第20話

「リカルド様っ!」


「っ!? ユ、ユイっ!?」


 私が駆け寄ると、リカルド様はぎょっとしたような表情で、一瞬だけびくりと固まりました。

 そしてすぐさまがばりと、私の肩を両手で掴みます。


 抱擁、ではありませんでした。

 それはまるで猛獣が獲物を捕まえるような、乱暴で、相手を慮る気配のない仕草でした。


「なぜここにッ! いや、そんな事はどうでもいい! ミーシャを、ミーシャを助けてやってくれ!」


「へっ!? み、ミーシャ、さんを……?」


 心の中ではずっと呼び捨てだったので、彼女の名を口にするにはどう呼んでいいのか戸惑いがあります。

 というか、顔を思い出すといまだに体が震えたりするので、ミーシャ・フェリーネの事は意図的にあまり思い浮かべないようにしていました。


 あの女が、一体どうしたというのでしょうか?

 私の顔面をぐちゃぐちゃにして殺しかけた事で、離宮に軟禁される事になったとは聞きました。

 ですが、その後の事は知りません。


 ……まさか、処刑されるのでしょうか?

 確かに憎い相手ではありますが、それだと少し、寝覚めが悪いです。


 今でも眠りは浅いのですから、これ以上心労が増えるのは嫌だな、と思います。

 なにより、彼女の死の責任など、私は負いたくありません。


「お、落ち着いてくださいっ! リカルド様っ! み、ミーシャに、彼女に何があったのですか?」


 まだ、名前を口にしようとすると緊張します。

 それと、リカルド様に掴まれた肩が痛いです。

 もはや私の頭の中からは、さっき彼に尋ねようとしていた事柄が、すっぱり抜け落ちてしまっておりました。


「ああッ、ミーシャが、ミーシャがきみのせいで……ッ」


「――っ」


 悲痛な表情を浮かべて、リカルド様が放った言葉に、私の胸はズキリと痛みを訴えました。

 久しく感じていなかった痛みです。


 ……今、気付きました。

 久しく、感じていなかったのですね……。


「きみのせいでミーシャがッ、舞踏会に出席できないと嘆いているんだッ!」


「……へ?」


 私は固まりました。

 思考停止です。


 今しがた感じていた感傷も、消えました。


 ……彼は今、なんと言ったのでしょうか?


「ああッ、可哀そうなミーシャ……。今ごろ離宮で、一人で泣いているよ……。彼女は日がな一日、やる事もないと嘆いているんだッ! とても退屈だと! ユイ、きみの、お前のせいでミーシャはッ!」


 暇なら、部屋の掃除でもしたらいいんじゃないですかね?

 窓から外を眺めるのもオススメですよ。ちょっとだけ馬車の目利きができる気分になります。

 天井の染みを数えるのはオススメしません。頭がぐるぐるしてきますから。というか本でも読めばいいのでは?


「っ、いた、痛いです、リカルド様、肩を……」


 遅れて思考が動き出し、様々な軽口が頭の中を巡りましたが、私の口から出てきた言葉は我ながらとてもつまらないものでした。

 だって本気で痛いのです。そして、目の前の男が怖くて仕方ありませんでした。

 リカルド様は、どこへ行ってしまったのでしょうか……? いえ、この人がそうなのは、分かりますけど……。


「なあ、ユイ! ミーシャを、ミーシャを助けてやってくれ! あんなところに閉じ込められて、彼女が可哀そうだと思うだろうッ!? ミーシャだって、きみを憐れんでやっていたじゃないかッ! こんなのあんまりだ――」


「痛っ、やめ、もう、やめてくださッ――」


 本気で、痛いです。肩も、心も。

 まるで、バラバラになってしまいそうでした。

 もう、やめて……


「きみが許すとひとこと言えば、ミーシャはあんなところを出られるんだッ! いつまであんな寂しい場所に、僕の大事なミーシャを――ッ、なッ!?」


「おい、やめろ。ハロウズ侯。レディーに対する扱いではないぞ」


「ぐ、うッ!?」


 突然、横からすっと伸びてきた手が、リカルド様の腕を掴みました。

 震える腕が肩から退けられ、私は抱き寄せられました。


 見上げると、知った黒髪と猫耳が目に入りました。


「フィル……」


「なっ!? で、……なぜッ! なぜだユイッ!?」


 私が彼の名前を呼ぶと、リカルド様は顔を引き攣らせました。

 そして、まるで裏切られたみたいな眼差しで、私の事を見据えました。


「ユイ、きみは……そんな、そんな呼び方をするような仲なのか。僕との事は、もう」

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