこくり、と飲み下すと、大きく開けた口を小桑がのぞき込み、吐息に震える喉彦から続くわたくしのそればかりが整っている象牙色の歯の粒を観察しておりました。そうして少し長い犬歯を細い舌をちろちろと動かしながらぺろり、と舐めると満足そうにわたくしの首元に巻き付くのです。さりさり、とわたくしの刈り上げたうなじと鱗がこすれあい、なにか秋の虫が鳴いているような音が耳元でしておりました。そしてそのひとつひとつがわたくしの皮膚に微弱な波と甘いしびれを生み、もはや人の世界ではいられない快さをもたらしていたのです。そうすると小桑が耳元で言葉を超えた甘い巣から絞り出したばかりのぼんやりとあたたかい蜂蜜のようなささやきを垂らし、注ぎ込んできます。それはもはや人のものであったのか、そうでなかったのか見当もつきませんでしたが、耳の産毛一本一本が揺蕩い、ゆれるその感覚が背中を滑るように走って感じられました。そしてわたくしは敷き詰められたビロードの絨毯のごとくになめらかな悦びの先へとゆったりと昇り詰めていったのです。もう何もいらない、と思いました。
それまでは同僚の誘いあれば仕事の後、飲みに行くなんてこともあったのですけれど、小桑との愛が花開いたその時からはすべてを無視して、なんなら仕事が残っていようが定時で上がるようになりました。もともと引っ込み思案の不愛想なたちで、あまり交友関係も多くないものですから、困ることもさほど多くはありませんでした。唯一あるとすれば私が時折漏らす小桑のはなしを、何も知らない同僚が訊いては君の奥さんと会ってみたいだの写真を見せろだのと言われることだったでしょうか。わたくしとて小桑とわたくし、蛇と人の恋愛関係など只人に受け入れられるものではない、とよくよくわかっていましたし、何より写真を見られることは小桑に間接的とは言えども視線が向けられる、ということと同義でしたので、そのようなことは一切ありませんでした。わたくしは独占欲が強い男でしたのでそのようにしたのです。
そしてあなたの姿をとらえ、あなたの声を聴くことには一層熱心になりました。あなたの立ち姿を見るたびに小桑のしなやかな鎌首をもたげた姿が重なり、そしてまた小桑の姿を見るたびにあなたの背筋が描く蠱惑的で、また清冽とした曲線がセルロイドを重ねたようにわたくしの目には映るようになったのです。小桑がいるところにはあなたがいて、あなたがいるところには小桑がいるようになりました。それはまた声でも同じで、あなたと小桑は声を共有しているわけですから、あなたの喋り声がイヤフォンをつたってわたくしの鼓膜をゆらすたびに、小桑がわたくしの首から背筋にするすると巻き付き、胸郭を心地よく締め付けているような体感にさえ浸れるようになりました。その浅い呼吸と圧迫感に酔いしれていると、何しろ四六時中そんなものを聞いているわけですから、それが真実である、とわたくしが信じる証左のように肌着をぺろり、と捲りあげると女の桜貝のような爪の揃った細指三本分ほどの蛇の巻き付き、締め上げた跡が鱗一つ一つの跡さえ鮮やかにくっきりと残っていたのでした。その赤い轍を愛おしげになぞるたびに、眼球の裏に桃色のぬるい靄がかかり、脳みそが火のつけられたろうそくのようにとろけていくような感覚を得るのです。いいえ、実際にとろけてしまったのでしょう。自分で言うのもなんですが、このころにはわたくしには正気、というものはそれこそちびっかすの火のついたろうそくのように幾らも残っていないものだったのでしょう。ただ小桑と愛し合い、そして小桑を通してあなたとも愛し合うような錯覚を得ていたのです。わたくしは幻の先のあなたを求め、ただ一心不乱にそのかけらを拾い集めては小桑に植え付けていたのでした。それが愚かとは思いません。わたくしは小桑という唯一と、あなたという永遠を手に入れたのですから。
きっとわたくしはおかしくなっていったのです。小桑は、わたくしにとってはまぎれもない真実でありましたが、真実は個人だけが有するものであるのに対して、事実とは公共性の集合的結晶なのでございます。それの境界はわたくしの中でもきっちりと隔絶されておりましたが、悦びとは甘い毒に似ておりますね。それは現実を侵食していったのでありましょう。いいえ。きっと最初から、あなたを見た時から、小桑を見つけた時から、こうなることは決まっていたのです。そこには何も、誰の責任もなく、ただわたくしがそういう男だということだけがわたくしの真実で在りました。これほどにあなたと小桑を重ねてみていたわたくしでも、それがイコールではないということくらいよくよく承知していたのです。けれども時が経つうちにわたくしの眼はぼんやりと濁り、あなたと小桑を隔てる認識はゆっくりと融解してゆきました。あなたが小桑なのか、小桑があなたなのかもわからないまま、じんわりとした焦りが積み重なっていき、わたくしはついに嫉妬に狂ったのです。
あなたとあなたの同僚がた。あなたは紅一点でございますね。わたくしはあなたと共に過ごし、あなたの声を聴き、あなたの瞳を見つめるあの方々に言い知れぬ妬みを覚えました。特におこがましくもあなたとよくやり取りをしている、名前など覚える気にもなりませんでしたが眼鏡の男、そこにいるのは、声を聴くのは、あなたの肩に手を置くのは、そう、小桑の恋人たるわたくしでしかありえないはずなのに!あなたをたしなめ、思いやり、時に叱るその姿を目にして、わたくしは小桑を、あなたをわたくしの手に取り戻さねばならない、と決意しました。
血走った目で家に帰るといつものように小桑がわたしを出迎えます。そしてあなたの声でおかえりなさい、というのです。わたくしがいつものように帰ったよ、と返さないので、蛇にはそんな機能はないのですけれど、小桑は何処か不思議そうな顔をしてわたくしを見つめておりました。そうしてどうしたの、という声が聞こえたときに、わたくしは小桑に縋り付き、男ながらに泣き叫ぶように何回も、何回も問いかけました。小桑、小桑。お前は俺の恋人だよな、俺にはお前しかいないのだ、と。小桑はしばらくじっとしていましたが、わたくしの身体からふっと力が抜けると胴を抱きしめるように巻き付きました。何しろわたくしの中ではあなたと小桑はもう溶けて混ざり合って一つになっていましたので、それはあなたがまるで聖女のようにわたくしの背に腕を回しているように感じたのでした。
家に帰るとあなたがいます。わたくしだけの小桑です。なのにどうしてでしょう。職場に行けば耳元に声さえ聞こえるのにあなたはこのわたくしを見向きもしないのです。それは当たり前のことです。わたくしとあなたには何の関係もないのですから。けれどそれさえ分からなくなりました。わたくしはきちんと表明をしなければならない、と思いました。わたくしとあなた、小桑は、唯一にして絶対の恋人であるのだ、と。そしてそのために、あのあなたとなれなれしい、あなたを叱りさえする男を殺さなければ、と思いました。
わたくしは家と職場の間にある、坂を下った先の曲がり角にある金物屋で、一挺の、大ぶりのナイフを買いました。そしてそれを使って、夕餉の塊の生肉を細かく切り分けました。脂と肉汁に濡れた銀色の鋼を室内灯にかざし、そのぎらぎらとする様子を眺めて、うっとりと目を細め、来る日の約束、惨劇を夢想していました。そうしていると、小桑がわたくしのそばへとやってきて、舌で刃の腹をべろり、と舐め上げました。それは愛でした。どのような形でもそう呼べるものでした。わたくしのもとに蜜月は約束されていたのです。
わたくしは臆病な男ですから、すぐにそれを実行することはしませんでした。鞄にナイフを忍ばせて毎日通勤して、上司からの命やらむりやりもぎ取ってきた業務やらであなたのもとに行ったり通りかかるたびに、楽しそうに、さも心を許していますよ、とでもいうようにじゃれあうあの男とあなたを見つけ、そうしてそれを砥石にして殺意という刃を少しづつ育て上げ、研いでいったのです。
とある日、わたくしはええ、小桑以外にはとんとお金を使いませんでしたので、少し余裕がございましたから、この日のために三つ揃えのス-ツを仕立てておりました。そしてひげをそり、髪を整え、とっておきのさながらプロポーズをするような格好でした。そしてきれいな木綿の布で巻いたナイフを内ポケットへと忍ばせ、見違えるようないい男になってあなたの、そしてあの男のもとへ革靴の音さえ高らかに向かったのです。たしか鼻歌でふんふん、と歌っていたのはジーン・ケリーだったようなことを覚えています。
そのときは、あなたと同じ事件の捜査でしたね。殺人事件をこれから解決しようというのにいまから人を殺そうとしている自分がなんだかとても滑稽で、ふふ、と笑い声が漏れ、ただでさえいつもと違う格好をしているうえになんだか様子がおかしいわたくしを怪訝な目で見つめる同僚の視線さえ、何一つ気になりませんでした。
現場検証が終わった後、わたくしはあの男を呼び出しました。少し戸惑った様子ではありましたが、わたくしは比較的よくあなたの職場に出入りしておりましたので、怪しいようには思われなかったのでありましょう。なぜだか顔が笑顔で固定出来たままで、それも不気味に映ったのかもしれませんが、わたくしはあの男を誘導し、ビルを背にさせて逃げ場を奪い、ジャケットの内に手をそっと突っ込み、ぐるぐる巻きのナイフを取り出すとゆっくりとそれをほどきました。あの男はそれを見て随分と驚いた様子で、顔色をさっと変えました。わたくしはナイフを腰を入れてしっかりと構え、あの男のもとに走り出しました。無我夢中で前さえろくに見えていなかった手に、何かが刺さる感触がありました。ぱっと見回すと、それは太ももに刺さっていました。しくじった、と思いました。それでももう足をつぶしたから動けない、と思い、とどめを刺せばいいのだ、と思いました。そうしてにぎりしめたナイフに力を籠めようとすると、強い力でどん、と突き飛ばされました。動揺してそちらのほうを向くと、あなたがいました。随分とうろたえた様子であの男からナイフを抜き、手当てをしていました。わたくしのほうなど見向きもしません。真実の恋人である、このわたくしがいるというのに!そうして絶望のような、茫然としているとあなたがこちらをきっ、と向きました。そこには確かに敵意と、侮蔑がありました。わたくしのあなたは、わたくしの小桑は、あんなにも愛おしげにわたくしを見つめていたというのに。その視線に切り刻まれてどうしようもなくなり、愛というよすがが幻想だと思い知ったわたくしは発狂しました。訳の分からない言葉を口走りながら一心不乱に逃げ、車に乗り込み、そして乗り捨てて朝のきらきらしい姿が嘘のようなぼろきれになって家に帰りつくと、そこには変わらず、小桑がいたのです。あなたの姿と、あなたの声と、あなたのまなざしを得た小桑が!いつもと変わらないはずなのに、あなたの侮蔑に満ちた視線が頭の中をぐわんぐわんと駆け回ってゆきます。わたくしにはもうあなたと小桑の区別がつかなくなっていましたから……もう小桑の視線でさえもわたくしには耐えられなかったのです。わたくしは焦点さえ定まらない視線であれを見つめると、ピカピカに磨かれた革靴の底で、きょとん、とこちらを見つめるその小さな頭を踏みつぶしました。真実は打ち砕かれてしまったからです。とくとくと流れ出す血とぶちまけられた脳漿と、ぐちゃぐちゃになった頭の付け根から覗く脊髄の断面ばかりが、このじっとりとした空間の中で、ただひたすらに、赤く、明るく、鮮やかでした。そしてこの世界には、これ以上の美はない、と思いました。中原中也の有名な作品がありますね、愛する者が死んだときには、自殺しなけあなりません。わたくしの中のあなたは、理想は死にました。そして小桑も死にました。この手で殺したからです。そしてこの愛に結末をつけるにはわたくしはこうしなければならないのでしょう。
それではさようなら。わたくしはあなたのことを草葉の影から見守っております。
「おまえの家の横にあるアパート、そこからこれが見つかった。」
松葉づえをついた黒髪の男がそういって分厚い手紙の束を女に手渡した。女の手はわずかに震え、顔色は青ざめている。手紙、と呼べる内容のものだったが、それはノートにびっしりと記された手書きの文章だった。文字は細かく几帳面に書かれていて、この手紙の主の性格が読み取れるようだった。そうしてページをめくっていくと、最後のページには、べっとりと赤黒く乾いた血がついていた。それはまだ新しいように感じられた。釘付けになっていた視線を男のほうに上げ、恐怖の浮かんだ瞳を空中にさまよわせながら問いかける。
「あの……男と、この蛇は」
男はすっと下を向き、刺された傷跡に撒かれた包帯をゆっくりと撫でさすった。
「……その通りだ」
部屋に無言が漂った。そうですか、と短く女が返事をしたきり何も言葉が出ない。
結局は手紙の主の望みどおりになったのだろう。この男は女に傷を残すことに成功したし、この蛇と奴の愛はもう誰であろうと手出しのできない永遠になってしまった。死は存在の確定なのだから。
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