羽子伝~少年楽士と秘曲名鑑~

一色まなる

一章 春想月花と市井の龍

第1話 周家の落ちこぼれ

 辰国の周家といえば、知らぬ者はいない。辰国建国より百年余り、音楽に携わり、その技量は比類なき地位を築いている。楽士として殿中に上がり、市井に下れば、多くの門下生を抱えている。


 周家の奏でるものは琴や笛にとどまらず、太鼓や二胡、琵琶など多岐にわたる。そして、誰もがそれらを扱うことができた。調べは天上の調べに似たる。周家の人間を集め、楽を奏でさせることが辰国の貴人たちの間では当たり前のことだった。


 周羽もまた、その一族の嫡流の一人として生を受けること十五年。羽にとって周りの大人たちがそうだったように、殿中の楽士として名をなすことを己に課していた。




 そして、辰国丁亥の年の春。羽は、殿中の楽人になるための殿試を受けるために殿中に上がった。朱塗りの門をくぐり、純白の石畳を進んでいく。所々に水路がひかれており、そこには清水がさぁさぁと流れていく。耳をすませば、鶯だろうか。まだ未熟な鶯が、音程の外れた声で鳴いている。


(いよいよだ)


 羽は仕立てたばかりの衣のすそを強く握った。白く、染み一つない衣はこの日のために母が仕立ててくれた。


 殿中にある、楽人たちの住まう教坊に足を進めていく。今年で4度目となるからか、道ももう覚えてしまった。周りには、研いだ刃のような目をした楽人たちが重い足取りで進んでいく。それもそうだ。殿中の楽人になれば、家族に楽な暮らしをさせてやることができるし、何より楽人としての最高の名誉だ。


(俺は、周家の人間だからな)


 周家の人間にとって、殿中の楽人になることは目標にはならない。むしろ、そこから始まる。楽人になって、腕を磨き皇帝の前で楽を奏でる。そこまでやって、ようやく目標となる。


 羽は季節外れの暑さに目を細めながら、教坊の門を開き、他の受験者とともに殿試会場へと進んでいく。


 


 ――― 周家に生まれたならば、殿中で名を成すことは当然の事。




 そう言い聞かされて生きてきた。一人、また一人、受験者が去っていく。羽は周家の人間ということで、順番は早い方だった。それもそうだ。何度も殿試に落ちる周家の人間など、珍しいからだ。


 羽の番が来た。


 羽は檜の床を踏みしめ、そこにしかれた真紅の布の上に座った。そこに置かれたのは、周家とは違う、殿中で実際に使われている琴だった。殿中の琴を使うのは、楽器によって楽人たちの能力に差が出ないためと、実際に殿中で奏でることになった時に違和感が出ないようにするためだ。


 羽は琴の弦の調子を見るのと同時に、ちらりと前方で筆を持ち机に並んでいる人々を見た。老若男女、といった顔ぶれだ。辰国の皇帝は芸能を厚く奨励しているため、子どもだから、女だから、といった理由で殿試を受けさせないことはない。天賦の才がそこにあるのならば、どのような人間であれ、殿試を受けることが許される。


 つまり、羽の目の前にいる8人もの人々は一人一人が辰国の生きる宝、といってもいい。そして、この人々に響くだけのものを羽は奏でなければならない。


(やってやる……。練習、ずっとしてきたんだ)


 目を閉じれば、頭の中に課題となる曲の譜面が浮かぶ。何度も暗譜をしたし、何も見ずに指だけで弾くこともできた。昨日は、目隠しをしても完璧に弾きこなすことができた。




「課題曲は?」


 試験管の中で一番の最年長の老人が羽に問いかけた。羽は、一瞬ドキリと心臓を鳴らしたが、ぐっとこらえることができた。


「し、しゅ。……春月七弦でお願いします」


「よろしい。では、始めなさい」


 よし。羽は、息を何度も深くつく。稽古で磨き続けた耳が、居並ぶ人々の呼吸すら拾っていく。でも、今一番必要な音は、目の前の琴の音だ。周家にも似た琴はあるから、この琴の音は幼い頃から身に付いている。


(まずは、この……弦)


 落ち着いて、課題曲の弦を弾く。とぉん、と低く、長い音が室内に響いていく。課題曲はいくつもあるが、なぜこの曲を選んだのかというと、この出だしの音があるからだ。他の曲は速く、そしてせわしない。けれど、この春月七弦だけは、最初の音があることで、羽のある癖を覆い隠してくれる。


(この、弦!)


 ぎこちなく、弦に手を伸ばす。それなのに、弦に触れたとたん羽の体が一気に熱病に侵されたかのように熱くなった。それのせいで、爪にうまく弦が乗らず、べぃ、とはずれた音が出た。


(嘘だろ?! 去年は、半分は弾ききったっていうのにっ!)


 は、は、と。羽の息が荒くなる。先程の音を覆い隠そうと、指を動かそうとすればするほど、まとまりがない。本来あるべき音から外れていくたびに、鍛えた耳の良さがあだとなる。春月七弦は、たおやかな春の夜を表現したやわらかな曲だというのに、今の自分が奏でているのは、まるで真夏の田んぼだ。げこげことカエルが鳴いているようだ。


「もう、やめなさい」


 先程とは違う、妙齢の女性が気遣うように羽に告げる。


「周羽。曲自体は悪くはない。だが、お前自身の課題が片付けられぬまま、殿試に来ることはない」


 巌のような男が低い声で告げると、首を振った。去年も、同じことを言われたような気がする。


「間を持たせる曲があだになったね、周羽さん。いっそのこと、梁山将や遠吼孤虎みたいな速い曲だったら、多少間違えても隠せるのに。今年こそ、周羽さんと一緒に宴に出られると思ったのに」


 羽とほとんど年が変わらないであろう少年が、残念がるように告げた。


「…………はい」


 羽はうつむいたまま衣を握りしめた。結果は明白だった。


(今年も駄目だったか……)


 他の受験生には顔なじみはいないので、羽は逃げるように教坊を後にした。このまま消えてしまいたい、そう思いながら足早に去っていく。


 そう、したかったのに。


「ぼっちゃん! 坊ちゃんではありませんか!」


 教坊の渡り廊下の向こうから、長身の青年が笑いながら走ってくる。淡い色合いの衣に、深緋の腰紐を結っている。下がり気味な目じりが人懐っこい印象を受け、実際にこの青年は人懐っこい。その上に、声がやたらと張りがあり、一片の曇りもない。


「………子牙………兄ちゃん……」


 従兄の周子牙だった。向こうが年上だが、彼は傍流ということを気にしており、こっちがいくら言ってもかしこまった言い方を変えようとはしない。


「坊ちゃん! 殿試が終わったと聞いて、駆け付けたのです。ささ、坊ちゃん、こちらへ。一緒に茶を飲みませんか?」


「いいよ、別に。どうせ、今年も来られないんだからさ」


「そんなことを言わずに。坊ちゃんの琴の腕前は、すでに周家の人間にも認められているではありませんか」


 引き留めようとする子牙に、羽は苛立ちをおさえられなかった。


「兄ちゃんはいいよな。だって、14の年には一回で殿試に受かって、そして今じゃ都じゃ知らないものはいないってぐらいの琴の名手なんだからさ」


「そんなことありませんよ。今でも、宴で一番に奏でることはありませんし。それに、坊ちゃんのように曲を選ぶ技量がまだまだ私にはありませんよ」


「うるさいな。今日は十分に腐れさせてくれよ。どうせ、また父上がかんしゃくを起こすに決まっているんだからさ」


「坊ちゃん……」


 殿試に4回も落ちたなんて、父が聞いたらどう思うだろうか。最悪、家を追い出されるかもしれない。家を追い出されたら、どこに行けばいいんだろうか。いや、それに関しての予定はもう立てている。


(まずは西にいる、周露叔母さんの家に行って、それがだめならその近くに住んでいる鍾洞先生の所。最悪は、おじい様の家に行けばいいか)


「俺には才能が無いんだからさ」


「坊ちゃん!」


「な、なんだよ……。兄ちゃん」


 従兄らしからぬ大声に、羽は目を白黒させる。


「坊ちゃんは、思っているほど無能ではありませんよ」


「へいへい」


 きっといつものお世辞に決まっている。そんなんだから、勘違いした町娘たちからつけ回される目に遭うんだ。治さなければならない癖が、羽にとっての上り症なら、子牙にとってはこのお人よしだ。




 家につくと、予想通りの父の荒れように、羽は逆に冷静でいられた。


「羽よ! ここまでとは思わなかったぞ! あれほど見事に奏でて見せたのに、なぜ殿試で弾けないということになるのだ!!!」


「私にもわかりませんよ、父上」


 ぷい、とそっぽを向いた。視線の先にあるのは、投げ飛ばされたり叩きつけられたりした家財道具たちだった。母や他のきょうだい達はみな早々に逃げ出しているし、弟子たちは”いつものあれが始まった”と、野次馬を決め込んで戸の向こうから聞き耳を立ててる。


「開き直るな! この愚か者が!」


「すみませんね、愚息で」


 これ、片づけるのはきっと俺なんだろうな、と羽はやれやれとため息をついた。幼い頃のはただ恐怖で震えるだけだった父の罵声にも段々慣れてきた。


「自分で言うな! 子牙はもう、宴で名を上げつつある。このままでは、周家を継ぐのがあの子牙ということになるのだぞ!」


「兄ちゃんが継いでくれるなら、私は嬉しいと思いますよ。兄ちゃんなら、きっとうまく世渡りしてくれますよ」


「そういうことを言っているのではない! 羽よ! お前には周家の嫡流が代々受けてきた教育が身に付いている。それなのに、なぜ!!!」


「そこまで言うなら、裏口でもあるじゃないですか」


「それはならぬ! 周家では堂々と殿試を受けるのが習わしだ。そのようなことをして何の得もないからな」


「じゃあ、父上。私は稽古がありますから」


「待て、もうその必要はない」


「はい?」


「殿試に受からない以上、周家にお前の居場所はない」


「そうですか」


 そう言いつつも、羽は想定どおりの流れに心を躍らせる。さて、誰の家に居候しようかな、と。


「言っておくが、私の妹や鍾洞の家、そして私の父上に会っても無駄だからな。お前が行きそうな家にはあらかじめ手回ししてある」


「なっ!? 俺に野垂れ死ねってことかっ!?」


「ああ。だが、お前には教え込んだ楽の音がある。それを使って生き延びよ」


「ふざけんなよじじい!!」


「まだ孫の顔を見てないから、私はまだじじいではない。さ、荷物をまとめて出て行け」


 今度は父の方がそっぽを向いた。いつのまにか弟子たちも逃げてしまっている。


(してやられた……)


 羽は、生まれて初めて家以外の所で寝なければならない現実に肩を下ろした。




 父が手を回したということだけはあり、先ほど挙げた三人以外にも、友人の家や、よく行く商家なども軒並み断られた。幸いにも旅支度は十分にさせてもらえたため、よっぽどのことが無い限りひと月はもつだろう。


(楽の音だけでどう生きて行けってんだあのクソじじい)


 道端の石を蹴りながら羽は、夕暮れの町を歩いていく。もう、店じまいも過ぎるころで人々も仕事を終え、足早に家路について行く。カラスの鳴き声が遠くで聞こえてくる。


 その音に混じって、かすかにだが、笛の音が響いてきた。どこかで在野の楽人が奏でているのだろう。


(へぇ、いい腕じゃないか)


 かすかに聞こえてきた音を集中してよく聞こえるようにする。


 キィーン、トウ、ティ、ティ。流れるような旋律は、まるで勇ましい武人の殺陣のよう。笛ひとつでここまでの表現ができる人間はただものじゃない。しかも、この曲は梁山将に違いない。ここで聞けるなんて、珍しい。梁山将は殿中楽だからな。


 はて。


 でんちゅうがく。


 でん、ちゅうがく?


 殿中楽。


(殿中楽!?)


 さぁ、と羽の体から血が抜けていく。聴こえてくる音の方向に向かって羽は全速力で走っていく。曲が聞こえてくるのはどこかの酒店で、仕事を終えた人々が酒を片手に笑い合っている。羽は、バン、と酒店の戸を空けると大声で叫んだ。


「誰だ! 殿中楽を弾いている奴は!!!」


 いきなり飛び込んできた少年に酒店の人々は羽に視線を向ける。普段の羽ならば、上り症が出てきてすごすごと引き下がるのだが、この時ばかりは頭に血が上っていて、気づいていなかった。


「殿中楽を街中で弾いたら不敬罪に問われることだってあるんだぞ!! 最悪極刑だぞ!! なんせ、皇帝が持っている曲だからな! 殿中楽は練習するときでさえ、皇帝の許可が必要な曲だってある! それなのに、なぜここで弾いた!?」


 ずかずかと酒店の中を歩き回る羽の目の前にある人物が映った。その人物こそ、件の殿中楽を奏でていた男のようだ。すすけた青灰色の衣をまとい、申し訳程度の首飾りや耳輪をつけた男は、見ようによっては50にも60にも見えた。


「ふぅん」


 笛を口から下ろした男は品定めするように羽を見上げた。


「あんた今、ここにいる全員を牢屋にぶち込む気かよ!! 楽人の風上にも置けない!」


「そういう坊ちゃんこそ、その年でこの曲が殿中楽って分かるってことは……。周家の人間だな」


「そうだよ。俺は周家の落ちこぼれだよ」


 落ちこぼれ、という言葉を男が呟くと、火がついたように笑いだした。


「笑うなよ!!!」


「いや、あの高慢ちきな家の人間から、落ちこぼれなんて自分から言う奴がいるなんて思わなくってなぁ……。傑作だぜ」


「なんとでも言いやがれ。おっさん、今から衛兵を連れて来て訴えてやろうか」


「無駄だなぁ」


「はぁ?」


「なんせ、殿中楽だぜ。殿中楽を知っている人間なんぞ、それこそ皇帝陛下か、一握りの楽人しか知らねぇ。そこいらの衛兵に聞かせたって分かるわけないだろ」


「う……」


 確かに、この男の言う通りだ。羽が殿中楽だと叫んだというのに、周りの人々はぽかんとしている。殿中楽ということがどんなものか、知らないのだ。皇帝の命令で保護され、管理されている曲を殿中楽という。それをみだりに弾くことをは皇帝の意思を軽んじていると思われるのだ。


「気に入ったぜ坊ちゃん。どうせ、周家から追い出された口だろう? 俺の家に案内してやるよ。周家に比べりゃ、あばら家同然だが、野宿より百倍ましだぜ」


「………」


「ならしかたねぇなぁ。殿中楽を弾きながら帰るとするか」


「ふざけんなよ!? 恐れ多くも殿中楽をそこらの口笛と同じ感覚でいうんじゃねぇよ!?」


 羽の言葉にまたしても男はけらけらと笑う。完全に遊ばれている。


「おっさん、名前は?」


「自分から名乗れよ。周家じゃ、そんなことも教わらねぇのかよ」


「羽だ。周羽だ。おっさん」


「俺は曹符。これからよろしくな、羽」


 苦虫を噛み潰したような顔をして羽は曹符と名乗った男の後ろをついて行く。これが、羽が初めて出会う家の外の楽人であった。楽人というよりも仙人のような雰囲気を持った符は、紫煙をくゆらせながら歩いていく。羽が訴えたからか、笛を吹かなかった。


(あの梁山将……。ただ者じゃないのは確かだ。周家の中にあれほどまでの曲を弾きこなせた人間はいない。笛であそこまでの表現ができるなんて、殿中でもいるかどうか……)


 それならば、なぜ。あのような場所で弾いているのだろうか。酔っ払いにはもったいないほどの曲と腕前だ。


(このおっさんについて行けば何かわかるかもしれない)


 羽は、男の後ろをついて行きながら、かすかな予感に期待を膨らませていた。

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