4:こんにちは、ぼす

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「ぶーちゃん、今日も綺麗に食べましたねー」

「にゃあ」


俺は今もまだ“変な猫”のままだ。


あの日、あの朝、あの子供が俺の頭を撫でてからどれだけ時間が経ったか知らないが、最早普通の猫が生きていられる寿命をとうに超えてしまった事だけは確かだ。

何故なら俺の後に生まれた子猫どもが俺より先に死んでいったからだ。

事故とかそういうのではなく、ちゃんと爺さん婆さんになるまで生きて死んだのだ。


それも1回や2回の話ではない。5回くらいは、そういうのを繰り返した。

だから、もう俺は自分で自分を“変な猫”だと言うようにした。

まぁ、この呼び方も人間の言葉を理解できるようになってから自分で考えてつけた呼び名だ。

それまでは、俺は自分が“猫”という存在である事も知らなかったのだから。


「にゃあ。にゃあ」

「あらあら、本当にぶーちゃんはお利口さんだこと」


俺は婆さんに向かって『ありがとう』と頭を下げた。

人間は他人に何かをしてもらった時に『ありがとう』という音の羅列を必ずと言っていいほど言う。

そうして、頭を下げる。


俺が変な猫になって人間の言葉がわかるようになってから、俺はそれがおもしろくて、昔よりよく人間達の中に紛れ込むようになった。

そうしたら、自然とそういう事が分かるようになったのだ。


それがまた、俺にとっては面白かった。


『ありがとう』は何かしてもらった時に言う言葉。

けれど、頭を下げるのは人間、色々な場面でする。

例えば。


「あら、ミソノさん、こんにちはー」

「堀田さん、こんにちはー。今日はあったかいですねぇ」


こんにちは、と言う時。

今、婆さんに話しかけてきたのは此処からちょっと行った先の四つ角の右側にある家の“ほりたさん”だ。ほりたさんは婆さんに頭を下げると、俺達の居る所までやってきた。

婆さんとほりたさんこうなると話が長い。

俺はニコニコと婆さんを見て喋り始めたほりたさんを見上げて、この光景は何度見てもおもしろいと内心頷くのだ。


人間は他の人間に会うと必ず“こんにちは”とか“おはよう”とか言う。

少し長いやつだと“いつもお世話になっています”という時もある。

最初、俺はその言葉を長話をする前の言葉だと思っていたが、実はどうやら違うらしい。

他の人間を見ていると特にそれ以上話す事なく、すれ違いざまに互いの顔を見て「こんにちは」と言って頭を下げるだけでそのまま別れる事も多い。


俺はそんな人間の動きが面白くてたまらないのだ。


猫は人間のように他の猫にあっても目を見て声をかけたりしない。

まず、野良ネコというやつは互いに目を見る事自体しないのだ。目を真正面からジッと見るというのは喧嘩売る時くらいなもの。

誰彼となく目を見るのは無礼者だ。


俺達猫の挨拶は互いの距離感を測りながら匂いを嗅ぐ事で行われる。

けれど、人間は他の匂いを嗅いだりしない。俺が見た事がないだけかもしれないが。


俺が見て来た人間の挨拶は、あぁやって目を見て「こんにちは、いつもお世話になっています」とかなんとか言って頭を下げるのだ。

それが俺には珍しくて仕方ない。

俺はペチャペチャと俺のわからない事を話し始めた婆さんと、ほりたさんに背をむけるとゆったりと道路の脇を歩いた。

途中、人間の家の塀に飛び乗って家の中の人間を観察しながら歩く。


掃除をしたり、しかくい箱を見て笑ったり、寝ていたり。

とにかく人間のやる事は多種多様でおもしろい。


だから、俺もあぁやって人間に混じって人間の真似をしている。

けれど、そのせいでたまにやっかいな事になったりする。


『テメェ、また俺の縄張りをうろつきやがって』

『やぁ、ぼす。こんにちは』

『変な呼び名で俺を呼ぶんじゃねぇ!この化け物が!』


そう、塀を歩いていた俺の前に立ちはだかったのは、現在のこの辺りを仕切る猫だ。

彼は右目に大きな傷のある猫で、体もとてつもなく大きい。

鳴く声も猫のものとは思えない程低い。


そんな彼を俺は「ぼす」と呼んでいる。

近所の人間の子供らが彼の事を「ぼす」と呼んでいたので、俺もそう呼ぶ事にした。

「ぼす」という音の響きがとても彼に似合っているようで、俺は気に入っている。彼がどう思っているかはわからないが。

不思議な事に、人間の言葉を理解するまでは名前や呼び名など意識した事もなかったのに、今では名前がないと不便と感じる。

呼び名がなければ相手を認識する手段がなくなってしまうのではないかという程、あやふやな気持になるのだ。

だから、俺は今一番俺に接触のある彼の名前を「ぼす」にした。ぼすはそう呼ぶと怒るのだけれでども。


『やんのか!あ゛ぁ!?』


シャーと俺に対して威嚇を行ってくるぼすに俺は「またやってしまった」と視線を地面に落とした。

俺はぼんやりと考え事をしたまま、自然とぼすの目を見つめてしまっていたようなのだ。

これが、人間を知り、深く関わるようになった代償。

猫である俺の行動が、人間の真似をするうちに人間のソレが移ってきてしまった。それが、猫の世界のタブーだろうがなんだろうが。


無意識とは恐ろしい。

だって、人間は他人と話す時目を見て話すから。

だから俺も自然と見る癖がついた。

喧嘩なんて売ってるつもりは少しもない。


『すまない。そういうつもりじゃないんだ。ただ、あいさつをしたかっただけなんだ』

『あぁ?あいさつだぁ?どこがだ!テメェは俺にたった今喧嘩をふっかけやがった!俺の縄張りで、だ!それがどういう事かテメェも化け物だろうが同族ならわかる筈だ!』

『いや、だから。ちがう!』


俺は興奮気味に俺に食ってかかるボスの目から自分の視線が合わないように低くする。

睨み合いが続けば必ず喧嘩に発展する。

そうなる前に、こちらに敵意がない事をもっと明確にぼすに示さなければならない。

俺はその場に蹲るように座り込み尻尾を足の間に巻きこむと、ぼすに降参の意を示した。


『テメェ……化け物が、俺にを馬鹿にしやがって!クソが!』

『ちがうったら!』


なのに、ぼすは更に俺に食ってかかる。

その拍子に俺はまたしてもやってしまった。


敵意が無い事を示すため蹲って視線を逸らしたのにも関わらず、俺は思わずぼすの目を見てしまったのだ。しっかりと重なるぼすと俺の視線。

その瞬間、ぼすが俺に向かって飛びかかって来た。

俺はそれを塀の上からひょいと道路に飛び出して避ける。


『今日こそテメェをここから追い出してやる!』

『俺はこの縄張りにはもう興味はない!ただ通ってるだけだ!ほんとうだ!』

『その首根っこ噛みちぎってやる!!』


聞いちゃいない。


地面に着地した瞬間、俺はちぎれんばかりに足を動かした。障害物を避けながら周りに隠れられる場所がないか探す。

ここは元、俺の縄張りだ。俺の把握できていない場所などない。

しかし、それは今俺を追いかけ回すぼすとて同じ事。過去の縄張りの主と現在の縄張りの主。

分があるのはぼすだ。

このままでは俺はボスのあのカギヅメで引っかかれてしまう。

それは嫌だ。


『ぼす!この先は車が多い!行かない方がいい!』

『なんだと!?』


俺は後から追ってくるぼすをチラリと見ると、すぐにそのままある一軒の家へと逃げ込んだ。

俺は少しだけ開いた扉からスルリと体をすべりこませ、家の中を駆け抜け奥の階段を駆け上る。

その瞬間、玄関から激しい激突音が響いた。

きっと、俺を必死に追っていたせいで玄関の扉にぶつかったぼすだろう。


『今度会ったら絶対にぶっころしてやる!!』


玄関先からぎゃーという鳴き声で恐ろしい事を叫ぶぼすの声が聞こえる。

いくらぼすと言えど、野良にとって人間の家の中は縄張りの範疇外だ。

俺は走らせていた足を止めると階段の上にある大きな扉の前で座り込んだ。

こんな追いかけっこを俺は一体何度行ってきただろう。


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