第31話

「っ、フィル!」


 しゃがみ込み、彼の体に手を伸ばします。でも、どうする事もできません。

 重傷を負ったフィルを揺すってしまいそうになるのを堪え、私はもう一度彼の名前を呼びました。


「フィル!」


 大丈夫!? とか、しっかりして! とか、月並みな言葉も出てきません。

 フィルのお腹の辺りから、ジワリと床に血だまりが広がりました。


 それは魔法陣の発する青白い光を受けて、やけに黒々として見えました。


「……ユイ、きみはまたフィリップ殿下を愛称で呼んで……。そうか、そうだったんだね……」


「り、リカルド、様……」


 背後から声がして振り返ると、リカルド様が血塗りの剣を携えて、私を見下ろしておりました。

 奇妙に焦点の合っていない瞳から、一筋の涙が流れています。


「きみは、フィリップ殿下と浮気をしていたんだね」


「っ!? 何を――」


「哀れなきみを、僕はずっと愛してやっていたというのに……酷い、酷い裏切りだ」


「な、」


 あまりの物言いに、私は言葉を失いました。


 裏切ったのはリカルド様の方だと、まずそう頭に浮かびます。

 でも、彼は『番』という『病気』のせいで、ミーシャ・フェリーネに操られているのです。


 次に、『哀れなきみ』と言われた事に気が付きました。

 リカルド様は私の事を、ずっとそう思っていたのでしょうか?

 それともその言葉も、番の病が彼に言わせたものなのでしょうか?


 ……心臓が痛くて、空気が吸えません。喉がカラカラに乾いていました。

 リカルド様は暗い瞳で私を見下ろし、無表情で涙を流し続けています。


「っ、」


 何かを言い返そうとして、でもやっぱり言葉は出てきませんでした。

 ぬるりとした感触に気付き視線を下げると、床についた私の片手に、フィルから流れた血だまりが触れておりました。


「何をしてるのよリカルド! そっちも私の『番』にするって言ったでしょうがッ!」


 やけに枯れた怒鳴り声がして、私はそちらへ目を向けます。


 俯きブツブツと呪文を唱え続けるネズミ大臣の隣、もはやまるで老婆のような顔になったミーシャ・フェリーネが、こちらを物凄い形相で睨んでいました。


 彼女は皺くちゃの顔をさらに歪めて、擦れた声で絶叫しました。


「ほんとに、使えない男ねッ! 突っ立ってないで、早くその害獣を始末しなさいッ!」


「……すまない、ミーシャ。だが『聖女』を殺すわけには」


「ふざけるなァ! 私を愛していないのかッ! 愛しているなら言う通りにしろォッ!!」


「……ああ、愛しいミーシャ、もちろん僕はきみを愛しているよ。分かった。この『害獣』を始末しよう」


 リカルド様はミーシャの叫びにそう答え、ゆっくりと剣を振り上げます。


 私は釣られたようにただ呆然と、彼の振り上げた剣の先端を見上げました。

 ポタリと頬に何か雫が落ちてきて、それがリカルド様の剣に付いていたフィルの血だと、どこか思考の片隅で気づきます。

 

 何もかもが、酷く色褪せて見えました。

 私には何かしなければならない事があったはずなのですが、頭の中は霞がかったようでした。


 ただただ、辛い、とか、悲しい、とか、


 そんな言葉が浮かんでは消え、でもどれも今の私には空虚に思えました。


 ……どうして?


 それが今の私の気持ちの、全てでした。


 やけにスローモーションな視界のなか、ゆっくりと剣が振り下ろされます。


 私は目を瞑りました。

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