第1部 12

 中学生二人のデータはかなり溜まっていた。

 運動能力は一ヵ月半ほどで目にみえて上がっていた。

 食事を毎回写真にとらせるまではしていないが、そこまで「こっち」が「結果にコミットする」必要もない。彼らは十分なやる気をもってきっちり結果を出している。

 そこまでする義理もない。授業料をとっているわけでもないし、ただで端末を貸してもいる。

 もっといってしまえば、必要なのは彼らではなく彼らのデータなのだから。

「所長も楽しんでいるようにみえますけど」

 子どもたちのデータを一緒に整理分析しながら、加藤がいった。

「仮面というのは、一つの憧れでもある、我々の世代にとってはな。彼らとの関係を遊びとはいわないが」

「本気ではない、というとこですか」

「嬉しそうな顔でそういうことをいうものではない。相手は子どもで男だ、わたしにその趣味はない」

「危ないですよ、所長」

「きみがいわせた」

 わたしだってそこまでいうつもりはありませんよ。でも、

「子どもたちに所長が慕われてるのが、割と意外です」

「それが仮面の効果というものだ。ゲームのキャラクターだ。今の子どもたちはそういうものに慣れているのだろう」

「それだけじゃないでしょ。一歩間違えればただの変態ですよ」

 少しいい過ぎたか。実際、いい過ぎだろうが、中島も気にした様子はない。

「彼らを鍛えたいというのは本気だといっていい。彼らに思い入れは確かにある、変な意味ではなくな。そして、確かに、彼らの成長を知り、数値でみて、嬉しいという感情のあるのは疑いようがない」

「教師とか向いてるんですかね」

「向いているのさ、わたしは。目的を明確にし、向上心を煽り、具体的な数値で彼らを把握しアドバイスする、目的達成のためのツールも与えた。ときに壁にもなる」

 壁?

「ときに突き放す」ということだろうか。

 加藤はちらっと中島所長の横顔を盗むようにみる。黙。

 加藤が、キーボードを叩くリズム、マウスのクリック、それまでの会話を瞬時に忘れかけて操作に没入しかけた、

「冷酷だからな、わたしは」

「え?」

 思わず振り向いた、所長中島は小さく笑っていた。加藤は務めて、作業に没頭しようとした。

 中島の笑顔が、まるで仮面のようだった。

「そろそろマークを使ったデータを取り始めるか」

 そのセリフを半ば聞き流しつつ、加藤は

「はい」

 とほとんど首を動かさず、しかしはっきりと口にした。


 ジープが西へと走っていく。数字六桁のナンバー。自衛隊の車両だ。

 左手はなだらかに下っており、緩やかな斜面には住宅や田んぼが広がる、その遥か先の市街地は青く霞がかっていた。

 初夏といっていいような陽気の、長閑(のどか)の一言に尽きる景色に目を細めて眺め入る……。

 そんな暢気なものは、この車の中には一人もいなかった。妙な(半ば無用な)緊張感が車内に張り詰めていた。

 ジープは道なりに西へ西へと向かっている。

 この道路の先には。

 大きな橋の手前の信号を左折、しばらく下るとそこには、農業大学校がある。

 ジープの向かう先も、まさにここだった。

 過剰なほどの緊張感を運ぶものたちが向かうのは、まさにこの農業大学の地下研究所だ。まさに、中島のもとだった。


 いつかの会議室にパソコンとプロジェクターをいつかと同じく準備万端整え、中島と加藤は滑稽なほどの緊張感が到着するのを、今まさに待っているところだった。

 中島たちが自衛隊の人間にみせるデータは、リクとカイから得られたデータとはまるで違うものである。

 ある男性のマイクロバイオームをもとに作られたマーク、そのマークをもとにして作られた、中島や加藤が「MD(マッド)」と呼んでいる薬のデータである。

「MD」の「D」はドーピングである。マイクロバイオームドーピング。

 超人的な身体能力を持った男性のマイクロバイオームとドーピングを合成し、従来のドーピングより「効果が高くかつリスクの少ない薬」を作ろうという研究である。

 マイクロバイオームとステロイドやヒト成長ホルモン、あるいはアンフェタミンなどの興奮剤を組み合わせ、身体能力を飛躍的にかつできるだけ長い時間向上させるための研究。

「前回からなんかしら改善されているようにみえないんですが」

 中島のプレゼンが終わる、一人が手も上げずなんのサインも出さずに口を開く。居丈高な眼鏡にみえた。眼鏡は飯島という。

「AIなどを使ってもっと効率よく研究できないもんですかね」

「もちろんAI使ってますよ、シュミレーションにも、データ解析にも」

 加藤が思わず反論する。眼鏡は加藤に見向きもしない。

「じゃあソフトが悪いのか、性能が悪いのか。なんならうちのスパコン使いますか?」

 加藤の感情の頭を抑えるように中島が口を開いた。

「我々のやろうとしていることは、化学物質のみを使うドーピングではない」

 穏やかさを突き通すように中島がいい切る。

「人一人の体には一〇〇兆個の微生物が棲んでいるといわれている。今まで、わたしたちは彼らを文字通り小さくみすぎていた」

 ――こいつら。

 憤りを隠した加藤。飯島が前の背広の耳になにか吹いている、中島の言葉を逆の耳から押し出すように。

「これまでは、彼らを知る段階だった。好きなもの嫌いなもの、彼らの機嫌をとるために、なにが最適か。話し合っていた。その会話も十分重ねてきたといえる。次のプレゼンのときはもう少しましなデータをおみせすることができるだろう」

 ふっ、と飯島が鼻で笑ったのを、もちろん二人はみている。

「普通のドーピングが欲しいのなら、もうここにくる必要はない。いや、それがダメだったからここにきているのかと」

「おい」

 眼鏡の向こうの背広が発する。中島は続ける。

「いまや、自衛隊が赴く場所は非戦闘地域ではない。PKO参加五原則は既に形骸化しているといっていい。彼らがいく場所は、紛争地帯、そこは即ち、戦場でしょう」

 一番前の背広が口を開く。

「日本の自衛隊員とて、銃の後ろで固唾を飲んで見守っていればいい、というわけにはいかん。日本の置かれた状況を鑑み、また国際情勢を鑑みれば、我々とて『参加五原則』などとお題目を唱えていられる立場にはないのだ。部下の命を守らねばならない」

「彼らの命を守るために、彼らをすぐに強くしろと」

「戦死者が出れば世論が変わる、などと思わないほうがいい」

 加藤の思ったことを、偉そうな背広が否定した。

「一人戦死者が出れば自衛隊のPKO参加、紛争地帯派遣に逆風が吹く、いや、わたしはそうは思わない」

 一つ息を吸い、静かに吐いた。

「一人の戦死者が大日本帝国復活の引き金になるのではないか、わたしはそれを危惧している」

「なるほど」

 その後、質問とも雑談ともつかない言葉を交わして全員が席を立った。

 入り口で見送る中島に、偉い背広が「期待している」と言葉をかける、中島は「はい」とほんの僅か頭を下げた。

「わたしも期待してますよ。〝いいもの〟だけじゃなく、なるべく早いほうが、お互いのためにいいと思いますけどね」

 飯島の言葉は、不意打ちに。いちいち人をイラつかせる。

 中島から見下ろした飯島の半分に欠けた顔、見上げてくる一つの視線に、中島の鼻の奥がざらついた。顔をしかめそうになった。仮面が欲しかった。




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