第48話 羽子伝
大全、確かに統が言った。
「大全、とはどういう……」
聞き馴染みのない言葉だ。大全を編纂せよ、とは何を指すのだろうか。
「朕はそなたにこの辰国開闢以来より続く、全ての殿中曲、高名な楽人、曲に関する故事や背景などを全て書き起こしてもらう」
「……」
想像がつかない。殿中曲だけでも百はゆうに超える。その中には楽譜が散逸してしまい、名前だけの物も少なくない。それを作った楽人たちの事もまた、雲散霧消してしまっている。
のしり、と時間が羽の背中に乗っているような気がした。
「元はそなたの叔父、曹符に下した命であったが、事情があり、今まで保留となっていたのだ」
「それは……、と、とんでもない事です」
なにも一人ですべてを記録しろ、というわけではないだろうが、それでも羽に課せられるにはあまりにも大きな仕事だ。まだ元服して数年しか経っておらず、宴には出たものの、何も功績も残せていない。それなのに、任された仕事は下手をすれば永遠に残るものだ。
「我が国は楽を中心に成り立ってきた経緯があるのは、そなたも知っての事だろう」
だが、と統が言う。
「長い時を経て、その楽の全容が分からなくなりつつある。そなたが聞いたという遠吼孤虎もその一つだ。殿中曲は、代々の皇帝が継いできたものである。これはたとえこの国が滅びようと、残り続けねばならぬ。ゆえに、朕は大全の編纂を命じたのだ」
事情は分かっている。けれど、自分でできるのか、という不安が目の前に立ちふさがる。
「楽を作ることがどのようなことか、身に沁みて分かったろう。ゆえに、そなたにこの命を授ける」
祖父や父が言っていたのはこの事なのか、と心の中で呟いた。あの策であれば、できなくはないだろう。けれど、彼は正統後継者争いで犯した過ちにより、その命を果たせなくなった。それから十数年の間、その命を果たせるだけの人物が周家から現れなかった。
―――― けれど、自分がいる。
陛下が何を思い、自分に気をかけてきたか分かる。力量を図られていた。どのような曲を作るのか、どのような思いを込めるのか、それらを見定めに。その思いに自分が答えられたからこそ、ここにいるのだ。
「……陛下。承知いたしました」
「あぁ」
頷いた途端、統の表情が蛸みたいに柔らかくなる。にへにへと喜色満面に羽に近づき、両手をとって上下に振り回す。
「よかったぁ!!! 君の父上、僕の琵琶の師匠様なんだけれど、権殿みたいに断られたらどうしようかと思ってた!」
「はぁ!?」
師弟関係なら、以前統が琵琶を弾いた日、父が血相を変えて飛び込んできた理由がはっきりする。突然息子の部屋に陛下がやってきて琵琶を弾いていたら、そりゃ血相を変えて飛び込んでくるしかないだろう。
「策の奴もさ、大全を作れば周家に戻れるよー、って何度も誘ったのに、逃げ回るし。だから、ずっと待つつもりでいたんだよ。君みたいな才能ある子が現れるまで」
「才能……」
ずっとないかと思っていたのに、言われてしまうとなんだかあっけにとられてしまう。
「それにね、僕と君はよく似ているなぁ、と思っていたんだよ」
「?」
「君はずっと正統後継者になる事を心のどこかで拒んでいただろう」
「否定はしないな。子牙兄ちゃんがいたし、俺より上手くできる弟子はいた。でも、父上やおじい様が俺を正統後継者にした」
「僕もそう。兄上様達がいたから、僕は臣籍を与えられて、普通に生きていくものだと思っていたんだ。けれどね、それだけじゃ駄目なんだな、って君を見て思ったんだ」
「?」
「父上が身罷られたことはまだ重臣と、今しがた伝えた君しかしないことだ。誰も僕を知らない。まだ王子がいた事なんて、一部の者しか知らない」
「あっ!」
「ずっと父上の事は伏せていた。それは僕が皇帝になるのをずっと拒んでいたからだ。折を見て、優秀な誰かに引き継がせて、どこかに隠れようって。でも、君の九星八十八を聞いて考えが変わったんだ」
両手を腰に当て、統は上を見上げた。天上の上には広がっているだろうか、星の天図が。
「僕しかこの国の民を導けないのなら、やるしかないのだろう、と。ずっと父上の威光に隠れ、やり過ごすだけの日々は終わったのだ、と」
「………」
それは、聞きようによっては羽の曲で人を動かしたという事だ。そんな事、ありえるのだろうか、とも思えてきた。しかし、目の前の統の姿は生き生きと、そして力強く感じた。
「だから、君に僕の国の事をもっと教えてほしい。よりよい方法で、民を導けるように」
「―――― はい!」
羽は大きく頷いた。
こうして、羽にとって生涯最大の偉業となる殿中曲大全、のちの世には”羽子伝”と伝わる大事典の編纂が始まったのである。羽子伝は全三十余巻にも及び、それぞれ楽曲の章、楽人の章、そして指南の章の三つに分かれる。
楽曲の章には殿中曲だけではなく、地方の民謡や田植え歌や網牽き歌といった仕事歌なども記載されている。収録楽曲は長短合わせ五百を超えている。
楽人の章は、多くの作曲者、演奏者、そしてそれらを支える人々の生きざまがありありと載っており、当時の生活を思わせる歴史的価値の高い物になっている。
そして最後の指南の章。これが、周羽の最大の功績と言ってもいいだろう。彼は楽譜だけでなく、どのように奏でればよいのか、また人に教えるときはどう伝えればよいのかを事細かに記載していた。これは長い間、己が楽器が弾けないと思っていたことに起因していた。また、周家という存在も大きく、彼は身近な楽人たちからの言葉から、よりよい表現を模索していたように見受けられた。
羽子伝の編纂には実に二十年余りもの時間を要した。当主としての責務を果たしながら、諸国を回りその地の人々と真摯に向き合う姿勢は、その当時の官吏の手記からもうかがえる。彼は行く先々で人々に己の楽を披露してまわった。叔父のように殿中曲を広めることはなかったが、彼自身がその土地で感じた音を奏でていた。
活気にあふれた港の町には波の音を、山岳に囲まれたひそかな村には木々のさざめきの音を。
彼は生涯を楽に捧げていた。多くの弟子に囲まれ、その者の実力と願いに合わせて教えていた。三人いる息子たちは楽士に進んだ者もいれば、母の影響で武将に進んだ者もいたが、羽は子ども達を支えていた。
人々に常に寄り添い、その道を照らす彼の姿勢を人々は敬愛を込め、楽の仁神様、星天様、と呼び語り継いだという。
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