ゼキ・アルビール 2

「それで、君はいったい何をしにここへ来たんだ」


 少し落ち着いたところで、キアンがそう切り出した。


「まさか、リュカを取り戻しに来たとかじゃないでしょうね。もしそうだとしても、アンタみたいなダメ人間には何があっても渡さないから」


 ゼキ・アルビールなんて偽名を使っている時点で、フィルの状況が未だに改善されていないのは明らかだ。たとえリュカが望んだとしてもそこだけは絶対に譲れないと、私は逆さづりの状態のままでフィルに凄んだ。


「分かってる。会うつもりもねえよ」

「はっ!? なんで!? 会うつもりはあってもいいでしょうよ!」


 勢いはそのままに、それでもさっきとは真逆といってもいいようなことを言い出した私に、フィルは怪訝な顔をしてみせた。


「何なのお前。支離滅裂だな」

「何なのお前はあんたの方よ。それでもリュカの父親なの? 我が子に会いたいって思わないとか、ホントの人でなしじゃない」

「さっきから言ってるだろ、俺は人でなしだって」


 噛みつかんばかりの勢いで言った私の熱量に見合わない、冷たい口調で返すフィル。人でなしだのダメ人間だのと揶揄した私が言うのもなんだけど、フィルは息子に会うつもりはないなんて言ってのけるような、冷淡で無責任な人じゃなかったはずだと思い、私は逆さづりのまま首を傾げた。


「……とりあえず、ニナを降ろしたらどうだ。このままだと話しにくいだろ」


 ため息交じりのキアンの言葉に、そう言えば別に逆さまでいなきゃいけない理由はないんだと思い出す。


「いいよこれで。解放したら何しでかすか分かんねえもん」

「いいわけあるか! 別に何もしないから早く降ろしてよ」


 足をジタバタさせて抗議すると、今度はフィルがため息をつき、かざしていた手をくるりと反転させた。その動きに合わせて私の体も正しい向きに戻り、フィルが手を下げると同じように私も下降していく。足が地面に着いたところで、私の体にまとわりついていた妙な感覚は、一陣の風になって消えた。

私は腕を回してみたり、軽くその場でぴょんぴょんと飛び跳ねたりして、もう魔術による拘束を受けていないことを確認してから、ジロリとフィルを睨みつけた。


「おい、その目つきをやめろ。何もしないって言ったろ」

「あんたが妙なことしないように、牽制してるのよ。それより聞きたいことが山ほどあるんだけど」

「まあ、そうだろうな。でもいちいち答えてる暇はないから、お前の19歳の誕生日が来る前にこっちの用件だけ聞いてほしい」

「……私の誕生日、覚えてたんだ」


 ぽつりとこぼした言葉に反応したのか、フィルはきまり悪そうにそっぽを向いて髪を乱暴にかきあげた。


「本当はもっと早くに言うつもりだったんだ。でも、お前たちの足取りを追うのに時間がかかってしまって」

「まさか、探してくれてたの?」

「まあな。ただ俺も追われながら隠れながらだったから、なかなか大っぴらに動けなくてさ。今になってしまった」


 フィルはそう言うと、急に真面目な顔つきで私をまっすぐ見下ろした。


「アナベル」

「……?」

「お前が父さんから引き継いだ、もう一つの名前だよ。ニナが18歳になったら伝えてほしいと頼まれていたんだ」


 私はぽかんとした表情でしばらくフィルを見つめ、そして首を傾げた。

この国では、正式名としてミドルネームを付けられるのは王族だけと決まっている。本名の発音が難しいとか長ったらしいとかで、簡単な呼び名を小さい頃に付けることはよくあるけれど、18歳になってから伝えられる名前なんて聞いたことがない。


「それって、あだ名みたいなもの?」

「さあ、俺にも詳しいことは分からない。これは父さんの遺言だから」


 遺言。その言葉に、私はベッドの上で力なく微笑みかけてくれた父の最期の姿を思い出し、かたく握りしめた手を胸に当てた。


「この名前をニナに伝えて、そしてもしニナが子供を産んだら、その子が成人する時にこの名前を伝えてやってほしい。俺が頼まれたのは、それだけだった」


“アナベル”というのは、先祖代々伝わってきた名前なのだろうか。父は私の子供だけでなく、その子供にも、そしてさらにその先の未来にもこの名前を繋いでいってほしいと願って、死の床でフィルに託したというのだろうか。


「どうしてフィルじゃなくて私なの。こういうのって大体、その家の長男が継ぐものだったりしない?」

「……だから、俺は何も知らねえんだって。大方、くじ引きとかでテキトーにどっちにするか決めたんだろうよ」

「……」


 確かに、あの父ならそういう選び方をしてもおかしくはない。でも投げやりな口調で答えたフィルの様子が、何だかこれ以上は踏み込んでほしくないという心情を表しているように感じた。

たぶん、フィルが選ばれなかった理由については、フィル自身はちゃんと把握しているのだろう。選ばれなかった悔しさからわざと知らない振りをするような、幼稚な人間ではないことは分かっている。ということはつまり、どうしても私には教えられない事情があるとしか……。


「さて、と。俺、もう行くわ」

「えっ」


 使命は果たしたと言わんばかりの、清々しい笑顔。数年ぶりに妹と再会したとは思えないそのあっさりした態度に、私はめぐらせ始めた思考を止めて思わず驚きの声をあげた。


「自分の言いたいことだけ言って満足して帰るとか、どういうつもりなのよ。私もあんたには聞きたいことがあるの」

「だからそんな暇ねえんだって、さっきも言っただろ」

「しばらくここに滞在するつもりだってことは知ってるんだからね! 今がダメでも、ゆっくり話す時間くらい作れるでしょ」

「あのなぁ……」


 フィルはため息をつくと、ガシガシと乱暴に自分の髪をかき混ぜた。


「俺はここに観光しに来てるんじゃない、仕事で来てんだ。ただでさえ舞台設置やら興行の段取りやらで忙しいのに、商業組合の手伝いまでやらされてんだよ。この上お前の質問攻めにあう時間まで作れなんて、無茶なこと言うんじゃねえ」


 そう言って私の額を中指で軽く弾くフィル。もうこれ以上は付き合いきれないという素振りに、私は追いすがるようにローブの裾をつかんだ。


「それなら、私の話は聞かなくていいよ! でも、」

「リュカには、会わない」


 私の思いを遮るかたちで放たれたその言葉は、予想外に重量のあるものだった。喉の奥に準備していたはずの言葉は静かに胸の奥へと沈んでいき、代わりにこみ上げてきた別の感情が私の瞳を緩やかに覆っていく。それに気づいた私は、あわてて乱暴にまぶたをこすった。


「何年も前に自分を置いて逃げた人間がいきなり目の前に現れたって、嫌な思いしかしねえだろ。だいたい、あいつは俺のことを恋しがってたりすんのか」

「……それ、は……」

「話題にもなってないんだろ。もうリュカの中でちゃんと答えは出てるってことだよ。それを今更ノコノコ出て行って、あいつの心をひっかき回す必要がどこにある」

「本心を隠しているとは思わないのか」


 それまで黙って私たちのやりとりを見ていたキアンが、不意に口を開いた。その表情はやや険しく、敵意というほどではないけれど、あまり良くない感情をフィルに抱いているように見えた。


「父親に会いたい、でもそう言ってしまうとニナに迷惑をかけてしまうかもしれない。そんな風に考えている可能性だってあるんじゃないか」

「それはない」

「何を根拠にそう言い切るんだ。お前にリュカの気持ちが分かるのか?」

「根拠なんてないさ。だが事情を知らねえアンタよりかは、はるかにリュカのことは分かってるつもりだよ」


 挑戦的なフィルの態度を受けて、さっきから滲ませていた“あまり良くない感情”は明らかな怒りへと移行したようで、フィルをとらえるキアンの眼光は強さを増していく。


「俺は俺の好きにやる。部外者だって自覚があんなら、余計な口出しはしないでもらいたいね」

「……!」


追い打ちをかけるフィルに、キアンは一瞬、感情の勢いに任せて何かを言いかけたけれど、ふと思い直すように言葉を飲み込んで唇を引き結んだ。


「……確かに、俺はお前たちの過去の事情は知らない。でも今のリュカがどう思っているのかまでは、お前だって知らないだろう」

「だから別に知りたくねえし、知ったところで俺の考えは変わらねえんだって」


 フィルは苛ついた口調で一気にそう言うと、夜空を仰ぎ見、大きく息をついた。


「分かっただろ、ニナ。俺はやっぱりお前の言う通りろくでもない人間なんだ。だから、もうこんなやつのことなんて忘れて、リュカと幸せに暮らせよ」


 少し愁いを帯びた笑顔を浮かべるフィル。

 ああ、やっぱり。そう思った。

 私に知られたくない何かがある時、フィルはああして私と向き合う前に空を見上げてため息をついてから、無理に笑ってみせるのだ。

 学校で嫌なことがあった日、母さんの病気が治るものじゃないということが分かった時、父さんまで亡くして泣きじゃくる私を励ましてくれたあの夜。いつも、いつもそうだった。

姿かたちや話し方は変わったかもしれない、でも、フィルはフィルのままなんだということを確信した私は、リュカに会わないのも私に真実を話さないのも、きっと全ては私たちのためで、一人で何もかもを背負い込むつもりであることを悟った。


「何を隠してるの」


 答えないのは分かっている。でも、言葉とは裏腹の真意を抱えていることに気づいている、というサインだけは送っておきたくて、あえて真正面からそう尋ねた。

 少しでも言い淀んだり、動揺する様子が見られれば、まだこちら側に引き戻すことができるかもしれない。そう思ったけれど。


「何も。俺はフィリップ・アルエの名を捨てて、ゼキ・アルビールとして生きると決めた。ただそれだけだ」


 フィルは目をそらすことなく、まっすぐに私を見つめてはっきりと答えた。その瞳が迷いの色で陰る様子は見られない。これ以上なにを言ってもその信念は揺らぐことがないのだと思い知らされた私は、目を伏せて震える息を小さく吐き出した。


「私たちには、会わないってこと?」

「舞台を見に来るのは構わねえよ、好きにしろ。でも、お前たちはただの客、俺はただの演者。次に会うことがあっても、赤の他人として振る舞うから」


 あの時は、満天の星空だった。そして今日も、空に浮かぶきれいな満月を邪魔するものは何一つない。フィルが私を置いていくときは、どうしていつも空が澄み切っているんだろう。そんな風に思いながら、私はローブの裾をつかんでいた手をそっと開いた。


「もう追いかけたりしない。ちゃんと幸せになれるよう、リュカと頑張って生きてくよ」


 この先、独りで何かと戦おうとしているフィルがよそ見をしないで済むように、邪魔をしないこと。自分にはこれしかできないという現実に強く心を締め付けられながらも、何とか笑顔を作って見せる。


「でも、忘れないで。ゼキだろうと何だろうと、あんたが私の兄さんで、リュカの父親であることに変わりないから」


 だからもし、すべての問題が解決したら、またこうして――今度はリュカにも会いに来てほしい。

 そんな思いを込めて見上げたけれど、フィルは何も答えなかった。代わりに乱暴な手つきで私の頭をぐしゃぐしゃと撫でつけてから、お前はバカだ、とつぶやいた。


「フィル……いや、ゼキ。お前の魔力は覚えたからな」

「何だよ、いつでも捜索可能だって言いたいのか?」

「そうだ。ニナやリュカが望むなら、どこにいても見つけ出してやる」

「それはどうかなぁ。俺、隠れるのはホント得意だからさ。たぶん、皇国随一の腕をもってしても俺を見つけるのは至難の業だと思うぜ」


 フィルはそう言って口の端を上げると、キアンの肩にポンと手を置いた。


「嫌な態度とって悪かったな。お詫びと言っちゃなんだけど、もしフレイヴァの刑の執行を免れないとなったら、ナタークに亡命してアヤ・クルトに入るといい。アンタほどの魔術の使い手なら、ウチはいつでも大歓迎だぜ」

「……世話になることはないと思うが、いちおう覚えておくよ」

「まあ、俺もアンタがそんな不幸な目に遭わないことを祈ってる。……っと、そろそろ時間だ、迎えが来た」


 フィルのつま先と地面に落ちる影が、ゆっくりと離れていく。その距離が広がっていくのを、私は唇を噛みしめて見つめた。

 フィルがローブを翻してこちらに背を向けた次の瞬間に起きた突風は、砂埃を舞い上げて私たちの視界を奪った。強い風切り音が耳元でうなる。風に倒されてしまわないように地面を踏みしめ、耳を守るために手を当てがったその時。


「元気でな、ニネット」


 そんな声が聞こえた。

 風が止み、それと同時に恐るおそる開いた私の目に映ったのは、夜の闇を静かに照らす月だけだった。


「……あんたもね、フィリップ」


 小さく呟いた私の声が届いたかどうかは分からない。ただ私の心は、独り置いて行かれたあの時と違って、今日の夜空のようにすっきりと晴れ渡っていた。








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