ニナの誕生日 6

 宝石みたいにきらめく色とりどりの果物をふんだんに載せた、フルーツタルト。セルヴーズが運んできたこれが、ルータム通りにある超有名人気パティスリー、“ドゥ・レーヴェ”のものだと確信できたのは、私があの店の前を通るたびに、このキラキラのタルトがショーケースでお行儀よく鎮座している様子を凝視する習慣があったからだ。

 上流階級のご婦人方が集うお茶会で、ここのタルトを振舞うことができれば確実にその日の主役になれる、という噂は王都にいた時から耳にしていた。愛する妻や娘のドヤりたい欲求を満たすために、家の主人自らが遠方からわざわざ買い付けに来ることも珍しくないという。ただ、新鮮な季節のフルーツを使っているため、当日か翌日の午前中までに食べ切ることができない人には、たとえどんな高貴な身分の客相手でも、品質を保証できないという理由から店側が販売を断るということもあるらしい。

 貴族たちがこぞって熱を上げるこの代物は、材料はすべてブランモワ領産のものであるために確かに高級ではあるけれど、私の給料で買えないほど法外な値段が付けられているわけではなかった。

 毎月1冊は買うことにしている自分のための文庫本を5か月我慢すれば買える、と計算までしておいてなお、手を出せないでいたのは、店のショーケースの前で繰り広げられる思考のせめぎ合いの中で、たった1日で腹に収まってしまうようなものにかけるお金があるなら、それはすべてリュカのために使いたい、という思いが常勝していたせいだ。まあ、単に私がケチというか、自分の欲望のために浪費することに対して、ある意味嫌悪感のようなものを抱いていたというのが実際のところなのだと思う。

 そういった、私の中で曰くのありまくるタルトが今、目の前に置かれているという現実。こんなに高貴な、そしてこんなに美しいもの、私なんぞが受け入れていいわけがない、いやでもすっごいいい匂い、いやでも多分これ私のためのものじゃないよね? いやでも私の目の前にあるんだし……


「どういう感情でその顔をしているんだ」


 視線を一点に集中させて微動だにせず、ひたすら百面相をするという奇妙な行動をしている自覚はあったから、キアンがそう訝し気に尋ねるのは無理ないと思ったけれど、私は何も答えることができなかった。だってどういう感情でこのタルトに向き合っていいのか、私自身も分かっていなかったから。


「あっ、あのっ、これっ……」


 これは私のために用意されたものなのか、私が触れていいのか、匂いをかぐことすらおこがましいとか思っているけれどその辺も許されるのかとか、いろいろ聞こうとしたはずなのに、出てきた言葉は何の意味もなしていない。気を落ち着けようとして深く吸い込んだ息が、のどの奥の恐らく入るべきではないところに入ったせいで、私は大きくむせこんでしまった。

 カルロが黙って注いでくれた水を流し込み、ようやく一息をついてから、タルトについての詳細を尋ねようとした時。


「ドゥ・レーヴェのタルトの話をメイド仲間とよくしていると、リュカが教えてくれたのだよ。だからこれにしたんだが……お気に召さなかったかな?」


 口を挟んだのはアレックスで、これを用意してくれたのどうやら彼であるということを察した私は、おそらくこれまでリュカに対してしか向けたことのないであろう、尊さを込めた視線をそちらへと向けた。さっき店の前で落ち合った時にアレックスとリュカがいなかったのは、これを店まで届けてもらうよう、ドゥ・レーヴェに寄って頼んでいたかららしい。


「ずっと憧れてたタルトだし、今目の前にあることが信じられないくらい、すごく嬉しい。でも、」


 アレックスからはすでにシーフルを譲ってもらっている、という事実が、さっきまで高揚していた心の熱をわずかに下げさせた。こんなに高額なタルトまで追加でプレゼントされるのは、そりゃあもちろん嬉しいことは嬉しいけれど、やっぱり気が引けてしまう。決して遠慮にかこつけて厚意を拒絶しているつもりは全然なくて、単純にもらい過ぎているような気がした。


「本当はシーフルをプレゼントとして渡す方が恰好がついたんだがね、あれは私の好奇心を満たす実験に付き合ってくれたお礼のつもりだったから」


 でも、の後を言い淀んでいる理由を察してくれたのか、私が言葉を続ける前にアレックスの方が口を開いた。


「リュカからはワイヤークラフトのペンダント、キアンからはトリケトラの純金チャーム、カルロからは希少なシスレインガラスのジュエリーボックス……3人のプレゼントと比べると見劣りするかもしれないが、私からも純粋にお祝いとして贈り物をしたかったんだ」

「……」

「改めて、誕生日おめでとう」


 出会って間もない人間のために、どうしてここまで喜ばせることをしてくれるのか。いつもだったら、何か裏があるんじゃないかとか、いろいろとよろしくない方向へと思考を展開していたところだったけれど、今日はその“いつも”の私ではなかった。


「ありがとう。あの……、ホント、すごく嬉しい、です」


 声を詰まらせつつも、シンプルなお礼の言葉をなんとか絞り出して、みんなの顔を見渡す。こうやって誰かに誕生日を祝ってもらうこと自体すごく久しぶりなせいもあって、このあふれる喜びをどう表現していいか分からなかったけれど、それでも湧き上がる思いはちゃんと伝えたかった。


「知り合ってから日の浅い私のために……ううん、私だけじゃなく、リュカにもいろいろと良くしてくれて、なんて言うか……繰り返しになっちゃうけど、本当に嬉しい。もし何かあれば、できる限りみんなの力になりたいと思う。だから、」

「それじゃ早速。ニナ、君に一つ提案がある」

「え」

「君には頭頂部のクラウン孔と手のひらの手心孔はあって、瞳のサークシャート孔はないだろう? 喉のヴィシュッダ孔と腹部の胴芯孔は備わっているのか、正常に機能しているのかをちょっと確認したいなあなんて思っていてね。いやなに、そう時間は取らせないし手間もかけるつもりはない。ちゃちゃっと済ませるから、協力してくれると本当に助かるのだが」

「助けたくないのでお断りします」


 アレックスに関してはバッチリ別の思惑があったようだ。今こそいつものよろしくない方向への思考展開を繰り広げるべきだっただろうという、ものすごい後悔の波に飲まれた私は、これ以上話を聞く気はないという主張のつもりでアレックスから顔をそむけた。


「そう言わずに! 2か所がダメならどちらか1か所でもいいんだ。この間みたいに何度も繰り返したりしないと誓うから」

「誕生日プレゼントどうもありがとう、アレックス。せっかくだからみんなでシェアしたいと思うんだけど、いいかな。いいよね!」


 まともに取り合えば、何だかんだと丸め込まれてしまいかねない。絶対にペースに乗せられてやるもんかと心の中で強く唱え、アレックスの方に目を向けないままそうまくしたてると、セルヴーズが準備してくれたナイフを取り上げタルトに差し込んだ。

 みんなが祝ってくれたことに感動していたのに、その前のめりの申し出のせいでいろいろと台無しになってしまった、そんな怒りの乗った手つきに何か感じるものがあったのだろう。アレックスは、おそらく他にも好条件を提示して私を篭絡しようとしていたその口をつぐみ、テーブルに乗り出していた体の重心をゆっくりと椅子の深い位置へと戻した。


「お前マジで最低だな」

「うるさい。あわよくば、と思っただけだ」


 苦笑い交じりのカルロからの指摘に、アレックスは腕を組んで不機嫌そうに返している。

カルロの言う通り、こちらの厚意につけ込んでのその提案はなかなかの最低ぐあいだと思う。無粋な協力要請は、確かにアレックスの好感度を爆下げしてはいたけれど、なぜかさっきまでなんとなく沈んでいた心を浮上させてくれた。

 みんなに取り分けたタルトを食べながらのたわいもない会話も、こうして素直に楽しむことができていて、誰にも言えない秘密を抱えている苦悩やら、秘密にしていること自体への後ろめたさやなんかは、いつの間にか心の奥の方、私の目の届かないところへとしまわれた。

 充実した時間はあっという間に過ぎるというのは本当にその通りで、気付けば夜の9時をとっくに過ぎていた。この時間、普段ならもうベッドに入って寝息を立て始めているリュカは、瞼が閉じそうになるのを必死でこらえている様子だ。

 今日は朝早かったからこうなることは目に見えていたはずなのに、迂闊だった。完全に眠気に支配される前に帰路につかなくては、そう気づいた時はすでに手遅れだったようで、結局リュカは、ルータム通りから近い旧穀物倉庫――キアンたちが生活拠点にしているラボでひと晩お世話になることになってしまった。


「なんか、ホントにいろいろとごめん」


 睡魔に負けたリュカを背負い、もう一軒行こうと騒ぐアレックスを引きずるカルロの背中を思い出す。夜道をひとりで歩かせるわけにはいかない、とブランモワ邸まで送ってくれることになったのはキアンで、私は隣を歩く彼をチラリと見上げてからそう言った。

 ありがとう、ではなく、ごめん、という言葉になったのは、お世話になったのがリュカだけでなく、私の方もプレゼントに加えて、フォーミダーブルでの食事代金2人分を出してもらったからだ。遠慮すれば倍にして返すとアレックスには言われたけれど、さすがにここまでもてなされると申し訳ない気持ちの方が立ってしまい、自然と謝罪の言葉が先行していた。


「もう30分早くお開きにすればよかった。そしたらリュカはちゃんと連れて帰れたし、それなりに人通りはあっただろうから、こうして送ってもらうこともなかったと思う。それに」

「気にしなくていい」


 私の不毛な“たられば”がまだ続くことを察知したのか、キアンは前を向いたままそう言って流れを切った。


「時間帯とか人通りなんかに関係なく、もともとブランモワ邸までは送るつもりだったんだ。それに、リュカには明日も朝から来てもらおうと思っていたから」

「え、でも日曜日は指導は休みだってあのカリキュラムに」

「……読んだのか? アレを?」


 アレ、というのは、以前渡されたバカみたいに分厚いリュカの魔術教育計画書のことだ。まさかまともに読むとは思っていなかった、とでも言いたげにこちらを見下ろすキアンの表情に、寝る時間を削って本気で読んだ自分がなんだか哀れな生き物のように感じた。


「別に読まなくても良かったんなら、そう言ってよ。読破するのにけっこう時間かけたのに」

「そもそも読んでもらう前提で作ったんだ、読まなくてもいいということはないよ」

「ええー……。じゃあなんで私がちゃんと読んでたことに驚くの?」

「相手に伝わりやすいように、なんて気遣いは一切していない内容だってことは自覚しているからな。ちゃんと取り合ってくれる人がいるとは思わなかったというか」


 自覚アリにもかかわらずそこを改善するつもりがない辺り、資料そのものではなく資料を作ることに価値を見出している、ということだろうか。つくづくよく分からない人だと思ったけれど、それを口にするとどの辺が理解できないのかの事細かな説明と改善点を求められそうな気がして、ふうん、と一言だけを返しておいた。

 ルータム通りとは違ってやや整備の甘いこの畑沿いの道は、ところどころ石畳がはがれて土の部分がむき出しになっている箇所がある。行きはまだ夕日の名残があったおかげで、それなりにスムーズに歩けていたけれど、淡い月明かりしか光源がない今は少し目を凝らさなければ足元がよく見えず、私はそこに足を取られないように日中よりも気を付ける必要があった。


「疲れたか?」


 少し、ほんの少しだけ歩みが遅れただけだったけれど、キアンはそれに気づいたのか、わずかに振り返った肩越しにそう尋ねてくれた。


「大丈夫。でも、ちょっとゆっくり歩いてくれると有難いかな」

「分かった、ちょっとゆっくり……ちょっとってどのくらいだ、これくらいか?」

「あ、いや、そこまで遅くなくてもいいよ。あー……、そうそう、今くらいの感じで――」


 だいたい、とか、それなりに、とか、曖昧な表現が苦手な人であることは把握済みだから、こんな不自然な質問に違和感を覚えることはなかった。そのはずの私がふと言葉を止めた理由は、キアンの風変わりな言動に対する困惑ではなく、自分の足、正確に言えばくるぶしのすぐ上辺りにあまり感じたことのない痛みを覚えたからだ。

 急に立ち止まった私に合わせ、キアンも歩みを止める。痛みの原因を確認しようと視線を落としたけれど、長いスカートが落とす影が、もともと薄暗い足元をさらに見えづらくしている。


「どうした?」

「なんだろ、分かんない。靴擦れかなあ」


 私はスカートを少しだけたくし上げ、身をわずかにかがめて足元をゆっくり覗き込んだ。

擦り傷みたいなヒリヒリした感じじゃなく、刺すような、それでいてなんとなく圧迫感もあるような痛み。そもそも靴が当たらないほどの高い位置の痛点が悲鳴を上げているし、これはきっと靴擦れによって起こったものではないんだろう。

 そう、分かってはいる。雨季が近づいた暖かで静かな夜、雑草が生き生きと背を伸ばす畑のそばを歩いている時にこういった種類の痛みを足に感じるなんて、転んだということでもない限り原因は一つしか考えられないってことくらい。


「……」


 ぎゅっと目を閉じる。これ以上、上下の瞼はくっつけられないというところまで、強く強く。

イヤな予感が現実になったんじゃない、現実をしっかり分析した結果その可能性に行きつき、そしてそれが正しかっただけ。いま恨むべきは勘の良さではなく運の悪さだと、事実をほんの一瞥してヒシヒシとそう感じた。

 6本足は平気だ。8本足はまあ、許容範囲内。でも、こういうウネウネした動きをする多足類のヤツらに関しては、本当に、遠くから目に入っただけでも全身に怖気が走り、その場から動けなくなる程度には苦手だったりする。

 一つ、息をつく。落ち着け、と心の中で唱える。

そうやって自分に冷静さを求めるという一連の動作をしてもなお、動悸が激しくなり冷たい汗が噴き出すことを止めることは叶わなかった。いや、呼吸の仕方まで忘れる一歩手前で踏みとどまれたのだから、自分をなだめたのは決して間違いではなかったのだろう。

 ただ、このままの状態があと数秒でも続けば発狂してしまうことは確かだ。私は意を決し、一度ごくりと唾を飲み込んで喉が動くことを確認してから口を開いた。


「キアン、あの……」

「え」

「私の、足。なんか、おっきいのがくっついてる」


 かがめた体を起こして直立させ、足元に視線を落とさないように道の先をまっすぐ睨みつけながら震える声でキアンに訴える。キアンは首を傾げてからその場にひざをつき、私の訴えが正しいものであるかどうかを確認した瞬間だった。


「ニナ」


 キアンの声が張りつめている。見下ろすことはできないけれど、きっと強張った表情をしているに違いないと確信させるようなその声音に、私はさらに崖っぷちに追い詰められたような気持ちになった。


「動くなよ」

「……っ」


 犬が全力疾走した後みたいな、短く浅い呼吸音。それが自分の発している音だと気づいた途端、本格的に息の仕方が分からなくなってしまった。

 たかがちょっと足が多くて動きが不気味なだけの小さな生き物に、どうしてこれほどまでの恐怖を覚えてしまうのか。呼吸すらまともにできなくなるまでに追い込まれているこの状況に納得しているわけもなく、なんなら腹立たしくさえ思う気持ちもある。パッと手で払って靴のかかとで踏みつぶせばいいだけのことじゃん、たった数秒で終わる動作なんだから簡単にできるでしょ、頭の片隅でそう考える自分もいる。でも現実、私はこうしてバカみたいにボロボロ涙をこぼしながら、たった一瞬目にしただけで記憶に焼き付いてしまったおぞましい光景を思い返し、何の抵抗もできずに無力に突っ立っていることしかできないでいた。


「おい、ニナ。泣くな、大丈夫だ」

「……うぅ」

「俺を信じろ。すぐに終わる」


 キアンの何気ないその言葉が、まるで時が止まったかのように固まっていた私の周囲の空気を穏やかに緩めていく。瞬きすらできないくらいに冷たく硬直していた体が、指先からゆっくりと熱を取り戻していくのを感じ、私は詰まる喉奥から細く息を吐き出した。

 キアンが何をしたのか、確認することはできなかった。ただ、短く響いた軽い爆発音が空気を揺るがした後すぐ、痛みはなくなりはしなかったものの、妙な圧迫感から解放されるのを感じた。


「お……終わった?」


 やっとの思いで絞り出した問いかけに、まずため息を返すキアン。不安がぶり返す感覚が、じわりと心の端を侵食していく。


「すまない。逃げられてしまった」

「うそでしょまだ近くにいたりとかしたら私また」

「気配は感じないし、近くにはいないと思う。もう平気だろう」


 どうやらキアンは節足動物の息遣いを気取ることができるらしい。それが魔術によるものか、それとも動物と話せるたぐいの特殊能力のお陰なのかは分からないけれど、とにかく私の足にくっついていたものは、何かしらの悪影響を及ぼせる位置にはいないようだった。


「気分が優れないことはないか」


 ヤツに攻撃を受けていた箇所に手を当てたまま、キアンがそう尋ねる。

優れないに決まっている、許されるなら思いっきり叫び出したい、できればこの5分ほどの記憶を抹消してほしい、そんな思いがぐるぐると脳内を駆け巡る中、私は胸に手を当てて深呼吸を一つし、波打つ鼓動を無理やり落ち着かせてから小さくうなずいた。


「血はそれほど出ていないし、傷自体は大したことはなさそうだが……ちょっとじっとしていろよ」

「あ、うん。ありが」


 水で洗い流すとか、簡単な処置をしてくれるのかと思い、ありがとう、と言おうとした瞬間、何かにつかまれるような感触が体全体にまとわりついた。それがこの間部屋の窓から引っ張り出された時と同じ感覚だと気づいた時にはすでに、私はキアンと一緒にあり得ないほどの高さまで浮かんでいた。


「えっ、ちょっ、なになになに!?」

「俺の飛行だけでなく君も一緒に運ぶとなると魔力の消費が激しいが、のんびり歩いていくより効率的だからな」

「いやっ、だから何をするつもりなのよ!?」

「ラボに連れていく。今は何ともなくても、良くない症状が出るかもしれないだろ」

「まままま待って! 私歩ける! 全然しびれも痛みもないし、早歩きするから、何ならがんばって走るから!」

「君ができたとしても、俺が嫌だ。走りたくない」

「そ、そんな」


 現実を直視するのが嫌で、そもそも名称を頭に浮かべるだけでもゾッとするから深く考えないようにしていたけれど、私の足に嚙みついていた多足類の節足動物は多分、ムカデだったんだと思う。あれはなかなかヤバイ毒虫だから早めに手当てをするべきで、今いるこの位置から近く、毒を吸い出す専用の器具や炎症を抑える軟膏も揃っているブランモワ邸に向かうのが正解なのだ。そういう応急処置のできるものがいかにもなさそうなラボに、どうして連れていかれなきゃいけないのか。もしかしてキアンは、ムカデというおぞましい生き物のことを知らなかったりするんじゃないだろうか。


「ね、ねえ、キアン。聞いて、私――」

「ああ、そう言えば君は飛ぶのは苦手なんだったな」


 私が訴えようとしていることを勘違いしたのか、キアンは思い出したようにそう言うと、バランスを取ろうとして不自然な位置で停止させていた私の両手を引き、自分の首の後ろに回させた。


「しっかり掴まっていろよ」

「キ、キアン、」

「絶対に離さないから。大丈夫、俺を信じろ」


 ほぼ同じセリフを言われたはずなのに、さっきと打って変わって不安と恐怖しか感じられない。

 後頭部と背中に手を添えられ、キアンの胸元に顔をうずめるというとんでもない体勢を取っていることをしっかり理解する間もなく、私は夜空の飛行を強制されることになってしまった。






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