【Session10】2015年09月11日(Fri)

 まだ夏の暑さが残る日が続いているが、今日はあいにく朝からどんよりとした分厚い雲から雨が滴り落ちていた。それが夏の灼熱で温められたアスファルトに重なるや雨水が蒸発するかのような蒸し暑さと、熱せられた雨独特の匂いを感じることがで出来る日でもあった。


 学は窓を少し開け外の様子を伺っていた。外は雨が滴り落ち、学にも雨独特の匂いを感じることが出来たのだ。そして窓を閉め、学のカウンセリングルームにあるアクアリウムを見つめながら彩がカウンセリングルームに訪れるのを待っていた。約束の時間15時少し前に、彩は学の『カウンセリングルーム フィリア』に訪れたのだ。そして何時ものように彩とのカウンセリングは始まった。


倉田学:「こんにちは木下さん。あいにくの天気ですが、足元は大丈夫だったでしょうか?」

木下彩:「ええぇ、まあぁ」


倉田学:「では、早速カウンセリングに入りたいと思います。宜しいでしょうか?」

木下彩:「ええぇ、はい」


 学は彩からもうひとりの人格の綾瀬ひとみを呼び出すために催眠療法を行ったのだ。そのやり方は前回と同様に海の上に彩がいて、海の中に深く潜り海の底でもうひとりの人格のひとみにバトンを渡し、バトンを貰ったひとみが地上へと上がって来ることにより、ひとみと言う人格が現れるという方法であった。そしてこう言葉を掛けた。


倉田学:「あなたの名前を教えてくれますか?」

綾瀬ひとみ:「ヒ・ト・ミ」


倉田学:「ひとみさんですね?」

綾瀬ひとみ:「そうよ! わたしに何かよう?」


倉田学:「ええぇ。木下さんから依頼を受けまして、木下さんはひとみさんと統合して、ひとりの人格になりたいと言ってますよ」

綾瀬ひとみ:「統合すると、わたしいなくなるんでしょ! そんなのいやだぁー」


倉田学:「ひとみさん。ひとみさんの人格が無くなる訳ではないんです。木下さんと一緒になると言うことです」

綾瀬ひとみ:「でも、今のわたしじゃ無くなるんでしょ!」


倉田学:「それは、まあぁ」


 学は思った。今のままではひとみに対して、彩との統合を推し進めるのは難しいであろうと…。そして学は少し考え、深い催眠状態にひとみを誘導しリラックスさせるのにお香を焚くことにしたのだ。そのため学は沈香と言うお香を焚いたのだった。

 お線香のように細長いお香の先に火を灯して、その火を手ではたき消すと煙がすうーっと天井に昇っていった。独特の甘みのある香りがたちまち部屋全体に立ち込め、学はそのお香を香立に乗せたのだ。そして学はひとみにこう言った。


倉田学:「ひとみさん。ひとみさんがリラックスできるよう、お香を焚かせて頂きました」

綾瀬ひとみ:「いい香りねぇ」


倉田学:「では、ちょっと瞑想をしてみたいと思います。宜しいでしょうか?」

綾瀬ひとみ:「えぇー、どんなことするの?」


倉田学:「僕の声を静かに聴いてて貰えれば、瞼は閉じても構いませんよ」

綾瀬ひとみ:「そおぉ」


倉田学:「では、始めますね」

綾瀬ひとみ:「ええぇ」


 学はカウンセリングルームに置いてあるギターを自分の手元に寄せ足を組んで座り、膝の上にギターを乗せ呼吸を整えマントラを基にした『ババナム、ケバラム』と言う唄を歌いだしたのだ。


倉田学:「ババナム、ケバラム~♪ ババナム、ケバラム~♪ ババナム、ケバラム~♪」


 学はこの曲を15分近く弾き、また口ずさんだ。そしてさらにギターを止めた後も『ババナム、ケバラム~♪』と5分ぐらい口ずさんだのだった。その時のカウンセリングルームは、まるで東洋のインドで瞑想をしているかのようなそんな錯覚に陥ったのであった。そして学の声が止み、しばらく静寂の時間と空間がカウンセリングルームの中に広がっていったのだ。学はゆっくりと呼吸を整えながら言葉を発した。


倉田学:「ひとみさん、今の気分はどうでしょうか?」

綾瀬ひとみ:「そうねぇー。なんかこころ暖かいような、締めつけられるような」


倉田学:「では、そのこころに注目してみてください。その場所はどの辺でしょうか?」

綾瀬ひとみ:「うぅーん。胸の奥の方かしら?」


倉田学:「では、胸の奥の方が暖かいような、締めつけられるような感じなんですね?」

綾瀬ひとみ:「ええぇ」


倉田学:「その胸の奥の方の暖かいような、締めつけられるような感じを楽にする方法を一緒に見つけて行きましょう」


綾瀬ひとみ:「ええぇ、お願いします」


 こうしてひとみは少しずつ学にこころを開き、学はひとみのこころの奥の方にある彼女のこころを丁寧に紐解いていったのだ。またひとみ自身はこの時、学に自分のこころの奥底を観られていることなど全く気づいておらず、ある意味学が行ったこの行為は完璧な催眠療法であり瞑想で、犯罪で言えば完全犯罪に近いと言っても過言では無かった。


 しばらく、学の誘導に従ってひとみは自分のこころを動かされていったのだ。ひとみは我を忘れたかのように学の発する「仕草」「呼吸」「言葉」に同調していったのだった。このように、もうひとりの人格であるひとみのこころにアプローチしていったのである。そして一通りひとみのこころの奥を観ることが出来た学は、時間が迫って来たので何時ものように催眠療法でひとみの状態から彩に戻すために催眠療法を行ったのだった。


 学は前回と同様に海の上にひとみがいて、海の中に深く潜り、海の底でもうひとりの人格の彩にバトンを渡し、バトンを貰った彩が地上へと上がって来ることにより木下彩と言う人格に戻ることを試みたのだ。そしてこう言葉を掛けた。


倉田学:「あなたの名前を教えてください?」

木下彩:「木下彩です。わたしどうなってましたか?」


倉田学:「もうひとりの人格の綾瀬ひとみさんといろいろと…」

木下彩:「もうひとりの人格のひとみはなんと?」


倉田学:「ひとみさんのこころの奥が少し見えました」

木下彩:「それは何ですか?」


倉田 学:「今の時点ではまだはっきりしたことは言えませんが、糸口みたいなのは見えたかなぁ」

木下 彩:「そうですか」


倉田学:「解離性同一性障害(二重人格)は難しい病だから。でも、もうひとりの人格のひとみさんと、統合することについて交渉できるかも知れません」

木下彩:「そうですか、ありがとう御座います」


 こうして学と彩のカウンセリンは終わろうとしていた。そして彩の次回のカウンセリングの予約を訊こうとした時、彩から次のようなことを告げられたのであった。


木下彩:「あのー、わたしが夜働いている銀座のママが…」

倉田学:「銀座のママがどうかしましたか?」


木下彩:「わたしがカウンセリングを受けていることを話したら、倉田さんに会いたいって」

倉田学:「銀座のママですか!? 銀座のママってホステスさんですか?」


木下彩:「ええぇ。わたしが夜働いている『銀座クラブ マッド』のじゅん子ママです」

倉田学:「で、僕はどうしたらいいのかなぁ?」


木下彩:「じゅん子ママが、ママのお店『銀座クラブ マッド』に来て欲しいと」

倉田学:「それはわかったけど、いつ行けばいいのかなぁ?」


木下彩:「9月15日(火)の19時からで頼まれているんですが…」

倉田学:「ちょっと待ってね、スケジュールを確認するから。えーと、大丈夫だけど場所はどこなのかな?」


木下彩:「これがわたしのお店での名刺です。この住所に来て貰えれば…」

倉田学:「わかりました。では木下さんの次回のカウンセリングは何時にしますか?」


木下彩:「えぇーと、9月27日(日)の15時でお願いします」

倉田学:「わかりました。その時間なら大丈夫です」


 こうして学と彩のカウンセリングは終わろうとしていた。学は彩が差し出した名刺を観て、その名刺の名前が『ひとみ』と書かれてあることが気になった。たぶん彩の素性を知っている誰かがスマホで彩からひとみに入れ替わるトリガーを操っているのだと…。そしてそれがじゅん子ママなのか他の誰かなのかは、この時の学にはわからなかったのだ。外では雨がしとしとと降る、そんなアメリカ同時多発テロ事件(9.11)から十四年の歳月をこの日迎えるのであった。

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