ハチコイ 第四話『前編』

三毛猫マヤ

『前編』


「あれ? ない……」

 綾音との林間学校の写真を見つめていた時、ふと思い立って探してみたらいつの間にか無くしていることに気付いた。

 小学生の頃、綾音の家族と私の家族で出掛けた時に購入したキーホルダー。

 思い出そうにも、どこにしまって、いつまで持っていたのか、そもそも間違えて捨ててしまったのではないのか?

 そのすべてが曖昧あいまいで、すでに迷宮入り確定のようだった。

 夏休み、綾音と一緒に出掛けたら何かお揃いで買いたいな……。

 そんな淡い希望を抱きつつ、ぼんやりと机の上のカレンダーを見詰める。


 一学期が終わり、明後日から夏休みが始まる。

 綾音と過ごす夏休みは小学生以来だった。

 中学生の頃の夏休みも、友達と遊びに出掛けたりしてそれなりに楽しんでいたと思う。

 でも、友達とおしゃべりをしていても、ふとした時に、彼女の事が思い出された。

 中学に入学してから一ヶ月、二ヶ月と月日を重ねる度に、彼女と一緒に過ごした記憶は、時の砂に静かに埋もれていく。

 会いたいという気持ちは、ある時から見えない針のような物を含むようになり、チクチクと私の胸を刺した。

 忘れられているのではないかという不安。

 もう彼女にとって、私なんていなくても構わない存在なのではないかという寂しさ。

 自分の中で美化されていく彼女へのイメージ。それによって、現実の彼女に再会した時、落胆するかも知れない、自分勝手な心が嫌だった。


 いつしか、会いたい気持ちは会いたくないへと反転していった。


 私は幼い頃より、好きなものに正直でありたいと思いながら――一番好きなものに対しては……。

 いや、一番だからこそ、まっすぐに向き合う事が出来なかった。


 でも、思いがけず再会した高校生の彼女は、私の記憶の中にある彼女で、私の中にあった意地悪な幻想をあっさりと打ち砕いたのだった。


 三年ぶりに見る彼女は私より少し背が高くて、ちょっぴり意地悪な所もあるけれど、いざという時は、私の心にそっと寄り添ってくれる、頼れる可愛い女の子だった。

 時々見せる屈託のない笑顔には幼い頃の名残があり、私はホッとした。


 お互いに恋人同士となって迎える夏休み。

 彼女と過ごす時間の中で、少しずつ私の気持ちを伝えていけたらなと思う。


 机の上にあるスマホが震えている。

 時計を見ると、いつもの夜通話の時間だった。

 スマホを手に取り、第一声はなんて言おうか、考える。


 そんな瞬間が積み重なって今の私の幸せは形作られてゆくのだと思った。



          ◆◇   

           

 ふと目を覚ました。

 スマホのスイッチを押すと、暗い室内にぼうと画面が浮かび上がり、深夜の時間帯である事を知った。

 今日は終業式――一学期が終わり、明日から夏休みが始まる。

 上半身だけ起き上がりカーテンを引き、網戸側の窓を開ける。

 国道を走行する車両と虫の泣き声以外に聞こえる物はない。星と月は雲間に隠れていて、通りを照らす街灯の周辺以外は穏やかな闇に覆われていた。


 虫の澄んだ音色に耳を傾けながらベッド脇にあるナイトテーブルに手を伸ばす。

 透明のドーム型の置き石の中には大小様々な青い花が咲き乱れている。

 つるりと滑らかな表面は指先にフィットして心地よく、いつまでも撫でることが出来そうだった。

 擦りながら、夢の中にいるであろう彼女の事を想った――七月、風邪を引いた彼女をお見舞いに行ってから約一ヶ月が過ぎていた。


「か、かか覚悟しと、け…よー!」

 ふるふる震える指先で彼女は私に宣言した。


 その時の事を思い出すと、自然と頬が緩む。

 あの日以来、少しずつだが彼女は私に自分の意思を伝えて来るようになった。


 例えば、彼女を家へ送り届ける時、私たちはよく公園に立ち寄った。

 公園では、お気に入りの音楽を二人並んで聞いたり、飲み物を買って他愛のない話をしたりする。

 そうして、いよいよ別れの時が近付き私が席を立とうとする。

 ぎゅっ。

 私の人差し指を彼女の手のひらが包み込むように握ってくる。


 それは彼女と私の間で決めた合図だった。

 私は周囲に視線を巡らせて人が居ない事を確認すると、そっと彼女を抱き寄せてぎゅうっと一度、ハグをする。

 小柄で華奢な体から彼女のぬくもりを感じる。

 柔らかくすべすべな肌、緩くウェーブのかかった髪の毛はふわりとした羽毛のように優しい手触りで彼女の温厚な性格そのもののようだった。

 この娘が私の彼女なんだと思うと、胸がきゅっとするのだった。


 ただ、最近は一つ、困った事がある。

 季節は七月、夏真っ盛りである。

 駅から十数分歩いた先にある公園に到着する頃には、お互いに結構な汗をかいている。

 一度、「汗かいてるから」と暗に断りの態度を示したら、蓮花は「大丈夫……綾音の汗のにおいも、私は好きだよ」とうれしくない告白をされた。

 天然なのかヘンタイなのか……。

 唐突な問題発言に暑さも相まって軽いめまいを覚えていると、彼女からハグをされ、お互いの汗のにおいをかぐ形となる。

 彼女のせいで、いつも以上に意識をして蓮花の汗のにおいをかいでしまう。

 普段の花の香りのする彼女よりも、よりリアルに存在を感じ、ドキドキしている自分がいた。


 今までの彼女も可愛らしくて好きだった。

 けど、時に変な事を言い出して、大胆な行動をする今の彼女もまた、新鮮で微笑ましかった。

 なにより、「素直なあなたを見たい」そう告げた私に、彼女なりに少しずつ応えてくれているのがわかったから。

 そんな彼女に魅了される私はやっぱりちょっと、ヘンな奴なのかも知れない。

 それでも、彼女の心にあるものは昔も今も変わらない。


 私への‘’好き‘’という気持ちに、尽きるのだろう。

 そんな当たり前の気持ちを再認識してしまい、照れる。

 うわ、これめちゃくちゃ恥ずかしいヤツじゃん。

 頬が上気してくる。

 誰に見られるわけでもないのに、すかさず頬を両手で隠していた。

 そのまま、布団に横になり、布団を頭から被ると、うあぁぁぁぁ、ともだえるのだった。



          ◆◇ 

         

 朝、目覚ましが鳴る前に布団から起き上がると、今日は娘たちとどうスキンシップをしようかなと思案する。

 ま、当人からはウザいとしか思われないだろうけど…。


 旦那はとっくに仕事へ出掛けているので、一人部屋でニヤニヤし放題である。

 ニヤニヤニヤニヤ……。

 いや、旦那がいてもさして気にせずにニヤついていそうだな、私。

 ニヤニヤしながらカレンダーの存在に気付き、今日は娘たちの終業式である事を思い出した。

 ニヤけ顔が一瞬で収まり、盛大にため息を吐く。

 今日から約一ヶ月超もの間、今まで二食で済んでいた食事の用意を、三食も作らなければならないのだ。

 食事に関して言えば単純に業務量が五割増しだ。

「はあ~~っ、だっるぅ……」

 ま、面倒な時はそうめんやうどん等の麺類でごまかすか。

 値段も手頃で麺類とか本当、主婦の救世主メシアだわー。

 それでも面倒なら、ワンコイン渡して適当に食べてきてもらおう。

 まったく、仕事は働けば働くほどお金を多く貰えるのに、主婦は労働が増えても手間や疲労が増えるだけで、お金は一円も貰えないのだ。

 何て理不尽な世界なのだろう。

 もっと主婦が優遇される世界線に飛んでいきたい。

 これで「やれ、ご飯が不味いだの、お腹一杯でいらないだの言われようものなら、拳の一つも出るというものだ。

 まあ、いいや。あまりにストレスが溜まった時はヒロくんに何かおねだりをしてやろう。

 そう決めると、一度大きな伸びをする。

「さて、今日も主婦業を始めますかねぇ」


 朝食を作っていると、次女の琴美がリビングに入ってきた。

 あと二十分は寝ていても大丈夫なのに、本当、この子は私にそっくりでしっかりしてるわ。

 どっかのまな板娘とは大違いだわ。

 私はまな板じゃないけどね。

 まな板じゃないけどね!

 ここテストに出るからよく覚えておくように!

「おはよ、お母さん…て、なんでフライパンを指差し確認してるの?」

「おはよっ!えーと、そういうエクササイズ?が、なんかヨガっぽい番組であったんだよ…多分」

「何で説明してるのに疑問系なの?ま、いーけど」

 さして興味も無さそうに琴美が小さく欠伸をした。

「それよかコトミン、今日も私みたいに可愛いね♪」

「…………はっ?」

 うわ、凄い嫌そうな顔して眉を潜めやがる。

「その反応は失礼過ぎではっ?! 親しき中にも礼儀ありだぞ、コトミン!」

「いや小学生がアラフォーに似てるとか、どんだけ老けてるのさ、フツーにヤバイっしょ!」

「ぶっぶー!! 違いますぅ~、アラサーですぅ~、ちなみに心はいつでも十八才の乙女ですぅ~」

「あーハイハイ、朝からそーいうのいいから」

「私はいつでも本気だぜ!」

「あっそ」

 琴美が声のトーンを落とす。

 会話を打ち切ろうとする合図だった。

 ちょいちょい、待ちなさいな。

「そういえば、今年もラジオ体操行くの?」

「うん、咲ちゃんとユッキーも行くみいだしね」

「そう、朝食はいつ食べる?」

「帰ってからかなー、どうしよー」

 おいおい、こっちの方が本題なんだけど。

 その返答によって私の睡眠時間=朝ごはん作る時間が変わってくるんだよ。

「別に、朝ごはん抜いてもヘーキだし」

「…ええと、それは私への気遣いからかい?」

 朝寝坊していいよー、的な?

「は?」

 早くも本日二回目の「は?」をいただきました。今日は記録更新できるかなー、ワクワク♪

 ……全然うれしくねーわ。

 ま、そーだよな。子供にとっちゃ、母親の家事の大変さなんかどーでもいいよなー。

 私自身、朝寝坊めっちゃして母親にしょっちゅう尻を蹴っ飛ばされて起こされてたし、門限破って玄関に正座させられて一時間説教されたし、嫌いな野菜とか父親の皿に移して、唐揚げとセルフ交換して、母親からゲンコツ落とされてたものな。

 というかうちの家系母親強いな。

 父親も旦那も大抵黙って傍観しているだけだった。


 …というかやっぱり長女、私の娘だったわ。

 あ、ここはテストに出ませんから忘れて結構、むしろ減点対象の罠だったりする。


「ん、わかった。じゃあおにぎりだけ作っておくから、朝食べてから行きな。どーせ、帰りに友達の家に遊びに寄ったりするっしょ?」

「うぇ…お母さんがおにぎり握ると、コンビニおにぎりの三倍くらいの大きさだし、真ん中以外具が全然入ってないし……」

 イラァ…はい、出た出た。

 正に親の心子知らずなセリフ。

「たくさん食べないと私みたいに大きくなれないぞ、ちんまりガール」

 琴美の頭をぐりぐりしながら、ハッハッハ~と笑うと、私のをチョロっと見てから一言……。

「…背の割にはあんまりだよね…」

 オイコラッちびっ娘、今どこ見て言った?

「コトミン、朝から私と総合格闘技の稽古をご所望かな?」

 いつもニコニコ、あなたの側に這い寄るお母さんですよ。

 じりじりと距離を詰める。

「ひぇっ、ご、ごめんなさい!」

 琴美が土下座しそうな勢いで全力で体をくの字に曲げて謝罪する。

 すごいぞコトミン!これなら将来営業職でポカしても安泰だね♪

 まあこんな場面でされても私が罪悪感に苛まれるだけなので止めて欲しいんだけど。

「わかったから、頭を上げな」

「は、はい!」

 顔を上げてピッと、敬礼。

 誰かに似てノリ良いな。あ、私か。


「その、やっぱり、お、おにぎりお願い…してもいい…かな?おかかなら、大好きだから食べられるし…」

 やや頬に赤みを差しながらぽしょりと言って、琴美は逃げるようにリビングを後にした。


 え、さっきのはまさかのツンなセリフだったのん?

 可愛いなオイ、親の顔が…あ、私か。

 うん、納得!!

 しかしおかかね、今日スーパーのポイント三倍じゃないから行くつもりなかったけどなー。

 しゃーない。


 私は冷蔵庫から一口サイズのチョコを口に入れると、鼻歌を歌いながら料理を再開した。



         ◆◇


 玄関を開くとそこにはいつもと変わらない夏が待っていた。

 響き渡るセミの声。

 ちりちりと肌を焼く日差し。

 隣家に住む小学生のアサガオの葉がそよと揺れるも、そこに趣きはなく――うだるような暑さの中、生暖かい風が吹き抜けてゆく。

 陽が昇る前、家主により水撒きされた野菜や草花の上に残った雫がキラリと光っていた。


 日差しを避けるように歩きながら、家から持参した白い犬がマスコットのうちわで風を送る。

 そういえば蓮花はハンディファンという小型の扇風機を使っていたな。

 今年は私も買おうかな。

 でも二、三か月凌げば季節も変わるし、種類が多すぎるんだよなぁ…。

 結局今年も買わずに終わりそうだった。


 駅の改札には顔馴染みの駅員が立っていた。

「おはようございます。暑い中、ご苦労様です」

「おー、ありがとう。今日は終業式?」

「はい、明日から夏休みです」

「いいねぇ、夏休み楽しんでね」


 電車に揺られ一駅、汗がひき始めた頃、蓮花が乗車して私の隣にちょこんと座り、朝のあいさつを交わす、

 ちょいちょいと手招きされ、耳を寄せると、内緒話をするように唇に手を添える。

 そうして小さく吐いた息が耳元の髪をくすぐった。

「き、きき今日も、か、かあいい、よ、綾音」

 若干の、前のめり気味な告白。

 それすらも彼女の味になりつつあり、愛らしく思う。

 言葉にして気持ちを伝えること――例えそれが前のめりで不細工な物であったとしても…伝えようとすることに意味がある。


「ありがと、蓮花」

 スッ――蓮花が身を引く気配を感じる。

 横を見ると、ほんのりと桜色に頬を染める蓮花がこちらを見つめていた。

「……」

「……」

「…えーと、何?」

 すると、むぅ~っと頬を膨らませ始める蓮花。

「ごめん、全然わからない」

「も、もう!」

 何やら怒りだしてぷいっとされてしまう。

 私は周囲を見る。

 乗客はまばらで、スマホやタブレット、新聞等に視線を落としているのを確認すると、蓮花の手首を取り、ぐいっと引き寄せた。

「きゃ…」

 蓮花がバランスを崩してそのまま膝枕をするような形になる。

「あ、あやね? ふぎゅっ…」

 こちらへ振り向こうとする頭を押さえつける。

「その…は、恥ずかしいから、こっち見ないで」

「う、うん…」

 蓮花の髪にそっと触れる。

 柔らかな髪はふんわりとして、毛先はサラサラと指の間を流れる。

「蓮花、今日も髪の毛、丁寧に手入れしていて偉いね。手触り、すごく気持ちいいよ。ずっとこうしていたいくらい。可愛いって言って欲しかったんだよね、ごめんね。わかってたけどさ、蓮花の膨れたほっぺたをむにむにしたくて、ちょっと意地悪しちゃった」

 そういって蓮花の頬をむにむにする。

「わ…ちょ…ふにゃ…」

 蓮花が頬ばかりでなく、耳まで真っ赤にしていた。

 朝のあいさつと合わせて、お互いの事を可愛いと言い合うのが、蓮花と決めた新しいルールだった。


 はじめ、それを聞いて、何だそんな事と言った私に、蓮花は憤慨ふんがいした。

「もう、綾音は恋する乙女の気持ち、ぜーんぜん、わかってない」

 一応、私も恋する乙女のはずなんだけどなぁ。

 蓮花の定義する恋する乙女と、私のは違うみたいだ。

 ふむ、これは大切な事だし、ご教示願おう。

「えーと、恋する乙女って、例えばどういう事かな?」

「例え……」

 そこまで言って蓮花がみるみる赤面してしまう。

 うわ、夏祭りのりんご飴みたいだ。

 この後の答えに期待で胸が膨らむ。

「あ、あの…恥ずかしいん…だけど……」

 うん、それは蓮花の態度を見れば一目瞭然だよ。でも、だからこそ是非、蓮花の口から聞きたいのです。

「そこを何とか! お願いします、先生!!」

 私は合掌して頭を深く下げる。

「わ! ちょっと、そんな頭下げないで……でも、せ、先生かぁ~♪ も、もぉ、しょ、しょうがないなぁ~♪」

 蓮花が先生というワードに満更でもなさそうに、慎ましやかな胸を反らした。

 まるで彼女を体現するかのような、……。

 相変わらずのチョロさだった。

 もはやミドルネームにチョロ子と入れたらいいのでは?と思ったのは黙っておく。

 蓮花は大きく息を吐き出すと、話し始めた。

「えっと…その……うぅ~っ!やっぱり恥ずかしい……。つ、つまり…私は綾音の彼女で、その綾音の前では何時いつだって可愛い自分でいたいし、そうあるために影ながら努力をしているわけなのよ。だから、その…ご、ご褒美として? 一日百回くらいは‘‘可愛い’’と言われたいわけなのです」

「百回…」

「あ、えーと五十回?……二十回……な、七回……三回?」

 何か値切り交渉してきた。

 というか……私の彼女可愛い過ぎかよ!

 いや、世の他の乙女もそうなのかも知らないけど、そんなんどーでもいい。

 何この可愛すぎる生き物!!

 もう世界で出版されている辞書の可愛い=蓮花にして改訂版を出版すべきだと思う。

 とりあえず家に帰ったらスマホの単語帳に可愛い、エモい、萌、好き、慎ましやか=蓮花と変換できるように設定しておこう。

 そんな決意を私は新たにするのだった。



         ◇◆


 終業式を終えて、しおり美波みなみの三人で担任が教室に来るまでの間おしゃべりをしていた。

 この後に陸上部の練習を控えた美波が軽いストレッチをしながら訊ねてくる。

「二人は夏休みの予定とかもう決めてるの?」

「私は…あまり決めてないけど、お盆に両親の祖父母の家に帰るのと、あとは図書館で夏休みの宿題をしたり、趣味の小説でも書いてるかな……蓮花は?」

「私もお盆に実家に行くのと、美術館に出かけるのと、バイトしたり…かな」

「へぇ……ん?えぇっ!!」

「れ、蓮花が…バイト……だと?!」

 二人にどこか失礼な感じで驚愕される。

「れ、れんちょん!ど、どこでバイトしてるん?!」

「あの、そのあだ名は某漫画の小学一年生が使用済みだから、やめてください」

「ふ、バカね、美波。」

 栞がクククッ、とわざとらしく口元に手を添えて嘲笑する。

 さっきまで驚愕の表情を浮かべていたのに、もう冷静な表情に戻っている栞ちゃん、物語の主人公みたいに、切り替え早いなぁ。

「しおりん、ど、どういう事?」

「しおりん言うなし!」

 秒で素に戻っていた。

「そんなの、決まっているわ」

 え?もうバイト先バレてたの?まだ綾音と家族以外に伝えてないのに、しおりん、恐ろしい子!

 ストーカー並みの情報網に半分恐れ、半分引き気味になる。

 栞が財布から一枚のレシートを取り出し、何やら描き始める。

 そしてその紙を人差し指と中指に挟みつつ、スッと、私の座る机に差し出した。

 そこには……。

『やぁ、遅刻しちゃうぅ~っ!!朝起きて遅刻しそうになって食パンの替わりにコーンフレークとわたぼく牛乳のパック片手に登校してたら通りの角で運命の彼女とぶつかってそのまま異世界転生しちゃったけど百合百合んな力でソッコーで世界の破滅救っちゃいました!暇になった私と彼女は帰り道がわからなくて、そのまま結婚式挙げて、毎日イチャラブな生活楽しんでま~す☆ぴーす♪』

 というやたら長すぎるタイトルの漫画購入履歴が記されたレシートが……。 

 というか、凄いなこのレシート何文字まで印字するんだろう。

 レシートでショートショート書けるんじゃない?

 レシートの下にはアニメ放送記念、原作ラノベふぇあ開催CHU~(^3^)/という文字と店舗のイメージキャラクターなのか、可愛らしいメイドさんと巫子さんのイラストがプリントされていた。

「ぐあっ!!」

 栞が特殊な趣味がバレた反動で、頭を机に打ち付ける。

 衝撃の事実に黙り込む私とすでに知っていたのか、腹を抱えながらうひひっと笑う美波。

 そうして、精神と顔面が崩壊しかけながらも、冷や汗ダラダラな彼女がレシートをぺらんと裏返す。

 そこには……。

『かたたきけん♪』

 と書かれていて、周囲に猫だか犬だかよくわからない名状しがたい生物みたいなものが描かれていた。

「えっと、し、栞…ちゃん?き、聞いていいかな?」

「お、表の内容でなければ……ぐすっ……」

 机に突っ伏して、嗚咽をこらえるようにしている。

 なんか、ごめんなさい。

「これって、つまり、私のバイト=お母さんとお父さんの肩たたきをするって事?」

「…ち、違ったかしら?」

「あ、当たり前でしょう。私だってみんなと同じ、高校生なんだからね」

「そ、そうね、ご、ごめん…ぐすっ」

「あ、いや、な、泣かないで~」

 何だか私が泣かせてるみたいで後味が悪かった。

「しおりん、よしよーし! ほら、ユー、アポロ食べちゃいなYO!」

 美波が栞の頭をなでなでしながら、ポケットからアポロの小箱を取り出す。

「……甘酸っぱい…」

「そうだね~、青春はいつも甘酸っぱいものなんだよ~」

「ん、みなみん、ありがと…ちょっと元気出た」

「そうかい、そりゃ良かった♪ ところで、私はこれから部活行くけど、どうする?」

「図書館で待ってるから、お昼一緒しよ」

「了解! ツンデレしおりんも可愛いけど、素直なしおりんも私は大好きだぜ! じゃ、図書館まで一緒に行こう」

「うん…」

 起き上がると、栞は美波の手を握った。

「それじゃ、またね!蓮花」

 美波が手を挙げてあいさつしてくる。

「う、うん…し、栞のこと、よろしくね」

「りょうかーい!」

 快活に笑い、栞を連れだって教室を出ようとして、丁度担任に出くわして、‘’早く席に着きなさい!‘’と怒られるのだった。



         ◆◇


 終業式が終わり、担任が来るまでの間、深谷と本庄の三人で話をしていた。

「ほえぇぇぇぇ~」

 およそ女の子、いやもはや人間らしからぬ欠伸を堂々とする深谷。

 そのうち「うきょおぉぉぉぉ」とかいう欠伸をしそうだ。深谷宇宙人設とか、ありかも…。

 メンタル強いな。

 いや、何も考えていないだけか。

 そんなくだらないことを考えていると、無意識に深谷を見つめていたらしい。

 深谷が首をぐにんとして、訊ねてくる。

 ホラー映画みたいな角度でちょっと怖い。

「ん? どったんアヤぴょん」

「いきなり人に変なあだ名をつけないでくれる?」

「わかった、アヤチッチ」

「……」

 ツッコミ始めると切りがなさそうなので無視して本題に入る。

「ふと思ったんだけど、深谷って朝寝坊しそうなイメージなのに、ちゃんと登校出来てるなあって思って」

「ふふん、今頃気付いたのかい? まあ、私には優秀な秘書がいるからねぇ」

 そうして深谷が本庄の頭をポフポフと撫でる。

 ドヤ顔で胸を揺らされ、私は若干の殺意を覚え、頬が硬化するのを感じた。

 本庄が深谷の手をウザったそうに払うと、溜め息をついた。

「お前さぁ、いい加減自分で起きろってーの。毎朝お前を起こすために早起きする私の身にもなれよな!」

「え?毎日起こしてるの?」

「まーな、しかもこいつスマホだと空返事してそのまま二度寝しやがるんだ。一度それを信じて遅刻しかけたぜ。以来、合鍵を作って直接部屋に乱入してる」

 本庄の生真面目さというか、強引さも凄いけど、それをあっさり受け入れる深谷も凄いな。

「うちは共働きだから、朝ごはん用意してすぐ出勤しちゃうんだ」

「私が居るからいいものの、そうじゃなかったら遅刻常習犯だぞ、コイツ」

 本庄が深谷の頬に指を突き付ける。

「それはどうかな? 本庄が居なければ居ないなりに、重い荷物を持ったばぁちゃんを助けていたとか、様々な感動的なエピソードを披露して、遅刻を免れてみせるさ」

「遅刻前提のシナリオじゃねーか」

 本庄が深谷にチョップをお見舞いした。


「ところで、二人は夏休みの予定とか決めてるの?」

「本庄と一緒にいる」

 深谷が本庄を後ろから抱き締めて、たゆんとした胸を頭に乗せる。

「暑苦しいわっ!!」

 本庄が深谷の胸を叩くとするりと抜け出した。

「うちは…えーと、そうだな…お祭り行ったり、お盆にじいちゃんの家でスイカ食べたり、花火したりかなー」

「わあー、またじいじの家のプーさんと遊べる~♪」

「プーさん? 赤いシャツを着たハチミツ好きなくま?」

「いや、じいちゃんちの雑種の中型犬だよ。本当はプーたんって名前なんだけど、コイツはなぜか‘’さん‘’付けするんだよ」

「いやいや、あのゆるふわかつダンディーな男! な、オーラとか半端ないし」

「なんだそのブレブレなキャラ設定。というか、またお前実家までついて来るのかい。

 まぁ、じいちゃんも‘’孫が増えた!‘’とか言って喜んでるからいーけどさ」

「ふっふっふ、本庄ある所に私あり!…だよ」

「ストーカーのセリフでドヤるな、アホ! というか、昨年みたいに着替え忘れるなよ!」

「あー、あったっけ?」

「あったよ、一年前の事もう忘れたのかよ」

「当然だが?」

平然と返す深谷。

「おま……もういいわ」

本庄は突っ込むのを諦めた。

「ん? あ、今思い出した!」

「唐突だな」

「そうそう、本庄からTシャツ借りたら、幼稚園児服みたいにパツンパツンで、おへそが丸出しになっちゃんたんだよね♪」

「うるせぇっ! 小さくて悪かったな!!」

「悪くないよ~、本庄は小ちゃいから、よりキュートなんだよぅ」

 うがあっ!と牙を向く本庄に、まったく動じないどころか、むしろ微笑んで接する深谷。

 本当にいいコンビだ。

「そんで? アヤチッチの夏休みの予定は?」

 本庄にまで言われる。何これイジメ?

 次の時には、普通に呼ばれることをささやかに祈った。

「まあ、私も似たようなものかなー。あ、バイト始めました」

「へぇ、中華料理店?」

「え?」

「ん?違ったか?」

「うん、てゆーか何で?」

「だって、冷やし中華はじめましたみたいなノリだったからつい」

「はぁ……えっと、コンビニのバイトッス」

「ほう?どこのだい?」

「いや、言わないけどね」

「なんでだよ」

「だって、絶対からかいに来るでしょ二人とも」

「ふつー、それ以外に友達のバイト先詮索しないだろ。な、深谷」

「うーんとね……アイス無料?」

 嫌なコンビだった。

「いや、無いから。それ私が店長に怒られるか、おごるかの二択じゃん」

「まーまー、店の売上げに貢献するんだから、ありがたいっしょ?」

「別に売上げが上がろうと、まだ研修生だから変わらないし」

「ちぇっ! 夏休みの楽しみを一つ見付けたと思ったのになー」

 本庄がむぅと残念がる。

「本庄、諦めたらそこで試合終了だよ、私たちには担任兼お友達なマユ先生がいる」

「なるほど、その手が…でかした深谷!」

 イエーイとハイタッチを本庄が決めようとして、深谷は撫でられるのと勘違いしてバレーボールがスパイクを決めるように叩かれていた。

 とんだ凸凹コンビだった。


 しかし、夏休みに相手の実家にまでついていくとか、普通じゃちょっと考えられない。

 想像以上に二人は仲が良かった。

「あのさ……ふ、二人はその……付き合ってるの?」

「へ?」

 今までは普通に流していた光景も、実際に彼女が出来ると、色々と悩む事が多くて、かといって気軽に相談できる内容ではない。

 でも、もし二人が私たちみたいな関係なら、非常にありがたいなと思ったのだ。

 深谷が微笑みながら訊ねてくる。

「ふふ、アヤチッチもそーいう趣味なの?」

「え? い、いや…その……と、友達がさ…そう、友達が、そんな感じで……」

「まあ、私はラブかライクで言ったらラブだね。ねぇ、本庄、結婚しよ! 子供たくさん作って野球チーム、ホンジョーズ、結成しちゃおっ!」

 何だか鮫っぽかった。

 深谷が本庄にハグをして、キスをしようとする。

「だああっ! ヤ・メ・ロ・バ・カ」

 本庄が深谷の唇を両手で押し退けようとする。

 ペロッ。

「うわ! コイツ舐めやがった! にゃろ!」

 本庄の、左手が深谷の額斜め四十五度でチョップをお見舞いする。

「痛い…」

 深谷が涙目で本庄に訴える。

「知るかバカ!」

 本庄が溜め息を吐くと言った。

「深谷はそういう考えみたいだけど、私たちは親友、だよ」

「そ、そっか」

 うん、まあ、そうだよね。

 深谷は天然入ってるから、距離感がバグってるだけで、こんな身近にいるわけないよね。

「ひどい、私と結婚するって約束してくれたのに、あれはウソだったの?」

「バカ! そりゃ幼稚園の頃の話だろ!」

「そう、私との関係は遊びだったのね」

 深谷がを作って泣く真似をする。

「はぁ…めんどくさ」

「ふふ、色恋沙汰は面倒なものよ」

「…さーてと、どこを叩けば治るかなぁ、このバカは」

 本庄が手刀を構えてにじり寄る。

 深谷がじりじりと後退し……あ、逃げ出した。



         ◆◇


 駅に着くと内心、はやる気持ちを抑え、エスカレーターに乗った。

 蓮花は私の汗のにおいも好きだというちょっとヘンタイさんだけど、私自身が恥ずかしいし、朝の蓮花の話ではないけど、やっぱり好きな人の前では、か、可愛くかつスマートでありたいと思うのだ。

 私は駅構内にある柱に寄りかかると、肩掛けバッグからシトラスのミストを取り出して振りかけると、彼女の元へ向かった。


「綾音!」

 こちらに気付いた蓮花に、ぱあっと花が咲くような笑顔を向けられて自然、こちらも微笑む。

「いつも待たせてごめんね」

「ううん、さっきまで本屋をブラついてたし、それに最近は綾音が来るまでの時間も楽しんでるよ」

「そうなの?」

「うん、これから綾音に会えるんだーって思うだけで、ソワソワ?ドキドキ?ワクワク?……うーん、うまく言えないや。でも、のんてゆーの? こう、胸の辺りがわあああってなるんだ」

 蓮花が胸の前で何かを大切そうに包み込むように持つ仕草をする。

 蓮花らしい、語彙力が崩壊した言葉にならない何かは――でも、だからこそダイレクトに私の胸に気持ちが伝わった。

「蓮花らしいね。私も蓮花に会えると思うとすごく嬉しいよ」

「そう。じゃあ、私たち、一緒だね♪」

「そうかもね。じゃ、お昼ご飯食べにいこうか」


 お昼を食べた私たちは駅に直結している複合施設を歩きながら他愛のないおしゃべりをする。

 白くまの抱き枕の涼しげなお腹をさわさわとさすっている蓮花に訊ねる。

「バイトは順調?」

「うん、まだ一週間だけど、バイト仲間の人たちとはみんな優しいよ。えっとね、バイト仲間の田村さんって人はね、よく休憩時間におまんじゅうとか、金平糖とかのお菓子をくれるんだ。それと優希ゆうきさんは頼りないけど優しい女子大生さんだし、同学年の雨宮あまみやさんは一見無愛想だけど、すぐに助けてくれるし、時々ラムネ菓子を貰えるんだ」

 何か個性的な人たちだなー。

 というか、蓮花餌付けされてないか?

「綾音もバイト受かったんだよね?」

「うん、高校の近くのコンビニ」

「そっか、じゃあ今から行っちゃおう!」

「えぇ! いや、止めておこうよ」

「えー、何で?」

「いや。そっちこそ何で?」

「ふふん、私が綾音に相応しいバイト先かチェックしてあげるよ」

「そんな事言って、さっき我慢して食べなかったファミレスの変わりのデザートを食べたいんじゃないの?」

 蓮花が手に持っているハンカチにはペンギンがかき氷を食べるイラストが描かれていた。

「へへ、バレたか」

 蓮花がイタズラを指摘された子供のように、にへへっと笑うと、私の手首を掴んだ。

「れ、蓮花?」

 驚く私に構わず、かごの中のクッションコーナーにズボッと腕を突っ込む。

「ほら……このクッション、すべすべで気持ちいいね」

 蓮花がふわりと微笑みながら、クッションの中に隠れている私の手のひらにそっと触れてくる。

 完全な不意討ちだった。

「う、うん…き、気持ち、いい……ね」

 私は頬が熱くなるのを感じた。

 指先から手の甲、手のひらへと、全体を撫で擦るように触れられる。

 ぬいぐるみに包まれて目に見えないと、より感覚が敏感になり、指先の柔らかさやすべすべと滑らかな感覚にじんわりと伝わる熱がより強く感じられた。

「ねぇ…ダメ……かな?」

 耳元で囁かれる声は、甘くしっとりとしていて――まるで砂糖菓子が舌の上で溶けるようだった。

「……わ、わかったよ」

「本当? やった!」

 うれしそうに微笑む彼女に、私も案外チョロイなあと思った。


「へーい、らっしゃっせー……て、おお? 蒼海あおみさんじゃん! 今週オレとシフト被るからよろしくな」

「よろしくお願いします」

「今日はお友達と遊んで……って、れ、蓮花?」

「え? お、お兄ちゃん?!」

「あ、じゃあお前がよく家でニヨニヨしている時の女の子の名前じゃん!」

「ちょっ! な、何で知って…」

「いやぁ、お前、時々部屋のドア半開きの時あるからさ。昨日も、『おやすみ綾音』とか、言ってただろ」

「いや、その…えっと……は、はい。してました」

「れ、蓮花~っ!!」

「ご、ごめん~」

「しっかしねぇ、へー、ほぅ、ふーん」

 蓮花の兄が顎に手を添えてまじまじと見つめられる。

「ちょ、ちょっと、蓮花! すごい恥ずかしいんだけど?!」

「うぅ…ごめんなさい」

「はっはっは、こりゃあこれからのバイトが楽しみだぜ!」

「すみません、今すぐ辞めさせて貰ってもいいですか?」

「えー? でも店長とオーナーの夫婦コンビ、今日から一週間くらい、海外旅行だってさ」

「そんな! 初耳ですけど?!」

「あー、また連絡忘れか、あの二人。つーわけで、その間は俺が代理店長だ」

「じゃあ…」

「もちろん却下! 一身上の都合では辞めさせない」

「大抵は一身上の都合で辞める人がほとんどだと思いますが……」

「そうだけどよ、店長たち居ない間にオレの勝手で解雇なんて出来ないに決まってるだろ」

「わかりました……」

 私は盛大な溜め息をつくのだった。


          ◆◇


 蓮花の最寄り駅に一緒に降り立つ。

「綾音、いつも送って貰ってごめんね」

「それを言うならありがとう、でしょ」

 私はすかさず彼女の頬を人差し指でつつく。

「あ、ありがとう」

「うん、どういたしまして……と言いたい所だけど、私が好きでやってる事だからね、気にしなくていいよ」

 彼女に笑いかけると手のひらを差し出した。

 僅かに迷った後で、おずおずと手のひらを伸ばしてきた。

 夏の田舎道を彼女と二人歩いてゆく。

 夕焼け色に照らされた低い雲の一群は、オレンジやピンク、紫に染まり、まるで綿菓子のようにふわふわと柔らかそうだった。

「空、綺麗だね」

 隣を歩く蓮花の柔らかい声に私も頷く。

「そうだね、この雲好きかも」

「また一緒…だね」

 蓮花がうれしそうに恋人繋ぎした指先できゅっと握り込んだ。


 しばらく歩くと、以前、梅雨の時期にお世話になった公園が見えてくる。

 もう少し、蓮花とお話したいな……。

「ねぇ、もう少し綾音とお話ししたいな」

 私が思っていた事と同じセリフを蓮花がほぼ同時に言葉を発する。

 すごい偶然に、驚き笑った。

「綾音?」

 小首を傾げる蓮花の頭を優しく撫でながら、私はちょっと寄っていこうと応じるのだった。


 東屋に到着すると、並んで座って一緒にシエルの楽曲を聴く。

 別に周りに人は居ないのだから、イヤホンなんてしなくてもいいのに、私たちは暗黙のルールのようにイヤホンをしながら聴く。

 もしかしたら、彼女も私と同じことを考えているのかも知れない。

 イヤホンをすれば、自然と肩が触れ合うから……。

 イヤホンを通して好きな人と好きな音楽を聞いて目を閉じていると、世界に二人だけしかいないと感じる時があった。

 その瞬間が好きだった。


 何曲目かを聴いている時、蓮花がそっと私のイヤホンを取り去った。

 驚いて蓮花を見る私に、彼女がいたずらっ子みたいに笑った。

 お返しに彼女の耳から私もイヤホンを取った。

 そうして笑いかけようとして、彼女の熱っぽい視線に気付いた。

「蓮花、どうかした?」

「え?あ、うん……その…」

 そこで俯いて黙り込んでしまう。

 もう、仕方ないなぁ。

 相変わらず、こういう肝心なところの一歩はなかなか踏み出せないようだった。

 まあ、人間そうそう変われるもんでもないしね。

「今、蓮花が何を思っているのか当てて上げようか?」

「え?」

「私とハグ、したいんでしょ?」

「そ、それは…その……」

「ありゃ、違ったかい? じゃあ、そろそろ帰ろっか」

 そう言って立ち上がろうとした時、蓮花の手のひらが私の小指をぎゅうっと握った。

「痛っ!ギブギブッ!」

「わ、わあっ、ご、ごめんなさい!」

 幸い、すぐに解放されたものの、ひりひりと痛んだ。

「…骨折するかと思ったわ」

大袈裟に言ってみる。

「うぅ、ごめん~」

 涙目になってうるうるしている彼女を見ると私は苦笑しながら彼女の頭を撫でた。

「もういいよ。それに、私もちょっと意地悪だったから、おあいこって事にしよう」

「自業、自得…」

「…なんか今日の蓮花さんは辛辣だね」

「い、いえその、じ、冗談…です」

 冗談が下手過ぎて、蓮花固有の持ちネタみたいになっていた。

 蓮花はぎこちなく笑い、一つ深呼吸をすると、私の顔色を伺うような視線で本来の目的であるおねだりを口にした。

「あ、あのね、綾音。そ、その…は、ハグしていい……かな?」

 さっきのやりとりでダメになったと思ったのか、直接言葉で伝えてくる。

 小さく頷くと、蓮花はわあっと表情をほころばせて私に抱き付いた。

 そのまま、ぎゅうと強めに抱き締めてくる。

 彼女の髪を優しく撫でると、淡い花の香りが鼻を抜けていった。


 そうして、しばらく抱き合った後、彼女が頬を染めながら、再び物言いたげな視線を向けてくる。

 いつもならハグとなでなでのセットで終わるのに、今日の蓮花は攻めてるなぁ。

「今度は何かな?」

「あ、あの、あのね。お見舞いに来た時にしてくれた、あれ……またして、欲しい……なー、とか。思ったり…しちゃった…」

 頬だけにおさまらず、耳まで赤くしていた。

「ま、マジ?」

「うん…ダメ?」

 いやぁ、ダメではないけどさ…あれ、結構恥ずかしいのよ。

 まあ、頬や唇にするよりかは緊張しないだろうけどさ――経験ないからわからないけど。

「あ、綾音…」

 考え込む私を否定的な態度と捉えたのか、蓮花が眉根を寄せ、悲しみの色を滲ませる。


 目を閉じると、彼女について考える。

 もしかしたら、今までも何度も、それをして貰いたいと思っていたのかも知れない。

 でも、言えなくて、伝えられなくて、もどかしい気持ちを何度も、何度も……。

 そうして今日、勇気を奮い立たせて私に想いを伝えてくれたのだ。


 適当になだめて誤魔化すことも出来るだろう、でも……。


「か、かか覚悟しと、け…よー!」

 カミカミで、震える声音で、それでも彼女は私に宣言をした。


 その不細工で、でもそれ故にまっすぐな彼女の全力な想いに対して、可能な限り私も全力で応えようと思ったのだ。

 そして、そのセリフを彼女から引き出したのは私自身だった。


「……いいよ」

「え?」

彼女がきょとんとする。

私は頬が熱くなるのも構わずに続けた。

「そ、その…こ、これから…れ、蓮花の……お、おで、こに…ちゅ、ちゅーしようと、思います」

「あ、はい…お、お願いします」

 蓮花が緊張した面持ちでスッと目を閉じる。

 形の良い睫毛がふるふると揺れていた。

 ふと冷静になる。

 何だこのやりとり。

 他の人が聞いたら、みんながみんな、ヘンな奴らだなぁと思うことだろう。

 果たしてこれが、彼女のいうところの世に言う恋する乙女というもの、なのだろうか…?

 分からない、分からないけど、何というか…これはすごく恥ずかしくて、不細工で、私のイメージする恋愛とは全然違ってキラキラしたものではなかった。

 

 でも、多分これが…私の……私たちの、‘’恋のカタチ‘’なんだろう。



 向かい合い、肩に手を添えると、ぴくんと僅かに彼女の肩が跳ねる。

 手を伸ばし、サラリ――前髪をかき分けると額はじんわりと熱を帯びていて、その熱がドキドキとした彼女の心音を伝えてくるようで、こちらまで胸がきゅうと、切なくなってくる。

 つるりとした額の皮膚は、彼女から貰った青い花の石を私に思い起こさせた。

 硬く、滑らかで、透明なドームにある、青い神秘の色……。


 目を閉じて、ふぅ、と一つ息を吐くと


      ………ちゅ………


――彼女の額にそっと口付けをした……。


 

時間にしてしまえば僅か数秒の出来事だ。

 でも、この瞬間は、私たち二人にとって、かけがえのない夏の始まりの一ページになったのだった。



「綾音…」

 目を開くと、夕焼け空を背にした彼女が柔らかい笑みを湛えていた。

 その頬には一雫の涙があった。

 それは、煌めく想いを乗せて静かに流れ落ちたのだった……。



         ◆◇


 夕飯とお風呂を済ませ、布団に寝そべりながら、何度も読んでいる、今最も推し!な漫画を読んでいた。

「私は、クロハネが好き」

「シラユリ……私は、君を騙していたんだぞ! それなのに…」

「だって、それは仕方がなかったのよ……大丈夫、私は信じるよ。例えまた騙されたとしても、私はもう、決めたから。あなたと一緒にいるって……」

「シラユリ……わかった。私に惚れたこと、後悔するなよ?」

「うん……大好き、クロハネ♪」

 そうして二人は永遠の愛を誓うキスをするのだった……。


「……うん、いい……」

 頬が緩む。

 私も、こんな二人みたいに綾音と……。

 ぽうっと脳内でシラユリとクロハネを自分たちに置き換えてみる。

「…やば…最高過ぎる……綾音ぇ…」

 突然ドアをノックされる。

「はひゃっ?!」

「おーい、ちょっといいか?」

 お、落ち着け私! 大丈夫、今までのやり取りは閉じた室内での事だから聞こえたり、見られたりはしていない筈。

 深呼吸して、全・集・中っ!!


 ……て、集中してどうするのよ、何も変わらないじゃない!

 大丈夫大丈夫、私はクールキャラ、クールキャラ。そう、例えるならさっきまで読んでいたクロハネよ、クロハネ!

 ……て、さっきまでの尊い展開思い出して頬が緩んじゃう! ど、どうしよう、綾音~!


「おい、そろそろ開けてもいーか?」

「ひゃわっ!は、はひゃーいっ!!」

 顔と心がごちゃつき過ぎていて、発音が破綻していた。

 私はクロ×シラ限定版の本を枕の下にそっと隠してドアを開けた。

「おう、急に悪いな」

 そこにはお兄ちゃんが立っていた。

「ううん、兵器、へっちゃら」

 ぶんぶんと首を降る。

「へっちゃら? と、汗かいてるのか?」

 それはお兄ちゃんのせいなんだけどね。

「夏だからね!」

「部屋、冷房ガンガンだけど」

「ガンガンは熱い漫画雑誌だからね!」

「いや、は? そうか?」

「え?」

「え?」

 …………。

 微妙な沈黙……。

 堪えきれなくなって私は口を開いた。

「ところでっ!! な、何か用かな?!」

「え? あ、ああ」

 急な大声にお兄ちゃんがたじろぐと、ポケットから二枚の紙を差し出した。

 紙の上部には切り取り線があり、深い青の円とその周囲を螺旋状に色とりどりの魚たちが舞っている。

 若草色でアクアリウムという文字とマンタのシルエットがプリントされている。

 水族館のペアチケットだった。

「これ、やるよ」

「いいの?」

「ああ」

「でも、なんで急に…」

 するとお兄ちゃんは一瞬黙り込み、生暖かい視線をこちらへ向けてくる。

「……いやー、それ、聞いちゃう?」

 え? んー?

 不思議そうに首を傾げる私に、お兄ちゃんは乾いた笑みを浮かべ、顔を背けて頭をかきながら、まーいっかと口を開く。

「フラレた」

「ええっ?!」

「昨日」

「えええっ?! な、なんで…」

 そこまでいってハッとして口を塞ぐ。

 するとお兄ちゃんは笑いながら答えた。

「ははっ、こういう話はぐいぐいくるなぁ、やっぱり年頃の蓮花ちゃんはこういう話に興味津々かい?」

「あ、えー、まあ、その、少し、興味ある…かも」

 顔を背けつつ、チラチラと横目で見つめる。

「ウソ下手すぎかよ?! ま、いーけど」

 いいんだ。

 というより、お兄ちゃん実は話したかったんじゃないの?


「昨日、ファミレスに行ったんさ。それで、注文したメニューが届くまでの間、彼女無視してひたすらソシャゲ……あー、つまり、スマホでゲームをやってたんだ」

 いきなり酷い。

「そうしたらさ、彼女が俺に行ったのよ」

「うん」

「私とゲームどっちが大事なのっ?!ってさ」

 そりゃあ、そうなるよね。

「なんてつまらない質問してくるんだ、この女は、と思ったね。そんなの仕事と私、どっちが大事なのっ?! と同じじゃん?」

「いや全然違うよ、お兄ちゃん。というか、彼女といる時ぐらい我慢しようよ」

「期間限定イベントなんだよっ!! このイベント逃すと来年までSSRゲットするチャンスがないんだよ! わかるか?」

 お兄ちゃんが食い気味に詰めよってくる。

「ごめん、全然わからない」

「で、話戻すけどさ、あまりにくだらない質問だったからさ、むしろこれはフリか?って思うだろ?」

「フリ?」

「あれだ、ボタンを押すなって言っておいて、実は押せっていう、よく芸人とかがやってる」

 いや、絶対違うよそれ。

「そ、それで?」

 そこまで話すとお兄ちゃんは何故か得意気な顔をしてふふんと笑った。

「だから、言ってやったのさ。んなもん、ソシャゲに決まってるだろってさ!」

 なんでやねん!

 内心、お兄ちゃんにツッコミをいれる。

「そしたらよ、コップの水をぶっかけられて、そのまま帰りやがったんだ! ムカついたからあいつのミラノ風ドリア食べてとフォカッチャに、アイスクリーム乗せて食べてやったぜ!」

 あー、美味しいよね~、アイス乗せフォカッチャ。て、違うっ!!

 私が自分の頭をペシンと叩くと、お兄ちゃんに心配そうな視線を向けられたけど、無視した。

「それめちゃくちゃカッコ悪いよお兄ちゃん!というか、そこは追いかける一択でしょっ!」

「いや、会計に日本語解らん外国人のバックパッカー夫婦みたいのいて、店員めっちゃ困ってたし」

 何でそこでいらない気遣いしちゃうのっ! 

 もっと他の場面で気遣いするべき所があると思うけど。

「それから音信不通。というかブロックされちまってなー」

「うわぁ……」

「つーわけだから、遠慮せず貰ってくれ」

 遠慮とか以前にすごいモヤモヤした。

「う……あ、ありがとう」

「そんな複雑な顔すんなって。こいつが無駄にならなくて良かったぜ」

「あの、余計なお世話かもだけど、今度ちゃんと会って話合いしなよ」

「んー、まー、そのうちなー。というか、お前にそんな心配される日が来るとはねー。そっちはどーなん?」

「へ?」

「いや、うまくいってんのか?」

「うまく……は、わからないけど一緒に居て楽しいよ」

「ほーう」

「え? あ、いやだからそういうのじゃないんだからねっ!」

「ツンデレゼリフキターッ! 録音するからワンモアプリーズ!!」

「絶対嫌だ! というか、違うんだからね!」

 しかしお兄ちゃんはまったく意に介さず、八重歯を覗かせながらが笑う。

 むうぅ。

「じゃーな、いい報告待ってるぜ」

 そういうと自室へ去っていった。


 ドアを閉めると、布団に横たわり二枚のチケットを掲げる。

 チケットの縁より零れる蛍光の灯りに目を細める。

「水族館デート……いいかも♪」

 水族館行くの久しぶりだなー、クラゲは癒されるし、熱帯魚とかカラフルな魚は観ていて飽きないし、ペンギンも可愛くて好き。

 あと綾音が時折見せる照れ笑いとか超好き。

「て、水族館関係ないけど…ま、いっか」

 相変わらず浮かれてるなあ、私。


 でも、仕方ないよね。大好きな女の子とのデートを考えてるんだもん。

 妄想の中でくらい、浮かれたっていいよね?

 妄想以外でも浮かれてるかも、だけど。


 本当は、今すぐにでも机の上にあるスマホを持って彼女に連絡して、デートの約束をしたかった。でも、ぐっと堪える。

 電話の声よりも、直接会って伝えたかった。その時、彼女はどんな表情を私に見せてくれるのか。

 早く、明日にならないかな。

 いつもの就寝時間に布団に入ったものの、今日はなかなか寝付くことはできなさそうだった。


 窓の外には星空と月……。


 あなたを愛しています。

 そう、彼女に告白された夜をふと思い出す。

 あれは、分かっていて、伝えたのかな?

 いや、あの反応からして、多分分かってなかったのだろう。

 あの夜は、どんな風に電話すればいいのか分からなくて連絡出来なかった。

 翌日会った時、しばらく続いたぎこちない空気から、彼女も意味を知ったのだと察した。


 いつか、彼女から、言って欲しいな……。

 あるいは、私から言うかも知れない。



 その時が来るまで焦らずじっくりと――――今の私たちの時間を楽しんでいこうね、綾音♪








―――――――後編につづく―――――――

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