海の子ども、恋を知る

「この5mプールはさ、夢なんだよ。海のない町に生まれた住民たちのね。潮風も吹かなけりゃ魚や貝殻、砂浜なんかもないけど、それでも、僕らにとってはここが海だったんだよ。」



俺が中学に入学するのと同時に、やけにキザな言い回しをする、いけすかない新任の教師がやってきた。その人は俺たち1年を窓からプールが見える部屋に集め、長々と話し出した。中学1年生の俺は夢なんて語っちゃって、とれたことを思う反面、少し興味が出始めていた。



「夏休みは自由に泳げるよう解放されててね。昔はさ、良くも悪くも協調性が求められた時代だったからね、泳ぐのが苦手な子も"根性が足りない"なんて言われて無理矢理入らされてたんだよ。今だったら考えられないね。で、泳ぐのが苦手な子は夏休みに補習を受けなきゃいけなくて、僕みたいな泳ぐのが好きで来てる子と一緒に入るんだよ。最初はビクビクして足しかつけられなかった子が、しばらくすると僕らと同じようにスイスイ泳いでて、びっくりしたんだけど、水中の深いところでその子と目があった時、何だかわからないけど、ものすごく感動したんだ。顔を出すと太陽が眩しくて、金波っていうのかな、水面がキラキラ輝いててね。僕らは、海の子どもにでもなった気分だった。だからここのプールはね、ただ深くて怖いところじゃない、僕らにとっての海なんだよ」


「もちろん今は普通の深さのプールもできてるし、ただ泳ぐだけなら5mプールに入る必要もない。だけど、だからと言って水もいれずに放置するだけじゃ、もったいないと思うんだ。そこで僕は、これを活用できる、新しい部活を作ろうと考えた。……そこの君、何だと思う?」



突然その人は俺の方を見て、爽やかな笑みを浮かべながらそう質問してきた。俺が答えられずに黙っていると、「何でもいいよ、言ってごらん」とのんびりした声で言うので、「ダイビング部とか?」などと適当に答えた。


「あぁなるほど、それもいいね。さすが今の子だ、かっこいい言葉を知ってるんだね。」


暗に否定されたことにムッとして、「じゃあ正解は何なの」とぶっきらぼうに聞く。


「うん。僕が考えたのは、素潜り部です。素潜りって分かるかな。……そこの君」


「え、また俺?知らないよ、生のモグラってこと?」


「……ふふっ。生のモグラって、面白いね。逆に生じゃないモグラって何なのか気になるけど」


「れんれん馬鹿じゃん!スモグリって、すももの形した栗ってことだろ!」


俺と先生の会話を聞いて小学校からの友人、果南が横からヤジを飛ばしてきた。


「はぁ?そんなわけないじゃん。だったらスモモグリになるだろ!ていうかれんれんって呼ぶのはもうやめるって約束しただろ!カナちゃんって呼んでもいいのか!」


「う、うっせえ!俺は果南カナンだ馬鹿れんれん!だったらそっちだってスモグラだろ!」


「れんれん言うな!スモグラの方が近いじゃんかよ!なぁ先生、どっちが正解?」


トンチンカンな議論をする俺たちに、その人はうーん。と悩む素振りをし、目を細めながら道のりは険しいなぁと呟いた。どことなく楽しそうで、昔を懐かしむような優しい笑顔をしていたのを覚えている。そしてその2週間後、俺は素潜り部に入部した。スモグラでもスモモグリでもない、水深5mのプールを、ただ潜るだけの素潜り部。中学生の俺は単純にも、"海の子ども"というワードに惹かれたのだった。

















あれ、と思ったのは、中一の、蝉のうるさい季節の半ばに差し掛かった頃だった。自分と同じ男の、首に伝う汗が、暑いからと着崩した制服から見える鎖骨が、部活に入って逞しくなった腕が、直視できなくなった。だめだ、これは誰かに知られてはいけない。それだけは強く確信し、早くなる鼓動と熱を帯びる頬は死ぬ気で隠した。隠す度、胸がとても痛かった。どうしてだろう。どうして俺はこんなふうに、悪いことをしているみたいにしなきゃいけないんだろう。俺は普通じゃない。中学1年生の未熟な俺にとっては、それがとてつもなく辛かった。















「明日は、1年生が部活動見学に来る日です。なんと4人も来てくれるみたい!皆んな、先輩らしくかっこいいところ見せてね!」



2年生に上がったばかりのある日の帰り際、先生が目をキラキラさせてこんな感じのことを言ってたけど、その日俺はテストの点数が友達より低かったことで著しく機嫌が悪かった。先輩らしく、なんてまだ1年生気分の俺にはイライラを増やす要素でしかない。


小学校から変わらない同じ帰路を辿る果南に、コソコソと話しかけた。別に誰かが聞いてるわけではないのだけど。


「なぁ果南。俺明日、部活サボる」


「え、はぁ?何でだよ、れんれん」


「れんれん言うな。だってさ、一年に見られるなんて嫌じゃん」


「そうか?かっこいいとこ見せれる絶好のチャンスだろ!女子もいるかもしんないし」


「……いないに決まってんじゃん。大体、いたとしても深さにビビって逃げるよ」


「お前って女子に厳しいよなぁ。まぁ確かに、れんれんは最初から結構深いところまで潜れてたし、全然ビビってなかったよな」


「れんれん言うな。俺は小学生の時から水泳習ってたもん。でさ、一緒にサボろうぜ」


「えー、やだよ。先生泣いちゃうじゃん」


「……まじで泣きそうなんだよなぁ、困った」


「だーから、真面目に泳ごうぜ!かっけぇとこ見せてやるべ」


「いい、俺一人でサボるし」


「何だよ。不良気取りか、れんれん」


「次れんれん言ったら殴る」


「れんれんれんれんれんれんれんれん」


botのように連呼する果南の尻辺りを強めに蹴った。


「いってぇ!殴るって言ったくせに!」


「別にどっちでも一緒だろ」


「俺今、人生初めての痔になってんだよ、馬鹿れんれん!」


「その歳で初めてじゃなかったらびっくりだよ。てか痔ってお前、プール入れるの?」


「刺激されなきゃ大丈夫。今みたいにどっかの馬鹿に思いっきり蹴られなきゃ大丈夫」


「もっかい蹴っとく?」


「れんきゅん許して」


さっきより強めに蹴って、悶絶する果南を放置し家までダッシュした。「先生にチクってやるからなぁぁ」という断末魔がのどかな夕方の町に響き渡り、走りながら笑いが込み上げてくる。本当に、いつまで経ってもあいつは変わらない。俺は多分それが、言葉にはしなかったけど嬉しかったんだと思う。















「1年生、練習の途中に来るみたいだから、先生下まで迎えに行くよ。すぐ戻ってくるけど、僕がいない間は絶対にプールに入らないでね。……あれ、蓮くんいないね、今日休みだっけ?」


「蓮、普通に学校来てたよ」


「そうだよね。体調悪くて帰ったのかな。果南くん、何か知らない?」


「えっ、とぉ。……知らないかなぁ」


「うーん。困ったな。心配だから親御さんに連絡しなきゃ」


「あっ」


「どうかした?」


「いや、えっと、何か居残り?させられてたような気がする」


「え、珍しいね。誰に?」


「何か……えっと、保健室の先生……」


「えぇ?保健室の先生に、どうして居残りさせられるの」


「うーんと、えー、怪我したとか、言ってたような」


「えっ蓮くん怪我したの?」


「うん、そう。」


「それで、今、保健室にいるってこと?」


「えっと、多分。いないかもだけど。もう帰ってるかも」


「じゃあ一応、連絡入れとかなきゃ。どうして怪我したのか分かる?」


「あ、えっと体育で。だから、体育の先生が連絡入れるから、先生は大丈夫だよ」


「……嘘ついてるでしょう」


「え、何が?ついてないよ」


「今日体育ない日だよ」


「……」


「果南くん」


「……昨日サボるって言ってた」


「……もう。今日は一年生来る日だよって、ちゃんと言ったのに」


「あ、でも、遅れて来るかもしれないし。れんれん多分、サボるまでの度胸ないし」


「はぁ。まぁとにかく、怪我とかじゃないなら良かったよ」


「なぁ先生、俺が言ったってれんれんには……」


「言わないよ」


果南はホッと胸を撫で下ろし、心の中でゴメン、と謝った。でも、俺のケツを2回も蹴ったお前も悪い、と言い訳もした。
















先生怒ってるかな。俺は内心ドギマギして、普段滅多に行かない3階の図書室に逃げ込んでいた。サボるとは言ったものの、家に帰るまでの度胸も、大した理由もなかった。別にサボるのに理由っていらないはずだけど、当時の俺はそれなりに真面目だったわけ。図書室の窓からは、いつもの5m プールが見える。一応興味もない本を借りてきて机に置いてはいるが、いつの間にか頬杖をついてプールの方を見ていた。ちょうどみんな更衣を済ませて、プールサイドに座り先生の話を聞いているところだった。1年生が来るって言ってたのに、先生、間違えたのかよ。ふんっと馬鹿にするように鼻を鳴らすと、いきなり先生がこちらを振り返った。俺は慌てて机に伏せるように顔を隠した。


「そこの男子、16時半で図書室閉めるからその本借りるなら持って来なー」


カウンターから図書のおばさん(本人におばさんと言うとキレる)が叫んでいる。時計を見ると、16時20分になろうとしていた。


「え、ここ16時半まで?もうちょっといたらだめ?」


「もうちょっとって、何時までいる気?私定時退社するって決めてるんだけど」


「定時って17時じゃないの?17時までいさせてよ」


「ガキのくせに定時なんて知ってるのね。敬語使いなさい、敬語を。まぁいいけど、それ借りるんだったら先に持って来て」


「いや借りない、です」


「……あんたさっきから本開いてもないよね。ここで何してるの?」


「別に。青春してんの、です」


「はぁー。いいわね、窓眺めてるだけで青春になるなんて」


若いってずるい、とか何とか言いながらもう俺には興味を失ったようでパソコンをいじり始めた。


カチ、コチと刻む時計の針を見ていると急激に眠気が襲ってきて、起きた時には17時10分を指していた。ハッとしてカウンターの方を見るも、おばさんの姿はなかった。代わりに『寝てるの起こすの可哀想だから先に帰るね!鍵と窓お願いね♡』というメモ書きが机に残してあった。いや起こせよ…と思ったが、仕方がないので立ち上がって窓の鍵が閉まっているかチェックする。ふと、プールの方を見ると、先生はおろか部活仲間たちもおらず戸惑った。いつもは18時までなのに、こんなに早く終わるなんておかしい。


不思議に思い誰か出てこないものかとしばらく眺めていると、普段は使わない裏の錆びれた扉から5mプールへ入ろうとしている4人組が目に入った。俺も一年生の頃は秘密の抜け道みたいだとロマンを感じたけど、先生に危ないから入るなと口酸っぱく言われすっかり存在を忘れていた。


その4人組は人数と幼さからして、今日来ると言われていた1年生だろう。正確には3人組とその後ろを歩く1人の少年だったけど。とにかく、誰もいない5mプールについこの間まで小学生だった奴らだけ、なんて危険すぎる。俺は昨日先生が言った、"先輩として"と言う言葉を急遽思い出し、その代償に図書室の鍵のことなんて忘れて、プールへと走った。















「そろそろ来る頃かな。じゃあ僕は1年生迎えに行くから、プールから上がって待っててね。絶対に、」


「プールには入らないでね、でしょ。分かってるよ。俺たちもう2年生です」


「そうだね、そうだった。17時には戻って来るから水分補給でもしてて!」


「はーい」


そう返事すると、果南たち二年生は更衣室に戻り水分補給と称して談笑し始めた。外にいると濡れた体が冷えて薄寒く、温度調節の効く更衣室を休憩場として使おうということになったのだった。















「あれ。45分に来てって言っておいたはずなのになぁ」


プールから少し離れた一階のホールに、一年生の姿はまだ見られなかった。入って来たばかりで迷っているのかもしれないと思い、ソワソワしながらしばらく待つものの、17時を過ぎても一向に来る気配はない。さすがに心配になり職員室へと足を運ぶことにした。















「先生どこにいるって行ってたっけ?」


「知らね。何か1階のどっかで待っててとか言ってた気がする」


「どっかじゃ分かんないよ」


「どうする?てか何分って言ってた?」


「多分16時55分」


「そんな感じだった気がする」


「何だよ、みんな曖昧だな」


「アイマイって何?また難しい言葉使ってる」


「別に難しくないし。はっきりしないってことだよ」


「ふーん。で、どうする?16時55分にどこに行けばいんだろ」


「水泳の見学するんだし、プールの下のところでいんじゃね?」


「水泳じゃなくて、素潜りだよ」


「いいじゃんどっちでも」


「全然違うよ。水深5mだよ、ここのプール」


「5mって深い?」


「……多分。僕ら3人分ぐらい?」


「あんまり大したことない気がする」


「確かに。でも高峰は、溺れちゃうかも」


「……何で俺だけ?」


「だってこの中で泳げないのお前だけじゃん」


「泳ぐのと潜るのって全然ちげぇだろ」


「じゃあ高峰は潜れるんだ」


「……潜れる」













「先生全然来ないじゃん」


「やっぱり間違ってたのかな」


「やっぱりって何だよ」


「もう俺らだけで入ろうぜ」


「でも、危険だからダメって言ってたよ」


「あ、お前チキってんだ。だせぇ」


「そうじゃないけどさ」


「じゃあいいじゃん。行こ」


「でも、どこから入るか分かるの?」


「分かんねぇけど、こっちっぽくね?」


「えぇ。何か草生えまくってるんだけど」


「秘密の扉って感じしてかっけぇ」


「じゃあ絶対こっちじゃないと思うんだけど」


「もう、だけどだけどうるせぇな」


「だって……」


「お前今から、でも、だけど、だって禁止な」


「先生みたいなこと言わないでよ」















正面のプールの扉に手をかけた時、やかましい喋り声が聞こえてきた。まだ2年生と先生の姿はなく、例の4人組がプールサイドで何やら言い争いをしてるようだった。勝手に入りやがって、とイラつきながら扉を開けた。





「お前さっき、泳げるって言ってたよな」


「潜れるって言ったんだよ」


「一緒だろ」


「ちげぇ」


「じゃあ、潜ってみろよ」


「……水着着てねぇから無理」


「潜るのに水着っていらないんじゃね?」


「いると思うよ。服って水吸収しちゃうから浮けないもん」


「別に浮く必要ないじゃん。潜るだけなんだし」


「いや、でも……」


「でもは禁止だっつっただろ。じゃあ高峰、俺らの方向きながらギリギリのとこ立って、目瞑って」


「は?何で?」


「度胸試しだよ。絶対押さないから」


「……じゃあいいけど」


「え、ダメだよ、あぶな……」


「しっ!いいから、黙ってろ」




さっき3人組の後ろを歩いていた1人が、プールサイドのきわのところでなぜか目を瞑って立っている。そして次の瞬間、あっという間もなく、2人の少年がそいつの両肩を勢いよく押した。俺はその光景に目を見開き、怒りで胸がカッと熱くなった。舌打ちしながらまたもやダッシュで、ゆっくりと5mプールに沈んでいく少年の元へ駆け寄る。そいつらは裏の扉から入ってきたので、正面の扉側にいる俺とは25m以上の距離があった。



「ちょっと何してるの?!高峰くん、泳げないの知ってるでしょ!」



押した2人じゃない、もう1人の少年がそう叫ぶのが聞こえ、俺は走るのを止めて、今いる位置からプールへと飛び込んだ。もちろん水着なんか着ていない。だけど、今までで1番早く泳げたんじゃないかと思うぐらいのスピードだった。


高峰くん、と呼ばれたその少年は全く泳ぐこともせず、仰向けで目を閉じたまま、ただただ底へ沈んでいっていた。何もかも諦めているみたいに。あぶくが少年を取り囲むようにポツポツと浮かび、その姿はまるで、海と遊ぶ人魚姫のように綺麗だった。少年の体を掴んで上へ這いあがろうとしながら、おいおい、人魚姫は俺の方じゃないか、なんてことを呑気に思った。苦労しながらも何とか2人とも水面に顔を出せた時、少年の目がパチリと開いた。呑み込まれそうなほど大きくて、キラキラした、綺麗な目だった。そして、少年はなぜか満面の笑みを浮かべ、肩で息をしながらもその整った口で、こう言ったのだ。


「あんた、すっげぇのな。人魚みたいで、惚れそうになった。俺、素潜り部入る」


この瞬間、俺は高峰という少年に恋に堕ちたのだった。惚れたのはこっちだよ、畜生。俺が人魚なら、お前は王子か?だったら、報われないのは俺の方じゃんか、どう転んでもさ。


















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