第15話 希望の灯

「お帰りなさいませ」

 

 うまやの横を通り過ぎた時だった。

 振り向いたが、つながれた数馬が長旅に疲れたようにうな垂れているだけだった。

 立ち止まった宗矩むねのりはわずかに笑んで問うた。


「お前か」

 

 返事はない。辺りは今回の行列の参加者や地元の人々の往来で騒がしい。宗矩は周囲をうかがいつつ厩の裏へと回った。


「お呼び立てしてしまい申し訳ございません」

 

 松林を分け入ると若い使者が待っていた。宗矩が近づくと腰を屈めようとする。


「かまわぬ。しかしどうした」


 使者は笠を取ると宗矩をじっと見つめた。


「皆様、無事日光山にご到着なさいました。ここはもはや聖域。悪さを企む輩も近づくことは叶いません。ならばここを離れ、江戸の様子を見て参ろうかと存じます」


「また我々が下山する際は駆けつけるのか」


「往還はあまねく清めてございます。その必要はないものと存じますが、次第によっては今一度、舞い戻ることもございましょう」


「そうか。わざわざの報告、かたじけない」


「宗矩様は私の兵法のお師匠様にございます。お側を離れるのですから、その旨きちんとお伝えしておくのが弟子としての礼儀にございます」


「そうか。かように優秀な弟子を持ち、俺はまったく果報者だぞ」


「……恐れ多きお言葉」


 使者は恥らうように視線を下生したばえへと落とした。このあたりがまだまだ子供らしい。

 

 彼は今回、自分たち一行の道中を先行し、怪しい気配がないかを検分していた。

 怪しい気配とはなにか。もちろん賊の急襲も考えられたわけだが、そんな輩に対応する人員ならいくらでも行列の中にいた。彼が対応していたのはもっと別の輩だ。俗に物の怪だとか、妖、化生けしょうなどと呼ばれる輩だ。

 それらは決まったかたちを持たない。どこに潜んでいるかも知れない。もっともそんなもの、この世に存在するはずがないと考える者は多い。宗矩だって、少し前まではその内の一人だった。そう。その目で実物を見るまでは……。


白夜びゃくや。すまぬが城の様子も見て来てはくれまいか」


「もちろんそのつもりにございます」


「その」


のご様子、しかとこの目でうかがってまいります」

 

 さすがに勘がいい。

 今、江戸に残っているのは秀忠の正室や側室たち――つまり奥の人間と、息子の家光と忠長ただながの兄弟をはじめとする若干の家臣たちだ。そして彼らが兄弟をそれぞれ次期将軍に擁立しようと見事に派閥を成していたから気を揉んでいた。

 二年前、弟の忠長が北の丸御殿へと移されたことによって一応決着はついている。けれど、いつの時代も血を分けた兄弟が骨肉の争いを繰り広げる話は少なくない。先ほど秀忠から家督かとくの話を聞いたばかりで敏感になっているのかもしれないが、用心に越したことはなかった。なにしろ奥の女たちは男たちが想像している以上に逞しいのだ……。


 闇はそこかしこにあった。その闇に巣食おうとする魔もそこかしこにあった。だからこそが必要だった。

 五色の守人。幕府上層部が頼みとするところの対妖用機密戦闘集団だ。悪鬼あっきの掃討と、それに魅せられた人々の浄化を目的としている。どこの支配にも置かれてはいないが、天海大僧正の命の下、江戸の人々を守らんと日々密かに活動している。

 加えて風の守人である彼、白夜にはもう一つ重大な役目があった。


『宗矩よ。このっぱを一から仕込め』

 

 白夜と引き合わされた時の、秀忠の企んだような笑みが今でも宗矩の目蓋の裏にはこびりついている。当初はなんの冗談かと思ったが、今ならばよく分かる。

 この青年こそが、徳川の天下を揺るぎなきものとするための上等たる布石だった。


「なにか」

 

 宗矩が発育途上の肉体を食い入るように眺めていると、本人より声がかかった。


「うむ。お前と初めて出会うた時のことを思い出してな」


「五年も前のことにございます」


「大きゅうなった。まだほんの童だったのがこうも立派に成長するとはのう」


「宗矩様のご指南の賜物にございます」


「はっはっは。世辞の一つも言えるようになればすでに一人前よな」


 宗矩が悪戯っぽく言うと、白夜はこめかみに力を入れて黙してしまう。


「おうおう。照れるな。照れるな」


 隠密おんみつ。それこそが白夜のもう一つの顔だ。

 先にも語ったように、幕府には欲深い連中が多い。彼らの心が闇に囚われた時、妖の傀儡かいらいと成り果て、天下を揺るがす大事が起きてしまうかもしれない。これを危惧した天海大僧正が秀忠に進言して、早くに守人の一人を幕府内部の探査役に回したのだった。そうして彼が選ばれ、宗矩のもとへとやって来たのだった。

 一から仕込め。その真意とは、新陰流を学ばせるに止まらず、柳生家のの人脈を活かし白夜を立派な隠密に育てろと、そういうわけだったのだ。

 

 故郷、柳生の里はかつて五百数十年の長きにわたり伊賀いが甲賀こうがの忍一族と共生を図った。その縁あって今でも各一族の上忍じょうにんたちとはねんごろな関係にある。実のところ家康が柳生家を召し抱えた最大の理由もここにある。当時、天下統一を図るためには全国の大名の動向を探ることこそ肝要かんようだった。そのための人材を一族を介し、調達したかったのだ。


 まあ、つまりだ。彼らと宗矩の手を使い幼い少年を一から鍛えることで、秀忠と天海大僧正は先手を打ったというわけである――。


「しかしお前もすでに十六になるわけだ。元服げんぷくはとうに迎えてよい年頃よな」

 

 腕を組み感慨深そうに宗矩は言う。


「武家の者でもなければ守人はすでに人のことわりより外れた存在。そのようなお心遣いは」


「無用か。しかしお前が人として生まれ出でたはまことのこと。特別な力を仏より授かったからといって、その真が消えるわけでもあるまい」


「宗矩様」


「それとも。人でないとするほうがお前にとっては救いか?」


 緋色の瞳が弾かれたように宗矩を見た。


「その容姿を呪うか。たしかにその白き肌も、髪も、赤き目も。常人にはないものだ」

 

 白子しろこ。アルビノ。そう呼ばれる人間を見たのは宗矩も初めてだった。今でこそその姿は「不動明王の使い」という話に真実味を与え、守人の存在を神聖化することに一役買っている。けれど天海大僧正のもとにたどり着く以前、彼が周りからどのように扱われてきたか。そんなことは想像にかたくはない。

 人は自分とは異なるものを恐れ、憎むのだ。

 近頃、幕府が伴天連ばてれん(キリスト教徒)の追放に躍起になっていることがそれを如実にょじつに物語る。かくいう宗矩も白夜を初めて見た時は恐れをなした。今でこそ理解者と胸を張れるが、共に過ごす機会を与えられなければ多くのことは見えないままだっただろう。


「お前を見るとどうにもかまいたくなってしまうらしい。だがこ度は口が過ぎたな」


 すまぬ。そう謝ってから宗矩は訊いた。


「ところで。今日はは連れていないのか」


「あれ、と。……ああ、イヅナですね。この山は霊峰れいほう。使妖であってもやはり入ることは叶わないのです。待機を命じています」


「そうか」


 宗矩の口から明らかに残念そうな声が漏れた。白夜が穏やかな口調で返す。


「お気に召していらっしゃる。恐ろしくはないのですか。あれは窮奇きゅうき。多くの人里を荒らした元は凶悪な妖です」


「なにを! あのくりくりっとした目。口元よりこぼれる愛らしい牙。白き尨毛むくげ。そのふわふわっとした触り心地。あぁ、たまらんっ! また是非にもこの手で触れたいものよ」


 白夜と関わって以来、宗矩もすっかりが見えるようになっていた。初めこそ恐ろしかったが、なかなかに愛らしいものもいる。近頃ではそれを見つけるのが他人には口外出来ない楽しみの一つだったりする。


「伝えましょう」


 そう大人びた笑みで応えて白夜は笠を被った。


「それでは行ってまいります」


「お、おお。道中気をつけるのだぞ」


 笠の緒を締めると彼が「はい」と姿勢を正した。生暖かい風が宗矩の頬に迫る。目を開けるとすでにそこに姿はなく、


「さすがだな」


 宗矩は誇らしげに口にした。

 

 五色の守人。天海大僧正と白夜に会い、その存在を宗矩が知ったのは五年前だ。ちょうど梅雨時で、城の庭に咲いた花菖蒲はなしょうぶが雨に色艶を増していた。

 天海大僧正の話によれば、彼らは不動明王より授かった、我が国に長らく安寧をもたらす平和の使者であるらしい。おそらくその通りだろう。

 この五年で白夜は実に頼もしい若者へと成長した。すでにその働きで何人もの人物が処分を受け、江戸を去っている。

 もとより素質があった。一教えれば十会得えとくしてしまう要領の良さで、研ぎ澄まされた感覚はもはや野生の上をいっていた。自分の息子の十兵衛も「石舟斎せきしゅうさいの再来」と噂されるほどの逸材だが、試合をさせればどうなるものか。

 しかしそれもすべては守人が持つ特別な力のためと考えていた。

 だが違った。あのひたむきな心が、不断の努力が、彼をさらなる高みへと押し上げる。

 

 宗矩は自分が決して剣豪などと呼ばれる器ではないことを悟っている。しかし来世に確かなものを残したいと誰よりも願っていた。偉大なる父の影に何度となく押し潰されそうになっては、いつだってその思いへと辿り着いたのだ。

 やはり自分たちの役目は「守り」にあると宗矩は知ったのだ。歴史の上ではいかに地味な存在と語られようとも、確かな功績を残すことこそ継承者である自分たちの大切な務めであるのだと。

 希望はすでに手の内に宿っているのだから――。


「そうでありましょう? 上様」


 明日、秀忠はどのように先代の墓に語りかけるのだろうか。

 宗矩は厚い目蓋を落とし、ふとそんなことを考えてみる。

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