第56話 キリアン様に会いたい……


 ゆっくりと瞼を持ち上げると、もう二度目の景色が目に飛び込んでくる。

 赤い天蓋、シャンデリア……。


「痛……っ!」


 少し身体を動かした時に感じた肩の鱗部分の激痛に、ジュリエットを顔を顰めた。

 触って確認するが、出血はしていないようだ。

 だが、ジクジクと痛むそこは確かにジュリエットの一部となった鱗の部分である。


「お目覚めかな?」


 耳に届いたおぞましい声に、ジュリエットは痛みも忘れて飛び起きた。


「ピエール様……」

「どうやら貴女は我々にとって金の成る木のようだ。ですから貴女の一番嫌なことはしないでおきましょう。……今はね」

「それでは何がお望みですか?」


 一番恐れていた事態はなんとか避けられそうだと安堵するジュリエットは、表情も固いままでピエールに尋ねる。


「貴女の涙を頂戴したい。ご存知でしょう? 人魚の涙。我々にその恩恵を与えて頂きたい」

「……私を帰す気はないのですね?」

「当然でしょう。私の子を産むという使命と別に、我がグロセ伯爵家を発展させるという崇高な使命までも持つ貴女を解放出来るわけがない」


 ジュリエットは改めて突きつけられた現実に対し、絶望感に打ちひしがれたのであった。


 気づけば足首にはかせがつけられており、その鎖の先には重いおもりが繋がれていた。


「逃げられないのね……」


 もう会えない、キリアンにも他の親しい者にも。

 そう考えれはまた涙が零れた。

 涙を零しても、この人間とは思えない酷い輩を喜ばせるだけだというのに。


「どんどん泣いてくださいね。貴女の涙は大層美しい。これからは貴女を泣かせるためならば、私は何でもしますよ。ああ、死ぬのはよしてくださいね。貴女が生きていれば、もしかしたらいつか解放して差し上げることもあるかも知れませんからね」


 なんと卑怯な男だろうか。

 解放するかも知れないという僅かな望みをちらつかせて、ジュリエットの自害を防ごうとしているのだ。


「このようなことをなさって、貴方はきっと神から天罰を下されますわ」


 泣きながらも、ジュリエットはピエールに向かってそう告げた。

 そして左手の薬指に嵌めたキリアンとの婚姻の印である銀の指輪に触れる。


 ピエールは口の端を持ち上げると、その碧眼を細めて美しく微笑んだ。


「どんな天罰なのか、これから楽しみですね」


 そう言って、ピエールはジュリエットの頬から滑り落ちる真珠がパラパラと寝台の赤い掛布に転がり落ちるのを、さも愛おしそうに見つめるのであった。




 それから何度目かの朝を迎えてはピエールはジュリエットのところを訪れる。

 そして嫌がるジュリエットの髪に触れたり、顔や四肢に触れる事で屈辱の涙を誘った。

 その行為はピエール自身の欲望のはけ口でもあったのだろう。

 ジュリエットはキリアン以外の男に触れられることなど嫌でたまらなかった。

 だが自害されては困るからと、ジュリエットが耐えきれないほどに過剰に触れることはピエールも堪えていたようだ。

 

 そのような日々が続くと、ジュリエットはひどく疲弊していた。

 何度自害を考えたか分からない。

 だが、キリアンに会いたい一心で最悪の事態を踏みとどまれていた。


 もう簡単にはベッドから起き上がることも出来ない。

 足枷など意味もないほどに無気力で、逃げ出す気力も失われた。


「キリアン様……、助けて。会いたい……」


 ピエールに嫌がらせをされても一時的に堪えられる涙は、キリアンのことを想う時には堪えることなどできずにせきを切ったようにこぼれ落ちる。

 そして掛布の上、床には多くの真珠が転がった。


 身体に浮かび上がった鱗だって、知らぬ間に増えている。


 今朝顔を触った時には、ローズピンクの髪の毛に隠れる左こめかみの部分に小さな鱗が現れていることに気付いた。


「キリアン様、キリアン様……」


 涙を流せば猛烈な喉の渇きに襲われて、ナイトテーブルに置かれた水を飲まねば耐えられなかった。

 銀の指輪を嵌めた指は少し痩せて隙間があいた。


 自分は一体何のために生きているのか。

 キリアンにも会えず、ピエールを喜ばせるばかりの日々はジュリエットの心をむしばんだ。


 無理矢理に取らされる食事も、ジュリエットの身にはつかない。

 集落で鍛えられ、肉付きのよくなっていたジュリエットは再び令嬢時代のように痩せ細ってしまった。


 ガチャリと扉の開く音がする。

 またピエールが現れたのかと目を向ければ、いつもと違ってピエールはアリーナを連れていた。


「あら、まだ元気そうじゃない」

「……アリーナさん」


 のろのろと起き上がれば、アリーナは勝ち誇ったような表情でジュリエットを見下ろした。


「あんた、ここで随分と可愛がってもらってるらしいじゃない。集落の貧しい生活よりここの生活の方がしょうに合ってるでしょう? 良かったわね。私に感謝して欲しいわ」

「キリアン様は……」

「キリアンの名前を口にしないで。キリアンはね、普通に生活してるわよ。あんたなんか最初から居なかったみたいにね。私とも仲良くやってるし。だからあんたも安心してここで暮らしたらいいわ」


 アリーナはジュリエットを傷つけるためだけに嘘をついた。

 キリアンとジャンはあれから行方不明になっているし、あの拉致の現場を誰かに見られていたせいでキリアン達がアリーナと壮年の男を血眼ちまなこで探し回っているのだ。

 困ったアリーナはピエールの元を訪れて、自分をかくまうように言ったのだ。


 ピエールはアリーナなどどうでも良かったが、キリアン達に口を割られても困ると、とりあえず邸へと連れ帰った。

 そして今、ジュリエットへ新たな絶望感を与えようとこの部屋へ案内したのだ。


「あ、アリーナさ……」

















 

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