第15話 人虎の伝説
才能が羨ましい。
誰からも愛される者が羨ましい。
教え導いても、物足りない。足りない、満たされない。
それは、おそらく自分が生み出したものではないから、自分で見つけたものでなく、他人が持っているものだから。
―――― だから、長い間待っていた。
同じように才能を持たない子どもを。同じように、才能に憧れ、誰からも見放される子どもを。教え、導けない子どもを。
長い間、待っていたこの瞬間を。人虎を越える時を。
――― 私はこの時が来るのを待っていた。
「……さん! 羽さん!」
「はっ!?」
「ようやく気付いてくれたんですね! 良かった。このまま目が覚めないかと思いました!」
まだ毒が抜けていないのか、頭がぼんやりとする。ゆっくりと目を開け、体を起こすと、澄が涙をためてこちらを見ている。まず視界に入ったのが、視界の悪さだ。暗い。洞窟のようだ。薄暗い空間に、気持ち程度の燭台が揺れている。平皿に芯を垂らしただけの小さな明かりだ。外からの明かりは全くない。
「羽さんもここに閉じ込められてしまったのですね。外はどうなっているんですか?」
澄の声だけが響く。そう時間が経っていないことと、小さな水音が聞こえるからか、まだ元気と言っていい。けれど、長居してはいけない。昔、家に来る医者が言っていた。人が閉じ込められ、食事や水が十分に与えられない場合、三日以内に脱出しないといけないと。
(時間が分からないといけないな。外が見えないから、どれだけ経ったか分からないな)
それに、この場所にも心当たりがない。
「澄、落ち着いて聞いてくれ。お前が居なくなった後、衛士が出てくることになった。勅が出されている。俺を閉じ込めたのは福大叔父上だ。大叔父上は、李原という楽士に何かしらの因縁がある。お前、何か隠していただろう」
「……」
「この際だ。全部話してくれ。大叔父上はきっと道を踏み外そうとしている。それだけはなんとしても防ぎたいんだ。協力してくれ」
「どうしてですか? 羽さんを閉じ込めている犯人なのでしょう? 悪人でしょう」
「それは……。大叔父上は素晴らしい楽人だ。二胡を教えるのが上手で、おそらく周家で二胡を完璧に教えられるのは、福大叔父上を除けばほとんどいないくらいだ。俺の二胡も大叔父上の指導の賜物だ」
幼い頃、琴だけではつまらないでしょうと羽を茶室に招いては二胡を教えてくれた。そして、殿中での思い出話をしてくれた。その話は長かったけれど、とても為になった。薬湯茶だって、その日の羽に合わせて味を変えてくれていた。
あの優しい大叔父がこんなことをするとは思えなかった。
「……あの文は、周福殿が私を呼ぶために書いた物です」
「父上ではなく、福大叔父上なのか?」
ええ、と澄は言う。
「おれの故郷、白露村には毎年吉風節という祭りがあるんです。それには、福の字を書いた蝙蝠をかたどった絵を逆さに吊るすという習わしがあるんです」
「………。それで、大叔父上を思い浮かべたのか?」
「少し、おれがどうして都に来たか話してもいいですか?」
あぁ、と返事をすると澄は明かりを自分の目の前にずらした。膝を抱え、遠くを見るようにつらつらと、今までの事を話し始めた。
「おれの故郷は5年前大洪水ですべてが無くなりました。おれの両親もです。皆が暗い顔をしていました。この世の終わりじゃないかと、誰もが仏に縋ろうとしていました。中には命を絶つ者もいました」
「……」
「そんな中、一人の男が流れ着きました。彼は方々を旅する人で、死に場所を探していたようでした。だから、全てが無くなった土地こそ、死に場所に相応しいとやってきたと言いました」
人々は分け与える米はないと突っぱねたが、それはそれでいいと男は言い、澄の家が丁度いいと居座った。初めこそ、転がり込んできた不審な男に警戒していた澄だったが、男は意外と生活力があり、澄の家を元通りにして住めるようにしてやったのだ。村人にも、役場に提出する書類の書き方、家や道を元通りにする方法などを教えていた。
「彼が来てから、村はまた元通りになろうかとしていました。そんな時、彼はおれに自分が持っていた二胡を渡したんです。自分はもうじき死ぬ定めだから、せめて二胡だけは誰かに預けて死にたいと言っていました」
楽人として、それはうなずける。もし、己が死ぬとしても楽器を渡したい、楽のすばらしさを誰かに託したい、そう思うのは自然だと思う。
「そして、同時に2つの約束をおれにしてほしいと言いました」
「約束?」
「決して都に行ってはいけない、そして周家と関わってはいけない、その二つです。今になってわかりました、こんな事態になる事を、李原師匠は分かっていたんですね。ごめんなさい、羽さん。正統後継者である人にこんな目に遭わせて」
やっぱり、と羽は心の中で思った。李原の名が澄から出たことで、真相が近づいてきた。楽人たちにとって、周家は最早恐ろしいだけのものになっていることが分かってきた。
「こんな事になるなら、都に来るんじゃなかった……!! お師匠さまに申し訳が立たないっ!」
わぁあああ、と澄の絶叫がこだました。その反響で、この洞窟がどれほどの大きさなのか、羽は何となくつかむことができた。
「まさか、お前がここに来た原因は……周家の演奏会のせいか???」
うん、うん、とすすり泣きながら澄がうなずく。
「あの演奏を間近で聴ける。おれの二胡がどれくらいのものなのか測ることだってできる。それに、うまくいけばお師匠さまが賜った二つ名だってもらえるかもしれないと思ったんです!!」
「っ!!!」
「なんて浅はかなことを!! 結局、お師匠さまから譲っていただいた二胡も、遺してくださった楽譜も盗られてしまった! おれはまた、何もないただの斎澄に戻ってしまうんです!」
また泣きだしてしまった澄に羽はぶすりと心をさされた気持ちになった。あの時に立ち上がってくれた人が、また無くすのかと泣いている。あの演奏をこなした少年が何もないと嘆いている。
「なにが無いだ! しっかりしろ! お前は二つ名を賜った楽士だ!」
「………え?」
きょとんとこちらを向いている。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて羽を見上げている。
「あのな! 俺には才能が無い!」
「はい?」
「たまたま生まれ落ちた家が金と地位だけはあるから、こうしていられるけれど、おれには才能が無い!」
「えええ……」
急に何を言い出すんだ、とでも言いたげだ。
「前にも言ったけど、あの時の白露村の人達の笑顔に俺は楽人になってよかったと思っているんだ! お前の演奏だってそうだ! あんな二胡は聴いたことが無い!」
「それは、その……」
「逃げるなよ! お前は二つ名を陛下から賜った唯一無二の楽士になった! それも、歴代最年少と言ってもいい早さでだ! どういう意味か分かるか!?」
「……」
「お前はもう何もない子どもじゃないってことだ! この辰国に名を刻む数多の名手の一人にあげられるって事だ! 誰もお前を子どもだからと笑わない、あの時全てを失ったのなら、今、それを取り戻しているじゃないか!!」
同じものではないかもしれない。けれど、失ったものがあれば、得るものがあったはずだ。その栄誉に至るまでの道のりは分からないけれど、今までの苦難に見合った栄光を今その手に握りしめている。
(それに気づかないなら、俺が教えてやる!)
「でも、この状態からどうすればいいんですか。おそらく、もう一つの楽譜を持って周福殿は后陛下に謁見していますよね。后陛下にとって重要なのはかつて自分が依頼した楽譜の献上なのですから」
「ああ、でも大叔父上は一つ見落としている」
羽は懐から明英からおしつけられた物を取り出す。それは細長い羽扇だった。持ち手の端に朱塗りの金属片がつけられている。
「それは?」
「………ここを出るぞ、耳を塞いでろ。これ馬鹿みたいにでかい音が出るんだ」
びぃいいいい、と羽が口に含んだ金属片からつんざく様な音が出る。音楽を生業にしている者でなくても思わず顔をしかめるような、大きいだけの音だった。
「俺は才能に潰されないんじゃない」
音を出し終えた羽はふっと笑った。この羽扇は明英が職人に作らせた、いわゆる迷子笛のようなもので、子ども達と山に入り込んで迷子になった時、明英が力いっぱい吹いていた。
子ども心になんて迷惑な奴なんだ、と思っていたけれど、今は違う。
「才能を盗んでやるって決めたんだ」
この状況でまったく諦めない青年の様子を見て澄は思った。
――― あの夜から変わらないな、と。
村の広場で演奏会があると聞き、天幕を覗いてみた。誰でも聴いてよい、と言われていたけれど、周家が関わっていると知った師匠は行くなと言った。けれども、都から来た楽士とはどういう人達だろうか、と気になって仕方がなかった。
「なぁ、中に入らないのか?」
急に背後から呼び止められ、びくりと身を震わせた。振り返ると、自分より少し年上の男の子が不思議そうな顔でこちらを見ていた。背も少し高くて、目は少しつり上がっているから、怒っているように見えて、ちょっと怖い。薄汚れた自分と違い、絹の衣をまとった男の子はもう一度、中に入らないのか、と尋ねた。
「お師匠さまから、行くなと言われていたんですけれど、どうしても、都の楽人が気になったんです」
「ふぅん。じゃあ、お前も楽を奏でられるんだ」
そう言われて、どきりとした。確かに二胡を教えられてはいるけれど、比較する相手が師匠一人だけだから、奏でられるかと言われてもぴんと来ない。ぎこちなく頷くと、男の子はぱぁっと顔を輝かせてまくしたてるように言った。
「そうかそうか! いいだろう楽は! なにを弾くんだ? 琴か? 笛か? 二胡か? それとも太鼓や銅鑼なんかもいいぞ! あ、もしかしたら歌か? 子どものうちは高い声が出せるから、歌もいいよな! 叔母上は歌の名手なんだ!」
「二胡……です」
何とか答えると、男の子はほっぺたを赤くして笑った。
「そっか! 二胡か!! いいよなぁ! 俺は琴が一番好きなんだけれど、二胡も好きだし、楽器なら何でも好きだ。ほら、あそこにいらっしゃる方は母上の異母弟殿で、隣で笛を構えていらっしゃるのが、父上の一番弟子の方だ! 一番高いところで指揮をとっているのが、俺の父上だ」
都から来たのは間違いないし、身分も高い男の子なのは言葉遣いで何となくわかった。けれど、表情は村の男の子と何ら変わりはない。むしろ答えた言葉の数倍の言葉が返ってくるこの状況に、目が回りそうだ。
「今日ここに集っているのは周家でも選りすぐった名手ばかりだ! 俺はまだ宴には出られないけれど、いつかは父上を超えるような名手になるんだ! そして、この辰国に俺の名を残すんだ!」
「超える……? 名を残す?」
「あぁ! そのためには家の者達の楽をもっともっと聴かなくちゃいけないんだ! 稽古だってそうだし、琴以外の楽器についても詳しくならないとな!」
そう言った男の子の顔は晴れ晴れとしていた。
――― 未来を見ている。
そう思った。子ども心に、男の子との言葉に揺れ動いた。失ったものばかり数える日々だった。けれど、この子は前を見ている。どうやったら、そういうふうに前を見ていられるんだろう。
――― おれにも、できるかな。
「あの……!」
「ん?」
「おれ! 二胡がんばります! お師匠さまはすごいんだ! いつか都にだって行けるくらいうまくなって、そしたら!」
――― 一緒に宴で演奏してくれますか?
その答えはすぐに出た。だから、おれは今ここに居る。
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