第34話
それから、少しの月日が経ちました。
一命を取り留めた黒猫に、私は『フィル』と名前を付けました。
……というか、フィル本人だと思うのです。
やけに賢そうな目元とか、態度とかに面影があります。
彼は普段は触ろうとするとフイっと避けて棚の上とかに登ってしまうのに、私が落ち込んでいると心配そうに近付いてきます。
抱き上げると少し嫌そうな顔をしてから、膝の上で丸くなります。耳の後ろを撫でられるのが好きみたいです。
黒猫の姿になったフィルと暮らす日々は、最初は妙な感じもしましたが、次第に慣れていきました。
何しろ相手は完全にただの猫なのですから、接し方も段々とそれ相応になってきます。
今では別に、一緒のベッドで寝ても気になりません。フィルはたまに嫌がりますが、寒いと結局は布団の中に潜り込んできます。彼が一緒に寝てくれると、私は悪夢を見ないようでした。
一度だけ気付かずに、寝返りをうったとき肘をお腹にめり込ませてしまった事があります。
フィルは怒って、三日ほど触らせてくれなくなりました。ずっとタンスの上から私を睨んでいるのです。機嫌を直してもらうのに、とてもとても苦労しました。
そんな日々が続き、私はすっかり元の世界の生活に馴染んでいきました。
最近では、あの世界での出来事を思い返す回数も減ったように思います。
「フィル、ブラシかけるよ。こっちきて」
夕食を済ませたのち、猫用のブラシを取り出して声をかけます。
今日の彼は機嫌がいいのか、珍しく素直に寄ってきました。
フィルを膝の上に乗せ、ブラッシングをします。ついでに取り留めのない話もします。
最近あった嫌な事とか、テレビの事とか、もちろん楽しい事や、お気に入りの本や映画の話だとかも。
彼にブラシをかけながら聞いてもらっていると、不思議と穏やかな気持ちになるのです。恐らくアニマルセラピーというやつでしょうか。フィルはときどき、面倒くさそうな顔をしますけど。……猫なのに、器用に表情を作るものだと思います。
耳の後ろを撫でてやると、フィルはごろごろと喉を鳴らしました。
目を細めて、リラックスしている様子です。
――その時でした。
「……えっ!?」
ソファーに座っていた私たちの周囲を取り囲むように、急に光の輪が現れました。
びっくりして声を漏らします。見覚えのある、青白い光です。
見れば光には模様があるようで、それもやはり見覚えのある、幾重にもなった魔法陣の――
――。
――――。
――――――。
「おおお! 成功したかっ! ……む?」
野太い、男の人の声が聞こえました。
目を開くと、獣の耳がある人たちが視界に入ります。
……周りを見回します。
開けた空間に、青い光が満たされています。床には複雑な魔法陣。……見覚えのある場所でした。
なんだか変な表情で、大きな獣人の方が私の事を見下ろしています。
彼は確か……えっと? 舞踏会で会った人だったと思います。名前までは、出てきません。
「おかえりなさいませ、坊ちゃま、ユイ様」
聞き覚えのある渋い声に目を向けると、そこにいたのはバートンさんでした。シャム猫の獣人らしき執事の方です。
懐かしいな……と思いながら、私はとても嫌な予感がしました。
いえ、それはもはや予感ではなく、どう考えてもすでに起こった事実であるようでした。
ここはあの、獣人たちの国に違いありません。
私はまた、召喚されたようです。
「っ、え、なん、で、ええ……?」
「……ふむ。しばらく会わぬ間に、ずいぶんと仲を深められたようですな。結構な事です」
「……はい?」
座り込んでいる私を見つめて、バートンさんが深く頷きました。
彼の視線が顔ではなくこちらの膝の辺りに向いているので、釣られて私も俯きます。なんだかさっきから、妙な重みがあるのです。
「……ん? ユイ? ブラシの続きはどう……っ!?」
私の膝に抱き着くようにして丸まっていたフィルが、不思議そうに見上げてきました。
……猫じゃなくて、獣人のフィルです。
まるで私が、彼に膝枕をしているみたいになっています。
「なぁっ!? はっ!? な、なん、ななッ!?」
フィルは弾かれたように身を起こし、ぶんぶんと頭を振って周囲を見回し、大きな声で言いました。
「ち、違う! これはただ、ユイにブラシをかけてもらっていただけだ!」
召喚儀式の広間にそんな言い訳が反響し、
「左様でございますか。結構な事でございますな」
バートンさんが、やたら冷静な口調で返事をしました。
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