第1部 20
草に埋もれたカイとアユムはすぐには動かなかった。近寄るべきかどうか、という逡巡をいち早く振り払ったのは、やはり子ども、リクだった、いや友だちだった。
「カイ!」
その声に反応したのかどうか、草の中から起き上がった影。
「ううぅぅ……」
草葉の陰から蘇ったのは、カイではなかった。
「アユム」
リクがその名をいい終わらないうち、影が細く伸びた、黒い矢のように、リクに向かって!
黒い矢、怪物を受け止めんとリクの前に飛び込んだ六人目!
実際、リクはその場所から一ミリも動けていなかった。アユムの突進を受ければただでは済まなかったに違いない。
盾となりリクを守ってくれた影、それは白い仮面でも黒い仮面でもなかった。
リクの腹目がけて飛んできた矢を、さらに低い位置から受け止めたのは……。
誰?
「ぐぅぅ」
アユムが口から吐き出した。地面に崩れ落ちる、呻き声に、虫たちも固唾をのんでしまったようだ。胃酸の饐(す)えた臭いが風に流れる。
影が男だったことは、恐らく誰も驚かないだろう。
顔は、はっきりみえないが、リクには見覚えがないようだった。
学校の先生かと思った。知らない先生もいるだろう。
男は、アユムに近寄り、しゃがみ、少し様子を確認したようだ。アユムは静かになっていた。
男は立ち上がった、その様子から、アユムはどうやら「生きている」、どうやら「だいじょぶ」のよう。カイも、草の上に上半身を起こしていた。
男はカイのほうにもいき、なにか話しかけたようだ、カイが二度三度頷いた、どうやらこっちもだいじょぶそうだ。
男は立ち上がり、歩き出した、リクの横を素通り、黒い仮面に寄った。詰め寄った。
「なにを飲ませた、いったい、なにを飲ませた」
詰め寄ったほうが背が低い。背の高いほうが低い男に気圧されていた。
「いや、それは……」
「そんなもんつけやがって」
男がさっと仮面をはぎとった。その素顔はかなり狼狽しているようだった、顔色まではみえないが。
「わたしも知りたい、彼が飲んだものはなんなのか」
いつの間に、男の背後に仮面が立っていた。
男が振り向く、いきなり白仮面が殴りかかる、男は拳をかわしてさっと跳ねた。白仮面が加藤を背中に隠すようにして男と向かい合う。
「それは後でじっくり聞かせてもらうとしよう」
二人が向き合う。動きも言葉も沈黙すると、人の気配はすぐさま山に呑まれる。虫たちの声が姿まで消してしまう。
「おまえら、なにもんだ」
「仮面」
男の真剣さをいなすような仮面の口ぶりだ。
「子どもたちまでモルモットにするのはやめろ。子どもたちに、二度と近づくんじゃない」
男は再びアユムの側(そば)に腰を下ろすと、少年を背中に乗せた、アユムが微かに頷いたようだ、意識はあるらしい。
ゆっくりと、男は歩き出した。
「その子には悪いことをした。大人として、越えてはいけない線を越えてしまった部分があることは認める、そして謝る。すまない」
仮面が、離れていく男に声をかける。
「わたしたちが与えたのは希望だ、生きる力だ。それが事実であることは、誰も否定できない、誰も。それが例え一時的であったとしても」
「二度と近づくな」
といったのだろうか、アユムを気遣って大きな声を出さなかったであろう男の言葉は、虫の声を無視することもできず、残された仮面やリクたちにははっきり聞こえなかった。
一〇分もしないうちに、その場は完全にいつもの夜の山に戻っていた、人の姿気配はなくなっていた。
「いつもの」、しかし同じ「いつも」は二度とない、同じような、しかし決して繰り返すことのない「いつも」の山がそこにある。
……。
小林アユムに渡したものがマッドであったことを、加藤は認めた。
心底反省している、とんでもないことをしてしまった、そんな涙まで流して中島に頭を下げた。
「研究者として失格です」
辞めます、そんな勢いだった。厳しい表情態度で加藤の謝罪を聞いていた中島。
「データは、採れているのだろうな」
「はい」
即答。研究者として二度と白衣は着ません、そんなことをいい出しそうな加藤であったが。
「マッドに含まれている薬物成分のデータを、あの男の元に送ろう。治療の目安になるだろう」
「え?」
「そのくらいのことはせねばなるまい」
加藤の困惑に、中島は目をくれない。
あんなところで顔を合わせることになるとは。
こっちは仮面を被っていたが。
偶然か、必然か。
出会うことにはなっていた、それは必然。あの夜あの場所で会った、それは偶然。
――向こうも気付いただろうか。
――恐らく、気付いていただろうな。
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