第36話 見果てぬ桃源郷
間違えた。
失敗した。
完全に油断していた。
(御曹司……どうしてこのようなことを……)
塩と砂糖の区別のために括りつけていた紐を、雛の前で入れ替え、そして嶺に持ってこさせた。入れ替わりなどなかったのならば、嶺は本来の色である青い紐をつけたひょうたんを持ってくるはずなのだ。だが、嶺は知っていた。
入れ替わったことを知っているのは雛だけ、けれど会う事のない嶺が知っている。
完全に悟られたろう。
弟や夫は分かっていて、黙っていてくれた。なのに、あの少年は現実を突きつけてきた。
―― お前は雛ではないのだと。
いや、はじめから分かっていたのだ。あの少年はただ甘やかされ、幸福を享受するだけの人形ではないのだ。少年は与えられた定めをそれと同等の決意をもって進んでいる。
(御曹司は、きっと純粋な疑問からなのだわ)
部屋に逃げ込んだ。それは、嶺ではなく、片割れの部屋。不審に思われないように手入れが行き届いているけれど、雛の趣味に合わせた華やかな花模様の掛け軸が並ぶ部屋はどこか自分の居場所ではないような気がした。
(それもそうよね、私は雛ではないのだから)
でも、人々は雛を見ている。あの子の線も、あの子の色もずっと研究してきた。だから、伯燕という名の雛の幻影を自分は描き続けなければならなかったのに。
―― あの子の婚礼の屏風を描いてあげて。
雛の線に雛の色をのせればいい、と思っていた。でも、その絵は今まで見てきたどの雛の絵でもなかった。今までの雛の色では、線の味を消してしまう。かといって、自分の色は乗せられなかった。
これは、雛の絵だから。雛の絵をもっと研究すれば、きっと見つけられるはずだ、とそう思いながら今日が来てしまった。
ふらふらと布をかけている屏風に近づいた。布をとれば、それは目に迫ってくる。
黒曜石の様に艶めく岩肌に、力強く波打つ海が描かれていた。岸辺には不変の緑をまとう黒い幹の松、そして空には瑞雲がかかる。花や動物の絵を得手とし、そればかり描いてきた雛の絵ではなかった。別人の作品のようなそれを見た時、どうして自分ではなかったのかと、言葉にしようのない感情が渦巻いた。
婚礼の屏風なのだから、分かりやすい花の絵だと思っていた。けれど、雛が描いたのは白砂の輝く海岸の絵だ。
理由は分かっている。雛がまだ歩けた頃、一回だけ三人で見ることのできた世界だからだ。淳が好きだと言った光景。
ざぁ、ざぁん。ざざ、とぉん。
線だけで伝わってくる。雛はこの絵を描くことで、弟の記憶に残りたかったのだと。三人で一緒に歩いたこの砂浜を思い出してほしかったのだ。
「くっ、うう……」
だから、描けない。あの子の遺志を自分の色でかき消してしまうのではないか、あの子の思いを自分は塗りつぶしてしまうのではないか、と。ならばこのまま黙っていればいい。いっそのこと、そう。
嶺はそっと近くにあった火打石に手を伸ばした。
「燃やして……」
「駄目だ! 嶺さん!」
「御……曹司?」
部屋に駆け込んできた羽は肩で息をした。
「嶺さんを試すようなことをして本当にごめんなさい! けれど、俺はどうしても嶺さんの誤解を解いておきたくて!」
「誤解? なにがです」
高くのぼっていく月の光が部屋を満たしていく。冬の月の冴えた光が熱くなっているだろう少年の体を冷ましていく。
「その絵が、淳の婚礼の屏風、ですか?」
「ええ、そうです。この絵は雛の物です。おそらくあの子の最期の作品でしょう」
「その絵は、嶺さんの色で完成するように設計されているんです」
「どうして、そう思われるのですか? 確かに、あの子にしてはしっかりとした線を引くと思っていましたが……」
羽は嶺が早まったことをしていないことに安どした。音楽ばかりしていたせいで、絵画のことなどあまり分からない羽ではあったけれど、同じ”美しいもの”を目指すものとして、分かる事はある。
「その絵は雛さんが嶺さんの色をのせることを前提として描かれているんです。その証拠に、こちらの日記があります」
羽は書府で見つけた雛の日記を例に見せた。
「それは……あの子の日記、ですね。まだあったのですね。父上がすべて処分したと言っていたのに」
「これだけは手放せなかったんです。屏風についての記述があるから」
「父上が……?」
嶺が困惑している中、羽はぱらぱらとめくっていく。そして、糊で貼り合わせていた場所を開いてみせる。
「ここに絵についての記述があります。どうか、読んでください」
「ええ」
日記を受け取る。その表面はとても傷んでいたけれど、あの子の字だ。何度も見返してきた。だから、隠されていた分があったなんて思いもしなかった。
『今日、あの子の屏風絵を描いてみた。でも、きっと完成させるには私の命が続かないのだろう』
『嶺なら完成させてくれるだろう』
『嶺の色は絵に合わせて柔軟に変えていく。どんな難しい色だって使いこなせる嶺なら、屏風絵に載せる色が分かっているはず』
『賢い嶺だもの、難しく考えているに違いない』
『嶺にはどうか私に出せなかった色を出してほしい。あたしにはたどり着けない天を目指してほしい、嶺ならきっとたどり着く。あたしの思いも一緒に』
――なぜなら、私たちは伯燕なのだから。
「…………」
「嶺さん、どうか色を塗っていただけませんか? 誰でもない、嶺さんの色で」
「…………でも」
「雛さんの願いは二人で屏風絵を完成させること、ならば嶺さんの色でなきゃだめなんです」
「私に、この線を塗りつぶせと、そうおっしゃるのですね。私が今までどれだけあのこの絵を模写してきたか……」
嶺の声色がどんどんと色あせていく。弱々しく吐き出される声は傷ついた鳥のようだった。
優秀なものに囲まれていたせいで己の才覚を見いだせなかった羽にとって、今の嶺の気もちは分からない訳ではない。絵を描くための力が彼女にはなくなってきているのだと思う。長い事、雛の幻影を身にまとっていたのだ。己ではない誰かだと偽ってきた。
「策叔父上はこの事をご存じなのですか?」
「ええ。ですが、誰もこのことに触れてはきませんでした。私と雛は一心同体。いいえ、あの子が生きるべきだったんです」
「嶺さん……」
「この絵を完成させたい気持ちはあります。けれど、この絵を完成させてしまったら、きっと私は雛ではなくなってしまう。今まで積み上げてきた雛の色ではないから」
「でも、嶺さんは嶺さんでしょう!」
「分かっています! 分かっていますが、今の私にはこの絵を完成させるために大切な何かが、分からないのです!」
時折、描いているのが嶺なのか、雛なのか分からなくなることがあった。それでも、何とか描いてこれたけれど、この絵を完成させることになり、私は完全に何かを忘れていた。
「淳の奴、楽しみにしているんですよ、多分。何も言わないってことは、それだけ待っているって事でしょうから」
幼い頃、時々姉の話を聞かされた。海辺に出かけた日の事を姉が絵にしてくれると嬉しそうに話していた。姉は絵を描く人だ、と聞いていたけれど。まさかあの伯燕先生だとは思わなかった。
「……」
「そうだよ、嶺さん。雛さんはいつも言ってたじゃないか。二人で伯燕なのだから、どちらが欠けても、永遠に残り続ける絵を描き続けようって」
「!?」
嶺の視線が羽の背後に向けられた。羽もふりかえると、一人の男が立っていた。いきなりあらわれた策は、目を見開いている妻に語りかけた。
「嶺さんが雛さんの事を思っているのは痛いほどわかる。けどね、雛さんは嶺さんにしか描けない絵を託したんだよ。俺にはとんでもない兄上とおっそろしい姉上しかいないから分からないけれど、雛さんの一番の望みは嶺さんに自分の絵を描いてほしい事だと思う。伯燕であっても、嶺さんの絵を」
「あなた…………。なんで、ここに」
それもそうだ。追いかけてくるにしても、遅い方だ。気まずい雰囲気を感じ取ったのか、はぐらかすかのようにそっぽを向いた。
「ちょっと雇い主から厄介ごとを吹っ掛けられそうになったから逃げてきた。あの方らしいや。兄上に告げ口しそうだし」
「おっさんもこの絵を知っていたのか?」
「もちろんだとも。雛さんが描いているところを見てもいる。雛さんはこの絵を伯燕として完成させてほしいわけじゃないって言ってたんだ」
「…………?」
「嶺さんとして、完成させてほしいと。二人で淳を祝えるように描いたんだってさ。嶺さんの事だから、屏風絵を雛さんに託して終わりそうだったから、途中までにしたのかもね」
「……あの子らしい」
幼い頃からそうだった。何事も二人で分けていた。全く同じものを、同じだけ分け合うのだと言っていた。いずれ別々の家に嫁ぐかもしれないから、それまでは分け合おうと。
―― 一緒に天を目指しましょう。
「家は今どうなっているのですか?」
嶺はうつむいたまま策に問いかけた。思ってもみない質問に策の表情が子どものようになった。
「え? ええっと、そのまま、かな?」
「食べ物は?」
「棚にはしまったよ、子ども達が片付けてくれて。食事も近所の方々が都合してくれたよ」
「衣や手ぬぐいは?」
「それも子ども達が……。洗い物はまだ籠にしまったままだけれど、それも何とかなるって近所の方が。多分、一緒に洗ってくれると思う」
(ここまで家事ができないと周家の人間だとは思えないな……)
一通りの家事を叩きこまれてきた羽は信じられないようなものを見る眼差しを叔父に向けた。一体どんな幼少期を過ごしたのだろう、と。洗濯や料理はおいておくとして、食べ物を棚にしまうくらいできないのだろうか。
この叔父は周囲から大きな赤ん坊か何かだと思われているのかもしれない。そして、何とかしてやらねばという気持ちにさせる感じも出している。笛以外何もない男、と言われても仕方ないかもしれない。
「まったく、仕方のない方ですね」
そう言うと、嶺は大きなため息をついた。そりゃそうだ。叔父でなければ、頭を掴んで頭を下げさせ、一族の人間として謝るところだ。
「嶺さん?」
「なにぼやっとしているのですか。あなたには笛しかないのでしょう」
嶺は棚から真新しいたすきを手にし、袖をまとめた。彼女は振り向かず、画材を広げた。
「早く絵を完成させて、家に帰らなければ夫の面倒を見きれないだめな妻だと思われるではないですか」
(あれ、嶺さんの雰囲気が違うような)
消えそうだった灯火が、また赤々と輝いているように感じた。
「じゃあ、嶺さん。俺達は出て行きますね」
「御曹司、あとの事はお任せしてもよろしいでしょうか?」
「片付けは淳を呼んで何とかします」
「嶺さん」
「なんでしょう」
「俺はずっと嶺さんの絵が好きですよ」
「…………ふがいのない」
小さく聞こえた悪態に、羽は気づかないふりをした。嶺の中で何かが変わったのだろう。描かなければならないものから、描きたいものにかわった。それだけで、こんなにも雰囲気が変わるのだ。
嶺が絵を完成させたのは夜明け間際だった。朝焼けの中で広げられた屏風絵は、まるで桃源郷のように美しく、そしてみる者を満たしていく何かがあった。絵の中に引き込まれそうになり、羽は目を閉じた。どこまでも広がっていく青い世界は、山に囲まれて育った羽には眩しく感じた。
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