三 砂嵐
レース二十四日目。五時。
カーテンを開けると、窓から砂嵐が見えた。
気象予測どおり昨日の夕方から風が強くなり、今ではひどい暴風になっている。風が縦横無尽に駆け巡り、舞い上がる砂でほとんど視界はない。いつもなら前方にニューブラジルとニューインドの移動都市が見えるが、今は見えない。空は晴れているが、砂のせいでぼんやりと薄暗く、曇っているように見える。
いつもは六時半ごろに目覚めるが、風の音のせいか、ずいぶん早く目が覚めてしまった。寝なおそうかとも思ったが、現在のレース状況が気になって仕方ない。
鏡を見ると目の下のクマはずいぶん目立たなくなっていた。寝る前のマッサージが効いたようだ。
「あと四日……踏ん張らないと」
顔を両手で軽く叩き、目を覚ます。ブリッジに行こう。状況はタブレットでも確認できるが、とてもベッドに寝そべって確認する気分じゃない。
六時。
ブリッジに来るとまだ朝班の人達しかいない。山本さんも来ていない。当たり前だ。こんな時間から来ていると、却って運行員に重圧を与えてしまう。
だが砂嵐のこの二日間だけは別だろう。非常事態とは言わないが、レースが始まって以来の一番過酷な自然条件なのだ。運行長としても気にせざるを得ない。
「運行長、現在の状況です」
「ありがとう」
システム部主任の田沖さんがデータを送ってくれた。いちいち言わなくてもやってくれるのはうれしいことだ。
昨日の夜から気象予測は変わっていない。明後日の未明まで砂嵐。太陽光発電は昨日の夕方から停止。風力発電は午前三時で停止している。今は核融合炉で動いており、変動する範囲を備蓄電池で賄っている。
今のところエネルギー収支はプラス側。ほとんど核融合分で足りており、備蓄電池は使っていない。だがこれから朝を迎えると一気に使用量が上がる。機関室では今頃出力増加の準備中だろう。そのうち決裁が回ってくるはずだ。
風速は秒速21m前後。現時点では帆に異常はない。高力ボルトには変位ゲージを新たに付けてもらったので、破断するようなことがあれば前兆を捉えられる。
帆推力は全体の4%となっており、非常に順調だ。このまま風速が秒速30mまで上がれば、推力比率は9%にまで上がる計算だ。
何の問題もない。
しかし本当だろうか? 何かを見落としているのでは? 何かが起きているのでは? そんな疑念が浮かぶが、口には出せない。運行長の私が無駄に動揺していては、運行員全員の士気が下がってしまう。
手に汗がにじむ。のどが渇く。じっとしていると膝が震えそうになるが、手で押さえてこらえる。自分がこんなに心配性だったとは、初めて知った。山本さんがブリッジにいないからか、どうも心細く感じる。
「おかしいな……何だ、これ」
気象予測班の醍醐さんがぼそっと呟いた。
「何かあった?」
「あ……いえ」
思わず声をかけてしまったが、これはあまり良くない。向こうの準備ができて話しかけてくるのを待つべきだった。過敏に反応しすぎてしまった。
「ゾンデからのデータが途切れてて……三十分くらい前からきれぎれになってるんです……このデータです」
コンソールにデータが送られてくる。リアルタイムの風向風速データ。普通は十秒ごとに平均されたデータを見るが、これは毎秒の生データだ。見ると、確かにところどころデータが抜けている。
「通信のラグでデータが一瞬途切れることはたまにあるんですが、こんな風に断続的に起こることはないです。通信障害かな? こんな砂漠の真ん中で雨も降ってないのに」
「雨……?」
外を見る。
雨は降っていない。しかし砂嵐だ。
「砂嵐が原因じゃないのか?」
「砂嵐では通信障害は起きません。電波をかく乱する物質は含まれませんから」
「通常は何が原因で障害が起きるの?」
「雷雨です。電気と雨粒は電波をかく乱します。あとは金属製の構造物の中だと届きにくくなります。でも移動都市の周りには砂漠しかありません。送信機か受信機のどっちかが壊れたかな? ゾンデを追加で上げれば直るはずです」
「じゃあゾンデを上げます。運行長、いいですね?」
話を聞いていた田沖さんが言う。ゾンデは気象予測班が使うが、管理はシステム部だ。
「はい、お願いします。予備はあるんですか?」
「十分にあります。使った分もドローンで回収できますし、一個余分に出したところで数の心配はありません」
「分かりました」
データのこともゾンデのことも私には専門外だが、ちゃんと専門家がいる。私は最終的な判断を下すだけだ。余計な心配をしてもしょうがない。
七時半。
山本さんが来て、十三段、アスワンも来て引継ぎをしている。
追加のゾンデは三十分前に上げて観測を開始した。だが、状況は改善しなかった。風データの空白は数を増し、分単位で抜けが出るようになってきた。
風速は24m。風はますます強くなっていく予測だ。今こそデータが必要なのに、何故こんなことに? 理由が分からなかった。
「受信機側を確認しましたが問題はありません。正常に作動してデータを受け取っています」
田沖さんが簡易報告書を転送してくる。今言われたように、テストのデータは問題なく受信している。受信機は正常なのだ。
「つまり送信時点でデータが欠測してるってこと?」
「考えられるのは二つです。一つが、観測時点で欠測している。二つ目が、データ転送時に欠損している。新しいゾンデでも同様にデータは欠測していますが、二基とも観測装置に異常が出たとは考えにくい。となると、二つ目の理由、データ転送時に何らかの原因でデータが破損したと考えられます」
「どちらか確定することはできますか?」
「断定はできません。出来ませんが、もう一基ゾンデを上げて、それでも異常が出たら、多分データ転送時のトラブルです。三基連続で初期不良とは考えにくい。絶対ないとは言い切れないので断定はできませんが、可能性の確度を上げることはできます」
「データ観測時に欠測しているか確認する方法はないのね……」
「本店との通信は暗号化されていて、もしデータが欠損していると複合化する時に分かります。しかし気象データは暗号化していませんから、その方法では確認できません。あるとすればゾンデを回収して直接ロガーを見ることですが、この砂嵐で回収は……不可能です」
ゾンデは位置情報を二か月程度発信するようになっており、専用の回収ドローンを出して自動で回収している。しかしこんな強風では回収ドローンが飛行することは不可能だ。人力でも同様だ。危険すぎる。
時計が八時を指す。交代の時間だ。一旦切り替えねば。
「朝班は業務を引き継いで撤収してください。今後の対応は昼班が行います」
「……分かりました」
田沖さんも他の朝班メンバーも不承不承と言った顔で撤収する。中途半端なので気持ち悪いのだろう。しかしちゃんと切り替えないと、人ばかり多くても効率が悪くなる。
朝班が撤収し、改めて昼班で集まりミーティングを続ける。各自状況は引き継いだので、細かい説明は無しで本題に入る。
「風データの欠損で気象予測に支障が出ています。現在の風速は10分平均で約25mですが、そのデータすら怪しい。データ欠測の原因特定と解決をしたい。山本さん、過去に似た事例はありますか?」
「欠測自体はある。嵐の日に……砂嵐ではなくそれは暴風雨だったが、半日にわたってデータ欠測していた記憶がある。結局嵐が収まるまで待つしかなかった」
「今はレース中なので待ってはいられない。別の方法で観測することはできない?」
アスワンが手を上げ、話す。
「可搬式の風向風速計はあります。それを移動都市のどこか、ブリッジの前とか設置すれば、リアルタイムデータは取れます。でも、それは現在移動都市に吹いてる風。ゾンデは離れた位置を観測して、これから吹く風を見ます。だからあまり意味ない」
今度は十三段が手を上げて話す。
「今風車は止まっているが、それを回せば風速のデータは取れる。それが使えるかと思ったが、今のアスワンの理屈じゃ駄目ってことだな。」
「駄目。そう」
アスワンが頷く。
「朝までに取れていたデータだけで予測は可能なの?」
「可能です。でも精度悪い。ゾンデを飛ばしているのは次々変わる風のデータが必要だから。外挿が多くなってリアルと違ってくる」
「八方塞がり……原因は何なの?」
誰に聞くともなく言った。しかし答えはない。朝班にも、ハードもソフトも考えられることは色々調べてもらったが、何も出てこなかった。
「まさか……どっかの国の妨害?」
高段坂が爪を噛みながら言った。
「ジャミング? まさか」
そこまで悪質なことは考えていなかったが、考えられない。運営本部は各移動都市を監視している。今言ったような電子的妨害等が起きていれば、当然察知するはずだ。
「電子的な妨害がないなら物理的な妨害か。チャフでも撒かれたのか? すぐに飛び散ってしまいそうだが」
言いながら、十三段が首をかしげる。
「チャフ?」
「戦闘機とかドローンが使うやつだ。ミサイルは電波を出して追尾するが、その電波を小さな金属片、アルミ箔みたいなやつを撒いて撹乱する。ミサイルを迷子にするんだ。物理的な妨害措置だ」
「金属片……」
窓の外を見るが、そんなものが飛んでいるようには見えない。飛んでいるとしても分からないかもしれないが、移動都市全域に影響を及ぼすとなると、きっと相当量だろう。そんな量を運営にばれずに撒くなんて考えられない。それに、そこまで悪質な手段をとる国がいるとも考えたくない。
だが、考えたくないのは個人の考えだ。運行長である私は、あらゆる可能性を考えなければならない。
「この砂嵐に金属が混ざっている……」
窓に近寄って目を凝らす。砂がの粒が見えるわけもない。黄色い膜がうねるように動き散らばりひと時も留まることがない。細かな金属が混ざっていたとしても、採取できるかどうか。アルミ、銅、鉄……。
「……砂鉄?」
ふと、思い浮かんだ。砂場に磁石を突っ込んで、混ざっている砂鉄を集めた記憶がある。砂鉄は砂のように小さい。
「地図を出して」
みんなで囲んでいた机の上から書類をどかす。十三段が机をモニターモードにして周辺地図を表示した。
「ここ辺一帯は砂漠が続いているのよね……確かここで砂の色が変わっている?」
「そうだ。砂が赤いのは酸化鉄だからだ。この辺りは山の方から川の流れで鉄分が流れ込んできてる。そうか……砂鉄が舞っているから電波障害が起きているのか」
高段坂が机を操作し、衛星写真を重ねる。十年前で少々古いが、砂漠の色が黄色から赤にきれいに分かれている。今
「可能性はあるな。これだけ砂が舞ってるんだ。移動都市全体が金属に覆われ、電波障害が起きているのかもしれない。風が強くなるにつれてデータの欠測がひどくなっているのも、それで説明がつく」
十三段が得心したように言う。確かに、理屈は通っている。通っているような気がする。
「原因は砂鉄。でも……どうしようもない」
相手は自然だ。砂をどけることも回避することもできない。今更針路を変えることはできないし、変えたとしても大幅なロスになってしまう。
誰も何も言えないまま時間が過ぎていく。答えのない問題。それでも答えなければならない。
「アスワン。今の状態でも予測はできるのよね? 外挿の多い予測だとしても」
「できる」
「ならそれでいくしかない」
「帆はもつのか?」
山本さんが聞いてくる。
「風次第です。でも……昨日までの予測では、風向はそれほど変わらない。明日の午後までは北北西からの風が卓越する」
机に昨日の気象予測を表示する。明日の午後までは北西から北までの風向が大半を占め、午後以降は北東の風に変化している。午後までなら概ね北北西の風として対応して問題ないはずだ。
いや……一応問題がある。帆にかかる力がずれるため、推力の方向もずれるのだ。それは
だから、問題はない。という事にしておくしかない。
「アスワン、あるデータだけでいいから予測をかけて。十三段は運行計画を。米山さんは操帆システムに入力される風データを止めて。アスワンが造った予測を参考に、リアルタイムで対応してください。各自は持ち場に戻ってください」
みんなが自席に戻り、米山さんは操帆室へと駆けていく。だが山本さんはまだそこにいた。
「何か?」
山本さんは少し険しい顔をしている。
「……
「確かにそうです」
昨日まではゾンデからの情報が届き気象予測が可能という前提での話だった。当然だ。基礎的なデータがなければ運行計画は立てられない。ゾンデが機能しないということは、いわば目隠しをされたも同然なのだ。
「……でも高力ボルトは交換したし、帆全体の安全率も過大気味に設計してあります。秒速40mの風でも
「平均風速だろ? 瞬間とは違う。本来あるべき帆の確度が取れないのに、大丈夫なのか?」
「瞬間は平均の倍で耐えられるように造っています。瞬間秒速80mでもマストの剛構造と帆の弾性が
山本さんがまだ何か言いたそうにしている。何を言いたいか、何となく分かる。
「……この考えは私個人の考えじゃありません。運行長としての、責任を持ったうえでの答えです。帆はすべて
そうだ。帆船は追い風だと意外と速度が出ない。進行方向と風向が同じになって相対的に推力を失うからだ。逆風なら、その力をすべて推力に変換できる。逆風でこそ、帆船は力を発揮する。
「……分かった。すまない。運行長に従う」
「ありがとうございます」
山本さんも机に戻り、私だけが立っていた。ひどく疲れた。なんだかもうすべてをやり切った感じがしたが、まだ何にもやり遂げていない。
風はこれから強くなる。少しでも正確に予測して操帆しなければ、せっかくの風の力が無駄になる。風への角度が鋭くなりすぎれば帆が裏を打ち、進行方向と逆方向に風をはらんで帆とマストに大きな負荷がかかる。
十六時。
予測通りの砂嵐が続き、各国とも速度が低下していた。砂嵐の影響だ。
太陽光と風力発電は採用している国が多いが、砂嵐の日照低下と強風で使用できなくなる。その分発電量が下がるため、速度も落とさざるを得ないのだ。
もっとも、移動都市は基本的に核融合炉を搭載している。通常の運行時は約50%程度の出力で稼働しており余裕があり、その気になれば出力を上げて低下した電力を補うことができる。しかしその場合は放射性廃棄物の量が増えるので、環境負荷ポイントが加算され総合点が下がることになる。
その為、どの国も速度が落ちたままで運行している。環境負荷ポイントを犠牲にしてまで追い抜こうという国はいないようだ。
しかし今回の参加国の中で、唯一我がニュージャパン、
はっきり言って気分がいい。帆推進システムの面目躍如だ。生みの親として実に誇らしい。世界に対して、帆推進システムの有用性を示せる結果となっている。
そして今この時だけは、どの国も最低限の核融合炉の出力のみで運行しており、速度も同じ程度だ。そのため、世界最速のニューアメリカにも比肩する速度となっている。
とはいえ、現在先頭を行くニューアメリカ、ハイ・エクソンとの差は一時間三十二分だ。今の速度は同じだが、同じなだけでとても追いつけない。核融合炉や再生可能エネルギーの効率が高く、全体のシステムも優れている。まだまだ雲の上の存在だ。
二位はニューアジア、鎮嶺。
三位はニュードイツ、都市四号。
四位はニューイングランド、ポラリス。
五位はニューインド、サクルーサルブ。
六位はニューブラジル、スターオブドーン。
各国の位置、距離、時間差は常に運営委員会から配信される。しかし、注視していると時々データが止まっているのが分かる。恐らく砂嵐の影響なのだろう
運営が使っている電波はそれなりに強いはずなのだが、それでも障害が出ている。気象観測ゾンデの小さな発信装置ではなおのこと無理だろう。
目標はニューインドとニューブラジルだ。ニューインドを追い抜くことはむつかしいが、ニューブラジルは砂丘地帯に入ってから速度を落としているため追い抜ける。いや、追い抜かなければならない。
ニューブラジルとの差は十九分。速度差が時速2kmであるため、約十時間後には追い抜ける。しかしトラブルが起きれば皮算用に過ぎない。現実にしなければ。
「じゃあ先に上がります。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
米山さんがブリッジを出ていく。残るは私と山本さんだけ。
「運行長」
「何ですか」
山本さんもデスクを片づけて帰ろうとしている所だったが、思い出したように私に声をかけてきた。
「いつまでも残ってないで、早く切り上げないと駄目ですよ。席に座っていれば何か報告があるかもしれないが、全部を一人でこなすことはできない。明日のために休むことも重要です。じゃ、お先に」
「お疲れさまでした」
釘を刺された気分だ。しかし一人で勝手にデータを整理などで徹夜していた実績があるので、何も言えない。
山本さんも帰り、昼班は私だけになった。
朝班も夜班もブリッジクルーであることに変わりはない。運行長にとってはどの時間帯の班も同列だ。しかし昼班と過ごしている時間が長いため、一人だけ残っていると違うチームに紛れ込んだような気分になる。だったらさっさと帰ればいいのだが、どうも気になっていつもしばらく居残ってしまう。
それは不安からくるものだろう。そう自覚しているが、自覚しているからと言って心の中はすっきりしない。形のないモヤモヤが、レースが始まってからずっと胸の奥に存在している。ややもすればそれが口から出てくるような、そんな気分にさえなる。
それは席に残っていてなんとかなるものではない。きっと経験を積むしかないのだろう。いたずらに残っていても疲労を蓄積するだけだ。
一番の不安は帆推進システムだ。
ゾンデのない目隠し状態での運用が今も続いている。しかし幸い、北北西の風が卓越するという予測は今のところ外れていない。
多少は変動があるが、そこは操帆課が十分単位で操作して対応してくれている。おかげで、エネルギーロスは最小に抑えられている。
本来の操帆は全てコンピュータ制御で行われる。しかし今は完全に手動だ。帆が受けている抵抗値と実際の挙動を目視で確認し、操帆課が最適角度に合わせている。
帆の高さマストと同じ200m、全長は400mにも達し、重量も50tを超える。それをステーと呼ばれるカーボンと鋼鉄からなるロープで後方に引っ張っており、左右に動かすことで帆の向きを変える。ステーを左右に動かす速度は秒速2mだ。ステーは左右30度、合わせて60度動かすことができるが、一番右から左までで420mステーをずらさないといけない。端から端までで最大210秒かかる。
現在行っているのは北北西を中心とした30度の範囲での限定的な調整であるため約半分の所要時間で済むが、それでも一度の操帆に平均一分以上かかっている。それを十分ごとに手動でやるのだ。操作は油圧のボタンを押すだけとはいえ、相当に神経をすり減らす作業だろう。
「運行長、時間外で申し訳ありません。風のデータについてなんですが……」
夜班の気象予測担当、熊木さんだった。
「何でしょう」
「アスワンさんは十三段さんから運行長へは報告はいらないと言われたそうですが、一応ご報告まで。ゾンデからのデータが今も欠測しているのは変わりないのですが……」
コンソールに風向風速の予測データが送られてくる。朝から見ているものと同じものだ。だが、熊木さんの声音に嫌な気配を感じる。
「これまでの風は北北西が卓越しています。明日の午後までその傾向は変わりませんが、これからの時間帯は気圧が下がって風向にも少し乱れが出てきます。この予測も朝時点のデータによるもので、現時点では当たっているのかどうか分かりません。しかし、これから操帆の難易度が上がる可能性があります」
「難易度? つまり……風を読みにくい?」
「はい。現在は十分単位で操帆を行っていますが、風向も数十分単位で微妙に変わっているだけなので、これで対応できています。しかし風向が変化する時間が短くなり、より細かく操作する必要があります」
「でもそんなに……小刻みにステーは操作できない」
「はい。その通りです」
「かと言ってどうしようもない……」
「はい。その通りです」
冷徹な熊木さんの声が心に響く。じゃあどうすればいいの? と聞きたいところだが、それを答えるのは熊木さんの仕事ではない。決断は、私の仕事だ。
「分かりました……操帆課にも連絡します。至急対策を」
「それに関しては既にシステム部から操帆課に連絡が言っています。運行長から連絡するには及びません。結局、やれる範囲でやるしかないという結果だったそうですが……」
「そう……ですね。データがない状況は変わらない。操帆もステーの操作速度は上がりませんから……分かりました」
「はい、失礼します」
熊木さんが目礼し席に戻る。
砂嵐の中の薄闇でもブリッジは当然明るいが、視界から光が失われていくようだ。窓越しに聞こえるごうごうという音が不安を掻き立てる。
情報としては聞いたが、出来ることはない。十三段が私に報告しなかったのは、私が余計に不安になると思ったからだろうか。気遣いか。実際に今、私は疲れ切っている。十三段の判断は間違っていなかった。
つい風データの項目を見てしまう。欠測。欠測の文字がずっと続いている。いくら見ていても変わることはなかった。
さっき帰り際の山本さんに言われたとおりだ。今私がすべきことはコンソールを睨むことではない。休息をとり、明日に備えることだ。
十六時三十二分。
「私も休みます。異常があれば連絡してください」
お疲れさまでしたと声が返ってくる。本当にこれでいいのだろうか。役に立てないまま、問題を置き去りにして逃げるような気分だ。
今休もうとしても心は休まらない。でも体だけでも休めなければならない。レースはまだ、四日あるのだから。
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