第18話 栴檀の朋
演奏を終えた、と気づくまで時間がかかった。2つの二胡が奏でる旋律は静かな力を持って場を支配していた。羽はちょっと背伸びをして后の侍女達の表情を伺った。
(まぁ、そうなるな)
誰もが目を見開いて二人を見下ろしている。無表情を貫く彼女たちはいっせいに口を袖で覆っている。音に心を奪われているのが見て取れた。彼女達は素人ではない。噂によれば良家の子女だから幼い頃から楽を聴いてるはずだ。それに宴にも参加しているのだからある程度の知識と感性はあるといっていい。
びり、びり、びり。
あぁ、手が震える。足もすくんで棒立ちだ。驚きが度を超えるとこうなってしまうのか。誰も口を開かない、否、開けない。余韻を消しかねないからだ。
「懐かしい」
そう、上座の長椅子から囁き声が聞こえてきた。后の声だ。
「見事后陛下の望みの曲を持ってきた。周福殿、そして白露村の栴檀よ」
上ずった声で役人が無駄に大きな声で叫んだ。その声を聞いたとたん、澄がこちらを向いた。
「や、やりました!!」
「うわっ!!??」
羽の両手をつかんで澄が上下に強く振り回した。いきなりの事で羽は目が回りそうになる。
館を出た後、羽は後ろを振り返った。かすかな声に背後を刺されたような気がしたからだ。
「どうして……なのですか」
「……」
先程の曲に己の全てを捧げた男がよろよろとした足取りを羽に向けた。寮へ戻る道はきれいに掃き清められていて、両脇には灯台躑躅の木が植えられていて、地面を赤く染めている。
「どうして、私に何を言わないのです?」
後宮から出る道は1つじゃない。なにも一緒の道を通らずにそのまま家に帰ってもなにも言わない。
「編曲譜を探すことは大叔父上にとって大切なことなのでしょう」
「……ええ。私が今まで見てきた中で一二を争う名手に育った李原の遺したものを見てみたかったのです」
「言ってくだされば、私は……」
澄が口を開きかけて閉ざした。楽譜を託された意味を見失いかけそうになるのを、すんでのところで留めた。
「すごい曲だった」
「はい……それはもう、私の弟子が」
「違う! 大叔父上の腕前がだよ!!」
2人が息をのむのが分かる。羽は頭を雑にかき回すとはぁ、吐息をつく。
「こう立て続けに楽譜の窃盗があるのは、うちの警備が甘すぎるということにしておくとして、それでもあの二胡はそんじゃそこらの楽士じゃ出せない音だった!!」
「は、はぁ……」
羽は懐から明英の羽扇を取り出しぱちんと手の平に当てて鳴らす。そして、ゆっくりと福に向ける。
「本来なら周家をでないといけない貴方に課す罰は貴方にとってもっとも望まないものに決めた!!」
こういうことは当主に伺いをたてるべきだけれど、羽は高らかに声をあげる。そして隣でぽかんと立っている澄の肩に手を置いた。
「こいつに五位の位階を持たせてやれ!」
「!?」
福の目がこれでもかと開いた。は、は。と小さな息が聞こえた。夢から覚めたかのような目を羽に向けて福は低い声で答えた。
「位階………それも五位とは恐ろしいことを仰るのですね、御曹司」
「貴方ならやれる。何せ貴方自身を含め4回もやったことだろう。3回も育てれば粗方わかるでしょう」
「いやはや、ここまでとは。この福、感服いたしました」
福が片ひざをついて両手を目に当ててうずくまる。
「出来ないとは言わせない。貴方は下に命じて澄を拐った。それどころか、楽人にとって命よりも大事な稽古場を荒らした。五位の位階は妥当だろう」
つとつとと語る羽の目は怒りをぶつけるのではなく、ただ冷静に成り行きを見る目だった。
「それに、貴方はまだ弟子がいるだろう。皆に免許皆伝させるまでは死んでも甦ってもらう」
「あ、あの……??」
目をぱちくりさせながら澄が2人を交互に見やる。澄にとってみれば、2人が何を言ってるのかこれっぽっちもわからない。
(ごい? いかい? なんだっけ)
「澄、お前何ぼさっとしてるんだよ。位階なんてもらってるだろ」
「え?」
きょとんとして言う。その声があまりにも自然だったせいか、先程までの勢いが全て消え去った。
「位階知らないとか言わないよな??」
「位階は分かります。でも、それは御貴族様の物で、おれみたいな田舎の子どもには無い――って羽さん!?」
「お前も低いとはいえ位階持ちだ」
「えええ!!???」
「知らなかったのか!?」
「だって、位階は貴族の方の物だって……」
「本気か、それ……」
まさか、殿中の楽士、それも2つ名持ちが位階を持っていないと勘違いするなんてどうなっているんだ。羽は澄の腰からぶら下がっている手形を指さした。
「お前の通行手形見てみろ、書いてるから」
そういわれて、澄はいそいそと通行手形取り出す。そこには名前の他に小さく【従八位下】と書かれていた。
「殿中に上がった楽士と同じなのはお前がまだ元服前だからだ。ちゃんと元服が終われば他の2つ名持ちの方々と同じ従六位か正七位の位階はもらえるはずさ」
「お、おかしくないですか?? 七の位階ってもう貴族と名乗っていいんじゃ……」
「あのな!? 二つ名は単なるあだ名じゃないんだぞ!? 厳正な審査と手続きのもと、皇帝陛下の綸旨をもって授与される物なんだぞ!?」
「し、知らなかった……どうりで、楽士の皆さんの目が冷たいわけです。初めは田舎者だから、子どもだからって思っていたけど……そういうことだったんだ……」
(こいつ、どうしたものかな……)
「じゃあ、羽さんも……」
「あぁ。俺はちょっと前まで従八位上だったけどこないだ正式に周家の後継だと認められたから正八位下に上がった。うちの家の格は長年の功績が認められていて従四位上だ。うちの周家をなめるなよ。
「は、はは」
乾いた笑い声だった。まさか、自分が貴族の端くれになったなんて思いもよらなかっただろう。
「ここに来た時に説明があったんじゃないか?」
「いえ、そういうことはまったく。子牙さんが、まずは簡単な読み書きと算術と、貴族の方の事を覚えましょうって」
「……兄ちゃん、あとで蛙を寝所にばらまいてやる。大事なことじゃないか……」
従兄の天敵を呟き、羽はやれやれと肩を落とす。しかし、その中で大きな笑い声が上がった。二人は声を上げた主を振り返る。
「あははははは!! 歴代最年少とも呼び声高い二つ名が全く物を知らないとは……。李原、あの子は楽しか教えられない子だったようですねぇ!」
大きな声は羽の記憶の奥底に眠っていた。そうだった。彼はこうやって大きな声でよく笑う。楽だけをひたすらに追い求める父とは対照的な人だった。いつのまにか笑わなくなったのは、病だけが理由ではなかったのだ。
全てのしがらみから解き放たれた男は子どものように笑っている。福は両手を天にかざし、声を上げる。
「あぁ、なんということでしょう! 李原には三経六韜、四書五経、ありとあらゆる故実を教えたというのに! 二胡しか教えていないのですか! あははは! これほどまでに才に溢れているというのに、なんともったいない事でしょうか」
「もったいない……ですか?」
「ええ、もったないです。御曹司、これは私に対する罰に値します。これほどまでに鍛えがいのある子どもは久しぶりです」
ふわふわとした雰囲気は鳴りをひそめ、そこにあるのは数多くの楽士を育て上げた「元」楽長の姿があった。彼自身が凡庸な楽士ではないことは確かだが、それ以上に彼の長所は「育てる」ことだ。二つ名を獲得した楽士や、隣国に召された者、楽士にはならずとも大学で名を残す者、今でも彼の門戸を叩く弟子は少なくない。
「福殿。あなたの二胡は素晴らしかったです。弟子にしてもらえるのなら、これ以上ないです」
「いいえ、私はあなたを弟子とは扱いません。あなたの師は李原です」
「………」
「ともに楽を極めましょう。斎澄殿」
すっと手を差し伸べる服に、澄は涙を拭いてその手をとった。とたん、教坊側からがやがやとした声が聞こえてきた。
「お師匠様! お師匠さまの二胡を聞きたかったです!」
「周家にはもういられないかと思って……でも、良いのですね!」
「あぁ! 御曹司! 御曹司がまたやらかしたな!?」
「澄、無事でよかった! 早く楽長にお会いしなさい!」
周家の人間以外にも、多くの楽士が通路を塞いでいる。ほとんどが福の弟子で、その中に子牙を見かけた羽は風のような速さで近づいた。
「に・い・ちゃ・ん!!!!」
「なんだい? そんなに怒って、腹でも減ったのかい?」
「ちが……わなくはないけどっ! それより、澄に位階の事を話さなかったのなんでだよ!!」
「話したけど、信じてくれなくてね。冗談と思われてしまって、それ以来話していないんだ」
「嘘だろ……」
「羽には分からないだろうけれど、自分が急にお金持ちになったなんて、たいていの人間には悪い冗談にしか感じないんだよ。それに、澄の給金は必要最低限以外はすべて故郷に宛てて送ってしまっているからね」
ちなみに、羽の給金はほとんど書物か楽器の修繕費に消えている。金銭感覚は常にどんぶりだ。
「羽!!」
「うわっ!? 明英?」
急にぶつかってきた影に押し倒され羽の背中にずきずきと痛みが走った。顔を上げると、泣きだしそうな明英の顔があった。
「なに泣いているんだよ。お前が助けてくれたじゃないか」
「ばか! ばか! ばか! このお人よし! 楽だけ人間!」
「お、おい! 最後はひどくないか?」
しゃがんだまま明英は口を真一文字に結んでぷるぷると震えている。洞窟から出た時、もう一度笛を吹くと明英と猩猩が迎えに来てくれた。そこからは二人で馬に乗り、急いで後宮に来たというわけだ。
「どんだけ心配したか、知らないくせに!」
「俺の事はいいんだよ。澄に何かあった方が大問題だ」
「私にとってはあんたの身に何かあった方が大問題よ!!」
「はぁ?! 俺と澄だったら澄の方が重要じゃないか」
家がすごいだけの楽士と、二つ名だったら後者の方が重要だろうに。
「いくらすごかろうが、私の許嫁はあんただけなの!! なんで、なんでまだ……」
ぽろぽろと、明英の瞳から雫が落ちていく。本格的に泣きだした明英は手で顔を覆い、小さな声で言う。
「――――俺は大したことないなんて嘘つくの」
「嘘じゃない」
「嘘。だって、私はあんたに助けられた」
「それこそ嘘だ。ほら、これ返すから」
明英の羽扇を明英の膝に置いた。ちりんと小さく鈴がなった。
「どうであれ、助かった。ありがとう、明英」
「…………」
何か明英が言ったような気がしたけれど、羽の耳でも聞き取れなかった。羽がその場を立ち去ると、その場を窺っていた猩猩がゆっくりと腰を下ろした。
「お嬢様、手巾を」
「あ、あの……」
「お嬢様?」
「あのわからずや――――――!!」
手巾で思いっきり顔を吹いて明英が大声で叫んだ。何のために剣の腕を磨いてきたのか、剣だけじゃない、衣も装飾も、化粧だって年相応に頑張って来たのか。あのわからずやはきっと婚姻には恋は必要ないと勘違いしている節がある。
「私が何年待っていると思っているのよ! なにもかにも! 全部子牙お義兄さまが甘やかすからよ!! お義兄さまが甘やかすから私が付け入る隙がない! の!」
予想外の方向から飛んできた罵声に子牙はくしゃみをした。
「止まれ」
急に聞こえてきた声に羽は足を止めた。場所は教坊の入り口で、騒ぎを聞きつけた人々はみな福や澄を取り囲んでいるから、教坊に人気はほとんどなかった。羽が目を向けると、正装した父が立って腕を組み羽を睨んでいた。
「父上、何ゆえ」
「しれたこと。お前は勝手に福叔父上の罰を決めたな。あの楽譜には価値はないとはいえ、二つ名をさらい閉じ込め、本来二つ名が得るべき栄誉を奪おうとした罪がある」
「…………価値が無い?」
「あぁ。編曲譜に意味はない。陛下のきまぐれとはいえ、この様な事態になるとはな」
イミガナイ。どういうことだ。あの曲を否定することは自らの功績すらもなかったことにするということだ。
「福叔父上の罰は私が決めるべきだが、お前が受けた仕事だからな。今回は大目に見よう。ただし、その編曲譜を私に渡せ」
「…………なにをするのですか」
「燃やす」
「!!!???」
「なにを驚く。未遂で済んだが、後二三日遅かったら殿中どころか都を揺るがす事態になっていた。ならば、その元凶となる楽譜を燃やすことは当然のこと」
もう片方は形見と聞くから、いいだろうと付け加えて父は言う。だが、この曲に感動した自分がいる。それに、楽人が楽譜を燃やすなど正気の沙汰とは思えない。
「父上、なぜ編曲をしたことを黙っていたのですか」
「知ってどうする」
「父上は本来――――」
「勘違いも甚だしい。さぁ、渡せ」
「嫌です」
しまい込んだ楽譜を服の上から押さえた。
「お前にその曲は弾けないだろう」
「私は弾けなくとも、澄が弾けます! 後の世では弾けるものも出るやもしれません! 楽を守ることも周家の人間のなすべきことではありませんか!」
「守るべき楽とそうでない楽があるではないか。その楽譜は失敗作だ」
「自分の作った楽を失敗なんて言うな!」
「愚かな」
「愚かで上等だ! 父上が編曲をしたって事は、俺だって――――!」
俺だって? なんだ?
「楽譜を正確に奏でる事のみ考えるのが周家だろう」
「でも、俺はそれだけじゃ周家は終わってしまうと思います」
「家を背負っていないお前が言うのか!」
ぼとり、と父の本音が聞けた気がした。
「その楽を作った時は名誉でいっぱいだった。皇帝陛下のご希望だったからな。だが、作った途端、李原殿はいなくなり、客死したと言うではないか。大それたことをした罰なのだ!」
「それは偶然だろう! だけど、俺は今日父上の遠吼孤虎を聞いて感動した! 遠吼孤虎の激しさを鼓舞の曲に変える力量と、静かな余韻はそう簡単に出るものじゃない! これはまさしく、遠吼孤虎の由来となった人虎伝説そのものだった!」
伝説によれば、追放された男は一人山に閉じこもっていた。哀れに思った神が虎の姿を与え、豊かな山を与えた。山を支配した虎は目下に広がる人里を見て言うのだ。
私がこの山の主、孤独な虎だ。
どのような悪意が襲おうとも、私がこの牙と爪で守ろう。
いずれ私は「私」を失くすだろう。
それでも、この道を守り続けるだろう。
月よ、御笑覧あれ。
我が身、我が道の果てを。
自我を失う直前、全ての悪意を削ぎ落した虎はそう宣言した。自分を追いやった人々すら守ろうというのだ。
「人虎伝説を調べたのか」
「あぁ。俺はこれでも本の虫だからな」
「…………好きにしろ。すぐにお前に現実が降りかかる」
踵を返す父に羽はほっと胸をなでおろす。この楽譜だけは失ってはいけない気がしたからだ。少なくとも、父は友を切り捨てたことに対して後悔している。
紫煙が揺れる空間に娘と女が向かい合って座っている。花の匂いを練り込んだ香が立ち込める中、娘は花を浮かべた茶をゆっくりと飲み干した。
「まったく、みっともない顔をして」
女はため息をつき、娘の泣きはらした顔に濡れた手巾を当てた。白地ではあったものの、それには緻密な刺繍が施されており、高価なものだと分かる。
「少しは感謝してほしいわ。あなたが欲しいものを無事届けたのだから」
むっとして反論する娘の額を女が軽くはじく。
「まさかあんなに大ごとになるとは思わなかったわ。でも、あなたのおかげで助かったわ、明英」
「こちらこそ、あなたの心残りを解消できてよかったわ」
彼女の肩書を言おうとしたとたん、女が首をゆっくり振った。
「ここではそんなことはなしにしましょうと言ったでしょう。私は貴方のおばあさまのお友達。あなたとはいい茶飲み友達、それでいいでしょう」
「それもそうですね。ところで話とは?」
「今度の玄国との宴の主賓についてよ」
「誰がこられるのですか?」
「黄花姫と黒雲、黒雷将軍よ」
ぱりんと娘の手から白磁の陶器が落ちて割れた。
「………黄花様」
手紙に書かれた名前をなぞり、青年は一人呟いた。まさか、ここでまた会えるとは思わなかった。
――――国境、真武街道。
ガタガタと揺れる街道を豪華な馬車と物々しい武人の列が進んでいく。彼らのいでたちは辰国の物とは全く違い、袖口や下穿きの裾がすぼまっている。馬に乗るのにたやすい、軽く丈夫な革製の衣に、動物の毛皮で作った襟巻や腰巻を巻いている。吹きさらしの大地に立つ彼らの顔は日焼けしており、日光を避けるために大きな鍔を持つ帽子をかぶっている。
「あれが辰国の都かぁ。懐かしいなぁ! かわってないなー」
「俺達と違って定住しているから馬鹿でかい家に住んでいるんだっておじい様が言ってたな。って、そのにやけ面むかつくんだけど」
「そりゃそうだろ? だって、最後に会ったのは3歳とかそこらでさ、今は確か15? 16? 母さんに似て美人になっているに違いない。兄ちゃん、変な虫がついてたらひねりつぶしてやるからなぁ~!」
「きもちわる」
「お前は会ったことないから言えるんですー! あぁ、お前に見せてやりたいよ、あのぷにぷにほっぺとつやつやの黒髪が織りなす芸術的な――――」
「公衆の面前でしたらその場で縛って箱につめて送り返してやる」
「その前にお前の喉元掻き切ってやるから安心しろ」
ぎすぎすとしだした青年たちに馬車に乗っていた女性がうるさい、と叱った。
「お前達兄弟はいつになったら仲良くするのです? 戦場でも手柄を争って、家でも競い合って。お前達はいがみ合わなければ生きていけないのですか?」
「うちでは当たり前なのですよ。姫様」
「こいつがただ単に気に食わないだけです、姫様」
はぁ、と姫様と呼ばれた女性がため息をついた。
「少しは行儀よくなさい。わたくし達は玄国の正式な使者。無礼なふるまいはわたくしの父王の名を汚し、お前達【
馬車から聞こえていたため、その顔は分からない。ただ、気品あふれる声には威厳があった。
玄国と辰国の会談まであと数日に迫ったある日の事だった。
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