【Session30】2016年03月03日(Thu)雛祭り

 今日は三月三日、桃の節句雛祭りで、女の子の健やかな成長と健康を願う節句の日である。

 学には兄妹が居なかったし、また女の子の友達も居なかったので、雛祭りと言う行事に縁が無かったのであるが、日本の古来からの文化であるので、大切にする必要があると思っていた。そして、おじいちゃんや亡くなったおばあちゃんから、日本の昔からの「文化」や「伝統」について良く聴かされていたのであった。


 その頃の学は日本の文化についてあまり興味を持って居なかったのだが、大人になった今になって、その大切さを実感していたからだ。それは心理学を志した時に、自分の先祖やひとのこころの在り方が、「文化」や「宗教」と言った中に根付いていると学には感じられたからであった。そしてその「文化」や「宗教」の元は、「哲学」にあると学は確信していたからだ。

 そんなことを考えながら、午前中に訪れる予定の今日子とのカウンセリングに備えていた。そして今日子は時間ちょうどに、学のカウンセリングルームに訪れたのだった。


今日子:「おはよう御座います、今日子です。宜しくお願いします」

倉田学:「おはよう御座います、今日子さん。宜しくお願いします。では早速、カウンセリングを始めたいと思います。もう一度確認しておきたいのですが、今日子さんは神戸市 東灘区に行けるようになればいいんですよねぇ?」


今日子:「ええぇ、まあぁ」

倉田学:「では、もう少しお尋ねします。あなたは家族と住んでいた、神戸市 長田区には行けなくても大丈夫だと言うことですよねぇ?」


今日子:「そんなこと、わたし言ってません」

倉田学:「あなたの依頼は、東灘区に行けるようになることですよ」


今日子:「ええぇ、それはまあぁ。でも、長田区にも行けるようになりたいです」

倉田学:「わたしは心理カウンセラーです。カウンセリングをするのに、あなたの主訴をはっきりさせておく必要があります。それが決まらないとカウンセリングは出来ません。それを決めるのはわたしではない。あなたです」


 こう学は今日子に言ったのだった。そして今日子の口から、このような言葉を聴くことが出来たのだ。


今日子:「実は先月の八日から三泊四日で、東灘区に行こうとして新大阪駅に着いたの。そして電車を乗り換え住吉駅に向かったの。でもその途中、あの阪神・淡路大震災の記憶が蘇って来て神崎川を渡る頃にパニック発作が起き尼崎駅で降りたの。そしてそれ以上、近寄ることが出来なかったのよ」


 それを聴いた学は、今日子にこう言ったのだ。


倉田学:「そうするとあなたは、まず神戸市の市内に行けるようになる必要がありますね。わたしはあなたの主訴をちゃんと把握しておく必要があります。そうでないと、わたしはあなたのカウンセリングをちゃんと引き受けることが出来ません。他に何か言っておきたいことはありますか?」


 その時、今日子は首を横に振って何も無いことを学に知らせたのだ。それから学は、今日子のカウンセリングをどのようにするか考えた。学は彼女の過去のとらわれから脱するのに、今生きていること、またこれからの人生を如何に生きて行くかといった解決志向型(ソリューション・フォーカスト・アプローチ)をベースに、彼女のカウンセリングを進めて行くことに決めたのだ。そして次回の予約を入れ、彼女とのカウンセリングを終えたのだった。帰り際に学は今日子にこう言った。


倉田学:「僕に隠しごとをしたら、僕はあなたのカウンセリングが出来ません。カウンセリングはカウンセラーとクライエントのラポール(信頼関係)があって初めて成立します」


 今日子は学の方を向いて、少し睨んだように学には見えた。そして今日子は逃げるようにその場を去って行ったのである。この日は午後から彩とのカウンセリングも入っており、約束の時間より少し早く彼女は学のカウンセリングルームを訪れたのだった。


木下彩:「こんにちは倉田さん。宜しくお願いします」

倉田学:「こんにちは木下さん。宜しくお願いします」


木下彩:「今日は寒いですね。そう言えば今日、雛祭りですね」

倉田学:「そのようですね」


木下彩:「倉田さんは兄妹はいるんですか?」

倉田学:「僕ですか、僕はひとりっ子だったから」


木下彩:「わたしもひとりっ子なんです。だから小さい頃、お父さんが張り切っちゃって高い雛人形を買ってやるって! それでお母さんと喧嘩しちゃって、あの時は大変だったなぁ」

倉田学:「そんな出来事が昔あったんですね」


木下彩:「倉田さんは小さい頃、どんな子供だったんですか?」

倉田学:「僕は自慢できるような子供じゃ無かったんだ」


木下彩:「倉田さんの子供時代の話、聴いてみたーい」

倉田学:「この時間は木下さんの話を聴く時間なんだけどなぁー」


 学は首を傾げて、彩の質問をはぐらかすよう言ったのだ。すると彩もすかさず、こんな風に言った。


木下彩:「倉田さん、倉田さんが前に言ったこと覚えていますか?」

倉田学:「いいえ」


木下彩:「この時間はわたしの『枠』です。正直に答えてください」

倉田学:「前にも言ったけど、それは『パス』します」


木下彩:「ずるいですよ倉田さん」


 そう彩は言って、学の顔をジイっと見つめたのだった。その時、学はちょっとドキッとした。それは学のこころが読まれるんじゃないかと言う焦りと、彩の瞳が学には眩しすぎたからだ。しかしその眩しさが何なのか、この時の学にはわからなかったのであった。

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