第5話 公営アパート

5-1 集合


 「では、ただいまより、本アパート居民委員会を開始いたします」

 居民委員会長・斉藤朋美が、委員会の開始を宣告した。

 委員会には、男女半数ずつ、約30人ほどが参加しているだろうか。本日の参加者が、予定通り、参加していることを確認しての

 <開会宣言>

であった。

 涼子の住む公営アパートの居民委員会は、公営アパートのある団地の一隅に有る集会所にてなされるのが通例である。今回も、居民委員会は、何時もの如く、その集会所にて、各自のポストに参加の案内を投函した3日後に為された。

 涼子も参加者の一員であり、既に先日、届いていた封書の内容を確認しており、本日の議題は、あらかじめ、掌握してはいた。議題は、


①  団地内の美化活動


②  党からの連絡の周知


等であった。だいたい、いつもと然程、変わらぬ内容ではあるものの、


②  党からの連絡の周知


が何になるのか、気になるところではある。この

 <日本人民共和国>

においては、

 <党>

はかつての天皇権力にかわり、又、かつての天皇権力と同党の存在と言えた。それは、涼子をはじめ、

 <庶民>

の生活に直結するものである。

 居民委員会長・斉藤朋美は、夫が党の中堅幹部であり、彼女自身も、党員であるため、

<朋美の声>

は、言い換えれば、そのまま、

 <党の声>

でもあり得た。無論、誰が居民委員会長であろうと、その口から発せられる言葉は、

 <党の声>

であった。しかし、涼子は思った。

 「斉藤さんって、夫婦揃って党員なもんだから、自分が党と一体化して、権力をふるえることに悦に入っているんじゃないかしら」

 朋美は、居民委員会にて、議事を進行させる時、いつも、堂々とした態度で胸を張っており、その姿が何かしら、涼子の思いを具体的に表しているかのように思えた。

 朋美が、


① 団地内の美化活動


について、話し始めた。

 「はい、私どもの団地は、党仙台市住宅局から、借りたものです。美化せねばなりません」

 それはそうであろう。常識的な話であり、これは、違和感を持たれることではあるまい。朋美は続けた。

 「私達は、この団地を美化するに当たりまして、皆で協力していかねばなりませんが、いくつかの重要な箇所があります。その1つにゴミ集積所の清掃があります」

 人間は、いかなる個人であろうとも、生きていれば必ず、ゴミを出す。ゴミは生きている証であり、同時に、人間の生きている証明が集積する場所は、一番、清掃が大変な場所であるとも言えた。

 朋美は続けた。

 「党から借りている私達の公営団地です。ゴミ集積所の美化は、同時に共和国を足元から美化するという意味でも重要な仕事ですし、又、共和国を美化する良い機会です」

 そうれはそうであろう。どんな時代のいかなる地域、国の

 <社会>

も、生活レベル、つまりは、足元が汚れていては、全般的に荒廃したものになるであろう。 

 仙台市内の各公営団地では、各居民委員会の掲げた

 <我が共和国の良き環境は、足元から>

等と、住民に美化意識の向上を促すスローガンが、よく見られる。仙台以外の他地域でも同じく、党の管轄下にある以上、同様であろう。

 さらに、朋美の声が続いた。

 「ですので、本日の居民委員会では、ゴミ集積所の清掃係を決めたいと思います」

 誰が指名されるのだろうか。

 必要な仕事とはいえ、ゴミ集積所での仕事には、ゴミの仕分け、場合によっては、重い粗大ごみ等もあるから、誰も就きたくないであろう。所謂、

 <総論賛成、各論反対>

なのである。

 だので、誰も、

 「私がします」

とは言わないであろう。2~3分程、誰もが難しそうな顔をしていた。

 朋美が改めて、口を開いた。

 「堀田同志、良いですか?」

 普段の会話では、

 「~さん」

という敬称で呼び合うのが普通である。しかし、今、

 <同志>

という、それこそ、この国特有の表現を用いて、朋美は、出席者の一員たる堀田八重子に呼びかけた。

 「はい」

 八重子の返答は、しかし、困惑とも、衝撃ともとれるような口調であった。あるいは、自身が指名されるのを覚悟していたかのような表情でもあった。

 「私、斉藤朋美は、堀田同志をゴミ集積所の係に推認したいと思います。賛成の方は挙手をお願いします」

 参会していたメンバーの殆どが挙手した。

 「本居民委員会は、ゴミ集積所の係を堀田同志とすることに決定しました」

 八重子本人の意見は聞かれないまま、決まってしまった。

 涼子は、八重子を気の毒に思いつつ、心中にて呟いた。

 「大変な仕事だからって、数の力で、勝手に決めてしまって。堀田さん、大変じゃない。それに勝手に押し付けて、何が、

 <同志>

なのよ!」

 涼子は内心で続けた。

 「<同志>っていう<党>の公認とも言うべき用語を使うことで、虎の威を借りているわけね」

 <決定>

に、あらかじめ、覚悟しつつも衝撃を受けているかのような八重子の表情をちらと見つつも、涼子は内心、怒りの感情を抱いた。

 朋美は、そんな涼子の表情に気づいているかいないのか分からない。そのまま、次の議題に移ることを宣言した。無論、


② 党からの連絡事項


について、である。

 「我が日本人民共和国は、現在なお、<南>、つまりは、大日本帝国と対立、或いは対峙状態にあり、気を抜くことは許されません。私達も常に、心得ておく必要があります」

 朋美の口調が何かしら、官僚調になってきたように思われた。まさに、

<朋美の声>

 <党の声>

と言うべきものであろう。先程の涼子の表情に朋美が気づいていたとしても、朋美はお構いなしに議事を進行させたであろう。

 しかし、他方で、

 <虎の威を借りている>

朋美なのかもしれないものの、朋美その人が、いよいよ、何というのか、党に飲み込まれ、党の

 <一機関>

と化しているかのような感もあった。

 <虎の威を借りている>

つもりが、


・虎=党


の代弁者として、逆に利用されているかのようである。

涼子としては、朋美その人が内心にてどのように思っているのかは定かではない。本人とて、党との関係については、半ば無自覚なのかもしれない。それらを思うと、滑稽にも思えた。涼子は今度は内心で少々、笑った。

「佐藤さん」

朋美が涼子に声をかけて来た。

「いけない。内心を見透かされたとか?」

涼子は一瞬、緊張した。

「あ、はい」

咄嗟に取り繕う形で、妙な返答をした。

「あなたは、<南>からの亡命者でしたね。我々の共和国と対立している<南>の実態はどうですか?」

 涼子は、自身が<南>からの亡命者であると、常々、言い歩いているわけではないものの、団地の関係者と会った時等には、そうした話題が出ることもあった。勿論、こうした話題は、朋美の耳にも入っていたであろう。

 「はい、<南>では、人民の生活は、とても苦しいものがありまして、私も東京での勤労動員で、大変、苦しいものがありました。こちらの人民共和国に亡命してきて良かったと思います」

 涼子は、自身の体験を踏まえて、思った通りのことを言ったに過ぎない。しかし、参加者の中には、

 「面白い話が聞けた」

と、興味を示す者ものもいた。

 <南>

が、この国にとって、対峙している敵であるのは、朋美の先の発言のとおりであった。しかし、それは文字通り、官僚的な口調でなされる事務連絡でしかなかった。当事者によって、

 <現実>

が知れるのは、官僚調ではない、文字通り、新鮮な

 <現実>

であろう。事務的な意見交換というより、実質的に党の意志を一方的に伝えるのみの機関としての

 <居民委員会>

は、団地の<居民>たる各個々人にとって、然程、面白いものでもなかろう。

 涼子としては、自身の経験した事実と、それについての自身の思いを述べただけであるものの、

 <日本人民共和国>

を軍配を上げ、敵対する

 <大日本帝国>

を批判することによって、

 <党>

に代表されるこの国の面目、あるいは、正統性を傷つけず、むしろ、持ち上げたと言えた。それは同時に、朋美の面目をも立てた、ということで、涼子自身の地位を危うくすることなく、この場を切り抜けたと言えそうである。

 朋美が改めて、口を開いた。

 「他に、意見等はありますか?」

 特に無いようであった。というよりも、

 <党>

に対して、

 <意見>

等をすれば、場合によっては、自身の地位が危うくなり、最悪の場合、弾圧、逮捕等の危険もあるかもしれない。それを踏まえれば、特に意見は無くても当然であろう。

 「では、散会します」

 開会のときと同じく、朋美の宣言で、その日の居民委員会は終了した。

 集会所から出て、それぞれの方向に向かう中、涼子は八重子にアパートの階段の踊り場という目立たぬ場所で2人だけになった時に、声をかけた。

 「堀田さん、ちょっと」

 「え?」

 「後で、お邪魔して良いかしら?」


5-2 訪問


 「さっき、集会所を出た時、午後2時くらいだったけど、午後3時くらいにお邪魔しても良いかしら?」

 「ええ、いいけど」

 「じゃ、午後3時に」

 そう言うと、涼子は一度、自宅の302号室に戻った。

 「今日の居民委員会では、予想通りの展開になった。堀田さん、大変ね」

 そう、一言つぶやくと、

 「地主か・・・・・」

と、涼子は嘆息混じりに続けた。

 確かに、地主階級は、憎むべき存在だった。

 <南>

では、人々の生活に欠かせない

 <食>

を握っていることによって、まさに、生活への抑圧者であり、生殺与奪の権限を握っていると言っても良いかもしれない存在である。

 <庶民>

からすれば、僅かな<食>のために、地主に小作料を納め、その抑圧者からのおこぼれによって生きている、というよりも死なないために、おこぼれにあずかっているようなものである。それが、明治以来、

 <大日本帝国>

の本質であった。

 そして、涼子も、そんな地主男たる基朗のせいで、それまでの祖国であった<大日本帝国>を棄て、この国に移住して来たのである。

 地主家の馬鹿長男たる基朗によってもたらされた被害、それへの自身の怒りを踏まえれば、

 <元地主家>

たる堀田家、そして、その出身たる八重子への周囲の怒りも理解できないものではなかった。

 「でもね」

と涼子は改めて、呟いた。

 「党の下での居民委員会って、何か、<南>で言うところの天皇の下での隣組と似ていないこともないね」

 名称は違えども、

 <庶民>

が、何かしら、一方的に動員されているかのような体制、状況は、

 <南北共通>

であるような気がした。但し、やはり、地主制度が解体されたこの国では、少なくとも、食糧事情がかなり改善されており、その点では、


 ・北>南


という実感があった。しかし、それは、

 

・「上部構造」(政治権力)


の匙加減によるものであり、そこは、まさに

 <南北共通>

であった。

 自らの意志で<北>に来た涼子ではあったものの、<南>での「上部構造」(政治権力)のさじ加減によって、<北>に来ざるを得なかったというのが本質であった。見えない

 <巨大な歯車>

によって、翻弄されていたのである。又、この国にても、先の居民委員会でのように厳しいこと、不満等が有る中、同じく何かしらの不満をいだいていそうな八重子とは、うまが合うかもしれない。

 故に、涼子は、八重子に声をかけたのだった。

 うまが合う相手とであれば、アパートの各自の部屋、それは

 <党の指導>

という

 <表>

とは異なる世界、しかし、<裏>或いは、<闇>というのでもない

 <素>

の世界があるであろう。そして、

 <素>

を顕にできる、という意味では、それこそが

 <表>

の世界であると言えるかもしれない。

 いつの間にか、そうした思いにふけっていた涼子は、部屋内の時計を見てみた。もうすぐ、約束の時間である。

 「さて、そろそろ、行かないと」

 涼子は自室<302>を出て、階段を上に上がった。八重子の部屋は、4階の<405>なのである。

 <405>

の前に着くと、涼子は鉄製の扉を叩いて、叫んだ。

 「堀田さん、302の佐藤です。そろそろ、約束の時間かと思いまして」

 中で物音がした。暫くすると、鉄扉が開き、八重子が顔を出した。

 「あら、佐藤さん」

 「あ、堀田さん」

 「どうぞ、上がってらして」

 八重子は涼子を中に入れた。今日は、土曜日なので、涼子は学校での教師の仕事は休みである。八重子は不定休であるものの、彼女も今日は休みであり、2人の子供は遊びに行っているとのことであった。

 「ご主人は?」

 涼子は八重子に問うた。

 「県の仕事が忙しくてね、今日もちょっと、出勤なんです」

 「そっか」

 この国では、公務員をも含め、労働者は週休2日が原則である。しかし、公務員には、場合によっては週休日の休日出勤もある。

 <党>

を支える中核的な存在であるので、彼等、彼女等は、一般市民としての他の労働者よりも忙しくなることもある。涼子の夫・寛一も、今日は出勤であった。但し、緊急の休日出勤というのではなく、通常の勤務予定に従ったものであった。

 悪人や犯罪者は何処にでも、いつでも存在しているのであり、警察の職務に

 <休み>

はないであろう。しかし、休みなく治安維持に当たることによって、

 <社会>、<庶民>

からの支持、正統性を

 <党>

が得るために、やはり、他の一般市民よりは忙しく働いていると言える。寛一は今日、その当番に当たっていたのであった。

 そのため、今日、涼子は八重子との2人の時間、つまり、

 <素>

の時間を持つことができているのであった。

 「お茶、淹れましょうか」

 八重子が、涼子に問うた。

 「ええ、有難うございます」

 八重子は、キッチンでガス台のガスを起こし、薬缶で湯を沸かし始めた。

 ガスによって火が起き、薬缶内の水が湯になる。

 <南>

こと、

 <大日本帝国>

では、しょっちゅう停滞している。この点でも、

 <日本人民共和国>

は、少なくとも、<食>という点においては、<南>よりは優位にあるように思われた。

 4~5分程して、八重子は、沸騰した湯を急須に入れ、茶を作った。更に2つの湯呑に茶を入れ、その1つをテーブルを前に、椅子に座っている涼子に差し出した。

 「どうぞ」

 「いただきます」

 口に入れてみると、茶は紅茶であった。

 「この紅茶ね、ソ連制の紅茶なのよ」

 八重子が説明した。

 「県庁で勤める主人が、職場でもらってきたのよ」

 「そう」

 <党>

を支える人間は忙しいものの、何かしら、エリートでもある。こうした物資も入手しやすい傾向にあるのであろう。

 <戦時体制>

が続く<南>では、紅茶等は、とうの昔に姿を消した

<幻の味>

でしかなかった。その味を、今、この場で堪能しつつ、涼子は八重子に話しかけた。

 「今日の居民委員会、大変だったね」

 「ええ」

 八重子の口からは、嘆息混じりの返答が出た。半ば、諦めのような口調である。やはり、居民委員会で先程のような結果になることを予測していたのであろう。

 「堀田さん」

 「はい」

 「失礼だけど、何か、堀田さんのこと、よく思わない人って、多いみたいね」

 「そう、おっしゃる通りよ」

 「この前ね、ちょっと、何というか、噂話のようなものを小耳に挟んだんだけど、堀田さんて、今の共和国ができる前、結構な大地主だったんだとか」

涼子は、先日の井戸端会議とでも言うべきものを八重子に話した。

 「そうよ、大地主だったのよ」

 八重子は自身で淹れた紅茶を飲みつつ、言った。

 「それでね」

 「それで?」

 涼子は促すように言った。

 「実家は、岩手との県境に近いところの地主だったんだけど、ソ連軍が上陸して来て、今の人民共和国が成立した時に、土地改革があったでしょう」

 「ええ」

 涼子は反応した。八重子は少し、涙ぐみ、

 「その時にね」

 そう一言、言うと、天井を見上げ、又、ベランダの外を見て暫く沈黙した。

 八重子の涙を見た涼子としては、どのように会話を続けるべきか、分からなくなった。

 「悪いことしたかな、この話題を口にしたのは間違いだったかな?」

と自身の発言を後悔した。

 しかし、涼子の表情を見つつ、八重子は会話を再開した。

 「土地改革の時にね、それまで小作人だった周りの農民たちから、私の父は蹴られたり、殴られたり、リンチされたのよ。まあ、私は女だったから、そこまでひどい目には遭わなかったけど、あの後、周囲の人達からは罵声も浴びせられたし、散々だった」

 「大変だったのね」

 涼子はそう言ったきり、やはり、どのように言うべきか、分からなくなってしまった。

 八重子は散々な目に遭い、相当に辛い目にあったのであろう。この公営団地でも、彼女は同じような目にあっているとも言えた。

 <出自>

という、八重子自身の責任とは無関係のことで苦しんでいる現実を気の毒に思いつつ、しかし、涼子としては、八重子の父をリンチにし、さらに、八重子に罵声を浴びせたかつての小作農民の心情も分からないではなかった。

 小作農民であった彼等、彼女等も又、

 <出自>

のために、収奪され、苦しめられてきたことであろう。

 <南>

ではそれが、文字通り、日々の

<生活>

の姿であり、当然のこととして毎日続いて行く

 <常識>

であって、それ以外の何物でもない。それは、涼子自身がある意味、実体験して来たことであり、それ故に、彼女は、この国に移住してきたのである。

 暫く、何と言うべきかわからない沈黙が2人の間に流れた。

 涼子としては、何と言ってよいのか、分からないものの、何かしら、異様な沈黙が続くことにも耐えられない。何でも良いから、口を開かざるを得なくなった。

 「堀田さんね」

 「はい」

 「で、その後、どうして、仙台に出てきたの?」

 またしても、立ち入ったことを聞くことになったものの、他に話題は思いつかなかった。

 「土地改革で小作料を収入として無くした以上、家計が傾いたじゃない。だから、‘大学の通信コースで勉強しながら、今の国営工場で働き出したの」

 八重子は続けた。

 「で、その後、主人と結婚して、この公営団地に入れたけど、私の出自のようなものが、何処かかからか分かってしまってね」

 「なるほど、それで、周囲から色々、言われているんだ」

 涼子は心中にて思いつつ、

 「堀田さんの出自が分かったのは、居民委員会の斉藤さんが党員だから、個人情報を確認していたのかもしれない」

と、心中にて呟いた。そして、そうだとすれば、

 <出自>

についての情報を見ることによって、しんどい作業を八重子に押し付けることを、周囲の旧体制への恨み等を利用することによって、周囲の支持を取り付け、正当化しようとしていたのかもしれない。

 「嫌な女だ」

 涼子も、<南>の出身という<出自>なので、朋美から、勝手な言いがかりをつけられるかもしれない。そう思うと、不快感が湧いて来た。

 「どうしたの、佐藤さん」

 「あ、いえ」

 涼子の表情は、いつの間にか、怒りの表情になっていたようである。

 「これね、私が作ったのよ」

 八重子は涼子に、手芸のぬいぐるみを見せた。


5-3 手芸


 「可愛らしいぬいぐるみね」

 「そう、有難う」

 「堀田さん、手芸が趣味なの?」

 「そうよ」

 涼子は、手先が器用な方ではない。こうした物は作れないだろう。だので、趣味とはいえ、八重子が手芸によって、ぬいぐるみが作れることに感心した。

 このぬいぐるみも、一種の

 <素>

の具体化であるといえる。

 「材料は何処で手に入れたの?」

 「仙台市内の自由市場等で」

 「そっか」

 仙台市内の自由市場には、様々なものが売られている。国営工場等で、党、政府からのノルマを納めた後は、残りの資材等は自由市場に売り出される等していた。

 <計画経済>

が建前、すなわち、

 <表>

となっているこの国では、

 <自由市場>

は、やはり、

<闇>

であった。しかし、建前としての計画経済が必ずしも、庶民の需要を満たしてくれているとは限らない。故に、

 <自由市場>

という<闇>は庶民の生活にとって、不可欠なものであった。そして、場合によっては、国営工場でのノルマに必要な資材さえも自由市場に横流ししている例さえあった。

 『勤労報』は、こうした行為は横領等の犯罪になりうるとして、時折、警鐘を鳴らす記事を掲載していたものの、それこそ、

 <建前>

でしかないかもしれない。計画経済が必ずしも社会の需要と合致せねば、生活に不可欠な<闇>をなくすことはできないのであり、記事を書いている関係者もそのことを承知し、そして、自由市場を生活のために不可欠に利用していることであろう。

 八重子のぬいぐるみも、そうした<闇>に支えられたものである。

しかし、自作のぬいぐるみを紹介した八重子の表情は先程とは変わって、いきいきしていた。

それは、文字通り、

<素>

の姿と言えた。涼子も、八重子の生き生きとした表情を見て、少しく表情が明るくなったようであった。

 八重子の表情が明るくなったのは、自分を自己主張できる<素>の姿になったからであろう。今、涼子と八重子の2人のみの空間となっている

 <405室>

は、

 <建前>

を気にすることなく、

 <素>

を出せるからこそ、明るくなっているとも言える。

 話が弾んだところで、涼子は、居民委員会長・斉藤朋美への不満を口にした。

 「堀田さん、あの居民委員会長の斉藤さんって、嫌な人ね」

 八重子は、

 「しっ!」

と右手人差し指を口に当て、涼子の発言を制した。

 しかし、次の瞬間、八重子は頬を膨らませ、笑顔になった。八重子としても、朋美への不満は溜まっており、どこかで、だれかとこうした話がしたかったのであろう。但し、やはり、

 <党>

という建前があり、それは、大っぴらに言えることではなく、この部屋の中でのみ言えることであった。

 「気をつけて、大っぴらには言えないことよ」

 「そうでした」

 涼子も改めて、一応の<建前>に気付かされた。

 彼女等の公営アパートは頑丈なコンクリート造りであるので、そうそう、会話の内容が周囲に漏れることはないであろう。

 しかし、先日、行方不明になった松本老人のような例もある。言動には、一応の注意が必要であろう。

 そこで、わざとらしく、

 「堀田さん、ぬいぐるみ、素敵ね」

と改めて、八重子の手芸を礼賛した上で、改めて、周囲に注意しつつ、小声で、

 「あの斉藤さんって、虎の威を借りている存在よね」

 「そうよ、あんな人、虎の威よ」

 「一体、何ができるの、斎藤さんって」

 「何もできないんじゃない。居民委員会長ってことで、威張っているだけで」

 「ほんと、ほんと」

 涼子は笑った。涼子としてはやはり、出自が

 <南>

である以上、朋美に目をつけられる危険性については、やはり、注意が必要であった。

 涼子は八重子と同じく、「上部構造」(政治権力)に目をつけられかねいない存在として、何か、うまが合うものがあるのかもしれない。或いは、同じような立場にいることから、

 <同志>

と言えるのかもしれない。

 <同志>

という、<党>、<体制>によって使われている用語が、それへの批判的立場によって使われているという現実に、涼子は内心、苦笑せざるを得なかった。

 「でもね、佐藤同志」

 八重子は、わざとらしく、<同志>という語句を付けて、涼子に話しかけた。八重子も現在の2人の関係に気づいたらしい。

 「私達の関係には気をつけてね。佐藤さんって、<南>から来たでしょう。場合によっては、<南>からのスパイであるなんて思われたり、或いは、かつての地主階級を<南>に誘導、亡命させようとしているなんて思われたら、大変だから」

 涼子も既に了解済のことが八重子の口から出た。やはり、現行の「上部構造」(政治権力)に苦しめられていることから、自然に、彼女は彼女なりに自衛策を身につけているらしい。

 <南>

では、物資不足から新聞の紙面が薄くなり、月並みな

 <大東亜共栄圏>

云々といった記事の中、

 <北からの亡命者の証言>

等は、大々的な記事になることがあった。

 <大日本帝国>

としては、自身の正統性を社会に向け、宣伝し、同時に、<北>こと

 <日本人民共和国>

への敵意と警戒心をあおり、自体制内の社会を引き締めようとしていた。そのためには、

 <北>

からの亡命者は、良き宣伝材料であった。こうしたかつての経験からして、八重子の話は分かりやすいものであった。

 「分かってますって、堀田同志」

 涼子も同じく、同志という語句を付けて返答した。こうすることで、自身にも警戒準備はできていることを強調したかったのかもしれない。

 2人は朋美の悪口を、時々、調子に乗って大声で笑いながら言いそうになるのをこらえつつ、

 <虎の威>

を借りている斉藤朋美の悪口を言い、溜飲を下げたのであった。

 涼子はふと、壁にかけてある時計を見た。


 ・午後5時45分


を指していた。

 「あ、いけない、もう 6時が近い」

 涼子は多少、慌て、声がそれこそ、多少。大声になった。

 「あ、ほんと、もう、6時が近いね」

 「じゃ、今日はこれで換算にしましょう。今日は部屋に上げてくれて有難うございました」

 「こちらこそ、来てくれて、有難う」

 互いに別れの挨拶を交わすと、涼子は

 <405>

を出た。

 自室に戻りつつ、涼子は

 「そうだよね、気をつけないと」

と改めて心中にてつぶやき、

 <日本人民共和国>

の市民として生きていく、つまり、

 <大日本帝国>

を棄て、自身で選択した人生に間違いが無いよう、気をつけるべく、自身に自戒の念を押した。


















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