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  少年は、男と寝所に行くことが嫌だった。


  だが灰色の祭司である親から、それは必要な事だと教えられ、幼い頃から通わせられた。


  祭司の中でも、階級の低い女祭司が主祭司に認められ男児を産むと、母親として共に暮らせる者もいる。


  呼び出しに少年が行かないと、母親が境会裏にある、古びたみすぼらしい場所で働かされると泣き崩れ、それを言われると断ることが出来なかった。


  その日も老人と共に寝所に入り、苦痛に耐えて森の中の泉で身体を清める。


  何もかもが嫌になり、灰色の空の下、瓦礫の中でぼんやりと赤い紋を見上げていた。


  ーー「離しなさい!!」


  大きな声に驚いて、声のした方に向かい、崩れた柱の影から教会跡地を覗き込む。すると、そこには絵に描いた様な、美しい黒髪の男女が抱きしめ合っていた。


  真白い肌に蒼い瞳は宝石の様で、離れた少年の場所からも赤い唇が見える。


  普段は目にする事の無い本物の美しい少女を見て、初めて頬が赤くなり心が早鐘を打った。


  「……あれは?」


  男の顔に見覚えがあった。


  境会内でも忌避すべき盗賊の血族。そのエンヴィーが、美しい少女と抱き合う姿に黒い感情が芽生える。


  よく見ると、離れた二人、少女はエンヴィーから逃げるように後退りしていた。


  「そういえば、離しなさいって彼女は言っていた」


  泉に向かって行く二人。少年は、下位の祭司を懲らしめるために、急ぎ大聖堂に向かって走った。



 **



  西の部隊から別れたアーナスターは、単騎で速駆けに王都にたどり着いた。


  グラエンスラーから受け取った報せの内容に、境会がリリーを狙っているとの短い一文があり、それで全てを察した。


  (奴ら、リリー様に指一本でも触れたら、許さない)


  一直線に目指すのは境会の大聖堂。その近道に、森を抜けようと学院の正門を目指すと、休校に閉ざされていたはずの門が、人気も無いのに開かれたままだった。


  怪しげなそこに迷わず飛び込み、騎乗したまま学院裏手を目指すと、森に向かう数人の灰色の外套祭司が侵入者に気付いて道を塞いだ。


  だが速度を緩めず突き進んだ美しい茶色の馬。


  「ぐぁ、」「がっ」


  怯んだ祭司たちは、何故かアーナスターが通りすがると苦鳴と共に崩れ落ちた。


  対パイオド戦を想定して、遠距離部隊を強化している。遠方からアーナスターの周辺を護る狙撃部隊は、遥か遠くに待機していた。


  同じ様に道を塞いだ祭司が次々と倒れる中、冷たい金色の瞳はそれ一瞥すると、地に伏せた障害物を巧みに躱して森へ入った。



 **



  静かな泉の畔に時おり聴こえるのは、森の奥から響く鳥の呼び掛け。


  蒼い瞳は、きょろきょろと周囲を見回し、こちらをまともに見ていない。リリーの上げられた片手、それを拒絶と捉えていたエンヴィーは、「お互いが想い合って、お互いが同じ気持ちでないと、意味がない」という言葉の意味を考えていた。


  (拒絶では、意味がない?)


  「貴方、親の血筋とか、他人の評価なんてどうでもよいから、自分がここに居るって、ここに立って居るって、まずはそれだけ考えたらどうかしら?」


  ゆっくりと後退るリリーを追って考えていると、深刻な表情で質問された。


  「血筋それが無かった故に、愛を与えられなかったんだ」


  「そうね、そうなのよね。ならね、それは取りあえず置いておいて、行きたい所とか、好きな場所に行けばいいのよ。……そうね、お買い物でも、お散歩でも、お手洗いでも、行きたい所に」


  「場所は、与えられていない」


  「そう……ならね、食べたい物でも食べたらいいわ。きっと、お腹が美味しい物で満たされれば、そこに幸せとか感じられる」


  「腹が減れば、動けるのに必要な栄養を摂取する。味に意味はない」


  「そうよね、そういう考えもあるかもね」

  「…………」


  何かを考えてこんでいる、無言で泉の畔を少し進んだところで、エンヴィーを拒絶していたリリーの手が下ろされた。


  それを許可だと理解して、踏み出した一歩と共に手を伸ばした。


  「!!」


  だがエンヴィーが伸ばした手に見開かれた蒼い瞳、そして再び強く拒絶の片手は上げられた。


  「貴方、愛って何? みたいな人によっては意見の変わる悩みより、私が何故、貴方と同じように、この場で動けるのか、その答えを知りたくはないの?」


  「?」


  自分に翳された拒絶の白い手を見て、エンヴィーに苛立ちが込み上げてくる。


  「私と貴方の共通点、それなら直ぐに答えてあげるわよ!」


  その言葉に、エンヴィーは愛を与えてもらうより、呪いから外れたリリーを自分の元に引きずり下ろそうと考えを変えた。


  「何をしている!!」


  「?」


  厳しい声に振り返ると、ここには居るはずの無い男が立っていた。


 

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