セオル (重複のみ)



  残念ながら、今も昔も、親には恵まれなかった。


  それを思い出したのは、初めてダナー家を訪れたあの日。


  王太子の身代わりに、死の国と噂されるダナーに送り出された。


  氷の様に冷えきった城の中で、そこだけが異様に明るく暖かい室内。ダナーの家人に囲まれる、笑顔の赤ん坊を目にした日。王城に戻ってから熱が出て、寝込んで過去の記憶がよみがえった。


 *


  六歳の年、ランドセルが買えないから、まだ行かなくていいよねとママに言われて、毎日マンションの階段で遊んでいたら、お姉さんに話しかけられた。


  初めは『おはよう』とか、『こんにちは』とか。


  お姉さんは、マンションの隣の部屋に住んでいる。


  それから少し経ってから、たまに階段でスマホゲームしていたお姉さんを横で見ていた。


  『やってみる? この先が進まないんだよね。境界のフェアリー』


  『お姉さん、愛って名前?』


  『名前? ああ、フェアリーは名前を入れないと、勝手に愛ちゃんが出てくるんだよ。愛称を入れてねってやつ』


  パズルゲームやバトルゲーム。恋愛ゲームを手伝ってあげる。


  『上手いね』


  『ママのゲーム、手伝ってるよ。わかんないところ、僕がするの』


  『わかる。大人って、自分がわかんないスマホ操作聞く時だけ、なんかベタついてくるよね』


  それはお姉さんも同じだよねと、あの時は思ったんだけど、たまに階段でゲームしていたあれはきっと、僕に話しかける口実だったんだ。


  お姉さんはゲームを攻略してあげると、必ず僕にありがとうとごめんねと言って悲しそうに笑う。


  その意味が、あの時は分からなかった。


  僕は、隣の扉が開いて、お姉さんが出てくるのを待つようになった。


  ある日そのお姉さんが、僕に驚いた顔をして、直ぐに扉を閉めてしまった。それにすごく落ち込んだけれど、また開いた扉から出てきたお姉さんは、手に何かを持っていた。


  「知らない人に、物をもらってはいけませんて、知ってる?」


  「……」


  「でも君と私は知らない人ではないから、大丈夫」


  「?」


  「食べなさい」


  お姉さんがくれたのは、コンビニおにぎりよりも、少し大きいおにぎりだった。


  「遠慮はいらない。早くして、口に入れて」


  きょろきょろと周りを見て、迷っていた僕を急かしてきた。ラップに包まれたおにぎりは少し固かったけど、でも中に卵焼きとソーセージが詰まってて、温かくて美味しかったのを覚えている。


  「大丈夫、誰も見てないよ」


  その日から、いつも何処かを見ながら、お姉さんは会うたびにおにぎりをくれる。


  それをあの男に聞かれて、自慢に教えてやった時は何故か殴られなかったから、だからお姉さんに、僕は毎日会いたかった。


  パパと暮らした家から出て、ママと僕の二人になってから直ぐに、あの男は部屋に来るようになった。


  よく分からないことで殴る蹴るは当たり前。理由もなくすぐ怒鳴る。動くと物を投げつける。煙草の火を押し付ける。悲しかったのは、ママと一緒になって、パパに似てるって笑われることだった。


  今思うと、あそこには居なかったパパが、いつか助けに来てくれるとでも思って生きていたのかもしれない。


  その彼が、自分を捨てた事など気にもならないほどに、あの状況から救われたかった。


  毎日、


  いろいろ考えない様に息を潜めて生きていた。


  しばらくお姉さんに会ってない。


  自分のラッキーアイテムみたいに考えてたお姉さん。


  そのお姉さんが、突然部屋に入ってきて驚いた。


  昨日の夜に蹴られたお腹がすごく痛くて、いつもより気持ちが悪かったから、きっと助けに来てくれたんだと思った。


  『行くよ!』


  言ったお姉さんは僕に手を伸ばして、でもお姉さんの後ろに、あの男が入ってきた。


  『やめて!!』


  叫んだつもりだったけど、喉も痛かったから、掠れて大きな声が出ない。


  自分を助けに来てくれたお姉さんの頭が叩かれ床に倒れて、それを護るように必死で飛び付いた。たけど蹴り飛ばされてまた殴られて、その時、お姉さんを護れる力があったらいいのにって、それだけを考えて終わった。

 

  *


  熱が下がり一人で目が覚めた真夜中。


  汗をかいた身体は冷えて、薄暗くて広い部屋には月の光が射し込んでいる。


  何故かその時、思い出したのは暖かい部屋の中で笑いかけてきた赤ん坊。


  「あの子は、きっとだ」


  不思議な確信があった。



 

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