運命の歯車 2
今日こそは機嫌よく帰ってきてほしい、そんな祈りにも似た思いは、やっぱり現実のものにはならなかった。
「……帰ってたんだね。おかえり、リュカ」
「ただいま」
こちらに背を向け、窓際に異動させた椅子の上で膝を抱えているリュカ。肩はこわばり、背中は丸まっている。外敵に襲われた時のハリネズミみたいなその姿は、自分を苛む何かと向き合うことを拒絶したがっているように見えた。そしてその”何か”というのが、床に散らばるビリビリに破かれた紙きれだということはすぐに分かった。
「リュカ」
「……」
「おやつ、食べる?」
本当なら、叱咤でも激励でもしてあげるべきなんだろう。現実逃避するなとか、この失敗を次に生かすんだとか。とにかく親代わりである私がそういう厳しい態度を取らないからリュカはダメなんだと、学校を移るたびに先生から注意を受けてきた。だけど、充分傷ついているリュカを追い込んでしまえば、彼は逃げ場を失くしてしまうから。
「オデットがね、クッキーを用意してくれたの。ほら、リュカの好きなナッツ入りのやつ」
だから、言えない。リュカは間違いを犯しているわけじゃなく、ただ苦しんでいるだけだ。押しつぶされまいとすでに必死に戦っているこの子に、もっと努力しろなんて言葉、掛けられるはずがない。
「食堂に置いてあるけど、どうする? 部屋から出たくないならここに」
「いい。食堂に行く」
リュカはそう言い、一時の間を置いてからゆっくりと立ち上がった。振り返ったその視線の行き先が私の方に向かうことはなく、そのまま私の脇をすり抜けて部屋を出て行った。
小さく開いた窓から入って来たさわやかな風が私の足元をなでていた。散乱していた紙片がこれ以上散らかってしまう前にと、私はしゃがみ込んでそれらをかき集めた。
苦手な作文のテストだけど、今回はがんばるんだと珍しく張り切っていた。先日提出した課題の出来が良く、先生に褒めてもらえたことが自信につながったんだろう。
「白紙、か……」
拾い集めたどの紙片にも、リュカの文字は残っていない。思ったような評価をもらえなかった、なんて次元の話じゃなく、リュカはたった一文字すら書くことができなかったのだ。せっかく一つ積み上げた自信を、リュカは良い結果というかたちで残せなかった。
できると思ったことができない、描いた通りに事が運ばないという、自分が一番恐れる現実を目の当たりにして苦しむリュカに、私はいつも何もしてあげられない。以前のように泣き叫んで暴れることはなくなったけれど、それでもあの頃と同じくらいの恐怖や苛立ちが心をいっぱいにしているに違いないのに。黙って傍に突っ立って、「おやつ、食べる?」と声を掛けて、ただそれだけ。苦しんでいるのは痛い位くらいに分かる、でもそこからどうしてあげればいいのか、私には分からないのだ。
「……フィルなら、解決できるのかな」
数年ぶりに口にしたその名前。フィル――あいつなら、本当の親である兄ならば。詐欺まがいの商売に手を出して怖い大人たちに追われることになったどうしようもない兄だけれど、私よりもはるかに濃い血のつながりがあれば、リュカの心を落ち着かせることができるかもしれない。もちろん、逃亡中だから幼子を連れて歩けない、という理由で子どもを捨てたあいつにリュカを会わせてやるつもりは、リュカが望まない限り絶対にないけれど。
「ホント情けないな、私」
ふとこみ上げてきたものを、洟をすすって誤魔化す。何もしてあげられないならせめて、傍にいる私だけはいつも通りにしておきたい。激しく揺れる感情に自分を見失ったとしても、何か指針があれば戻ってこられるはずだから。少なくとも、私が原因で不安定にさせるのは絶対にあっちゃいけないことなのだ。
おやつを食べ終えたリュカがここに戻ってくるまでには、いつも通りの私に戻ろう。私は両頬を軽くパチンと叩くと、強く短く息を吐き出して立ち上がった。
◇
「ああ、ニナ。ちょうどいいところに来てくれたわ」
本館の方に戻ると、エレーヌ様がカナリーイエローのワンピースの裾を翻して私の元へと駆け寄ってきた。服の色に合わせた、レースの意匠が美しいボンネットを被ったままのご様子から、ご友人とのお茶会から今帰っていらしたようだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ええ、ただいま。と、それから、これ」
頭を下げた私にエレーヌ様が差し出したのは、青い花の小さなブーケだった。
「わあっ、綺麗なアジサイですね! お嬢様のお部屋に飾りましょうか、それとも」
「いえ、それはあなたの部屋に飾ってあげてちょうだい。リズの妹がリュカに贈ったものだから」
「えっ……」
色の付いた薄紙を幾重にも重ね、丁寧にラッピングされたブーケに目を落とす。
リズ――エリザベス様と言えばシュヴァル男爵令嬢で、エレーヌ様が今いちばん親しくなさっているご友人でもある。
「すごく有難いです。きっとリュカも喜ぶと思います。ですが、その……こんな素敵なプレゼントを用意して頂けるほど、リュカはエリザベス様の妹様と懇意にさせて頂いているのでしょうか」
しがない庶民でしかないリュカが、他人にはまるで興味を示さないあのリュカが男爵令嬢と仲良くしている姿なんて想像もできないし、そもそもどういった繋がりがあるのかも分からない。驚きを隠せず、エレーヌ様に恐るおそるそう尋ねると、エレーヌ様は大きな瞳を丸くして私の顔をじっと見つめた。
「知らなかったの? アリスは――ああ、リズの妹ね。彼女はリュカと同じ学校に通っているのよ。クラスは違うけれど同じ学年でね、この間初めて魔術の学年合同授業を受けた時、ずいぶんリュカに助けられたからそのお礼だと話していたわ」
「そうなん、ですか」
「リュカは学年の中でも優秀らしいわよ。新しく教わった術式もすぐに覚えてしまって、誰よりも早く上手に発動させるんですって」
それを聞いて、先日リュカが怪我をさせられた時に聞いた先生の「やっかみもあるのかも」という言葉の意味をようやく理解した。
リュカを殴ったクラスメイトの子は両親の不仲が原因で精神的に不安定な状態にあるらしく、今は祖父母と一緒に生活をしているそうだ。謝罪に伺ったのがご両親ではなく祖父母だったのはその為だった。
彼はリュカが養母である私といい関係を保っていることに対して嫉妬しており、そのせいでリュカに手を出してしまった、という風に受け取っていたのだけれど、もしかしたら……。
「私、本当に何も知らなくて……。あの子、学校であったことは良いことも悪いこともほとんど話してくれないものですから」
「うん、まあ……そうよね。リュカはそういうタイプの子よね」
困ったように微笑みながら首を傾げるエレーヌ様の、艶やかなチェスナットブラウンの髪がさらりと揺れる。その何とも麗しいお姿に心を奪われつつ、私も苦笑いを浮かべた。
「そうだ! 今度またシュヴァル邸に伺う時、あなたが一緒に来なさいな」
「えっ?」
「リュカが話さないのなら、アリスに聞けばいいだけのこと。あの子本当にリュカに心酔しているから、きっと学校での様子を色々と話してくれるに違いないわ」
「お待ちください、お嬢様」
声を上げたのは私ではなく、後ろで控えていた侍女のクレティエンだった。彼女はエレーヌ様付きのいわゆるレディーズ・メイドというやつで、エレーヌ様の身の回りのお世話をしたり、どこかにお出掛けになる時は必ずお傍に付いたりしている。家令のラスペードや家政婦長のロジェと同じくらい、ブランモワ家に長く仕えているベテランの侍女なのだ。
「ニナはここに来て日が浅く、まだ礼儀作法についてそれほど教えておりません。それをいきなり男爵家に連れて行ってしまえば、どんな礼を失した行為をするか分かりませんよ」
「あら、そうなの? でも言葉遣いは美しいし、仕草だって丁寧で細やかだわ。これまでどこかの貴族に奉公していたことがあるのか、それとも――」
「いえ、クレティエンの言う通りです。私はまだ、色々と学ばなければいけない身です」
失礼を承知で、私はエレーヌ様の言葉を遮った。
「言葉遣いや仕草をお褒め下さったのは嬉しいですが、まだ上辺だけで必死に取り繕っているだけのことです。男爵令嬢とお話をするとなれば、きっと緊張して取り返しのつかない失態を犯すでしょう」
「そんな大げさな……」
「大げさでいいんです。ブランモワの名に泥を塗るわけには参りませんから」
私がきっぱりとそう言うと、エレーヌ様は唇をとがらせてつまらなそうな表情を浮かべた。
「クレティエンのサポートをするっていう名目でもいいじゃない。私がリュカについての話をアリスに振るから、直接話をしなくたって傍で聞くことはできるでしょう」
「お嬢様、わたくしだけではなくニナ本人も早計だと申し上げているのです。諦めてください」
クレティエンの冷静な囁きに、エレーヌ様は大きく息をつきながら頭を振って「くそ真面目なんだから」と呟いた。
「何という汚いお言葉! エレーヌ様、淑女たるものそのような下劣な発言は」
「文句ならお父様に言って頂戴。私の品のない所作は全てギヨーム・ブランモワから引き継いだのだから」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。完璧なレディでいらした奥方様がご存命なら、こんなお姿を見て何と仰るやら」
「きっとレディらしく、大口開けて笑ってくれるわよ」
澄ましたご様子で言い切るエレーヌ様。私はうつむいて唇を噛みしめ、吹き出しそうになるのを堪えた。
「まあ、いいわ。次がダメならその次の機会にしましょう。クレティエン、それまでにはニナをブランモワ家の侍女としてどこに出しても恥ずかしくないよう、仕上げておいてね」
「わたくしの忠告は受け入れないおつもりですか。それならこちらにも考えがございます」
「どうせまたラスペードに言いつけるんでしょ。何でもいいけどね、そんな顔ばかりしていたら、その内眉間のしわが後頭部まで突き抜けるわよ」
クレティエンを諫める言葉だけでなく、彼女の顔マネをするというあまりのおふざけぶりに、堪えきれずつい笑みが零れる。私はそれを誤魔化すべく、ボンネットも脱がずに自室のある二階へと階段を駆け上がったエレーヌ様の背中に向かって慌てて深くお辞儀をした。
「そろそろご結婚も考えないといけないお年頃だと言うのに、あのじゃじゃ馬っぷりはどうしたものかしら」
額に手を当ててそう言ってから、クレティエンはグレーの瞳を厳しく光らせ、私の方へと向けた。
「ニナ、エレーヌ様が話をしておられる時は、途中で言葉を挟まないこと。あれは失礼な行為だわ」
「……分かりました。次からはしません」
「エレーヌ様はずいぶんあなたを買っているようだけれど、あまり調子に乗らないようにね。勉強不足というだけでなく、あなたはまだそこまで信頼できる人物ではないのよ」
はっきりとそう告げられ、ブーケを握る手に力がこもる。
私はここの誰にも王都で問題を起こしたことは話しておらず、国境近くの寂れた町から職を求めてブランモワ伯領までやって来たと偽っている。どういう形でかは分からないけれど、たぶんクレティエンは……クレティエンだけじゃない、使用人の多くは私やリュカの出自を今も疑っているんだろう。
「心得ております。どこの馬の骨かも分からない私たちをお救い下さったご恩に報いることができるよう、一生懸命奉公させていただきます」
「分を弁えているようで安心したわ。今後もその心構えを忘れないように」
クレティエンはそう言って私から視線を外すと、エレーヌ様の後を追って二階へと向かった。
私が着せられた汚名は王都では揺るがぬ”事実”として根付いているけれど、本当は違う。私が子爵のご子息に色目を使ったのではなく、彼の方が私に対して劣情を抱いたのだ。それを拒んだことに不満を覚えたご子息が私を陥れるために嘘をでっち上げただけ、というのが真実だというのに、私の訴えは大きな力によってかき消されてしまった。子爵家に働いた無礼やそのために全財産を取り上げられたという不名誉なこの”事実”が、もしギヨーム様の耳に入れば、私たちはきっとすぐにでも追い出されるだろう。
目立たないように、出過ぎないように。自分に与えられた仕事を粛々とこなして波風を立てないように振る舞えば、よそ者でもその内この地に馴染み、その他大勢に溶け込むことができるはず。みんな私の過去に疑念を抱いていたことなんて忘れて、余計な詮索をする人もいなくなるに違いない。
「だいじょうぶ。私なら、できる」
やっと掴んだ平穏を二度と手離さないためだ。たとえエレーヌ様の不興を買うことになっても、日の当たる場所には絶対出ないようにしよう。
私は今一度、ここで働くことになった時に固めた決意を心の中で唱えた。
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