雨音は鳴りやまない
ナナシマイ
序章
プロローグ
ラーラララー
ラーラララー ララー ラ ラー
ラララララーララー ラ ララー……
むせ返るような花の匂いと、適度に湿気を含む、やわらかな風。
空は青く、太陽は高い位置にあるようだが、周囲の木や草花はどこか赤みがかっている。それも、見たことも聞いたこともないような形の植物ばかりだ。
たとえるならば、そう。絵本の中の世界に出てくるような、ファンタジックな光景。
それに拍車をかけているのが、目の前の泉だ。赤や金に光る粒が浮かび、キラキラと舞い上がる様子は、どう考えても現実のものではない。
どこか遠くのほうから、小さく、ヴウゥゥと唸るような音が聞こえてきた。
ラーラララー ララー ラ ラー……
ここはどこだろう。
わたしは、誰だろう。
――いや。わたしはわたしだ。わかっている。
かなり幼い気がするけれど、自分のものであると確信できる程度には聞き慣れた歌声。
視線を下ろせば、小さな手と……記憶の中にはない、目の粗い麻のような布でできた服、それから、こちらは記憶にあるはずの膨らみ……に遮られることなく、何も履いていない足が見えた。どういうことだろう。
うたうことを一旦やめて、泉に駆け寄る。身をかがめて恐る恐る覗いてみると――
十歳くらいだろうか。アルバムで見たことのある、昔のわたしの顔が映っていた。
肩の下まで伸びた真っ直ぐな黒髪と、自分でも驚くほどに真っ黒な瞳はいつも通りで、それなりにバランス良く配置されたパーツも相まって、日本人形のように見える。よく、そうやって母親に言われたものだ。
……子供の頃の夢、なのかな?
そう結論づけようとするが、頭の隅でそれを良しとしない何かが邪魔をする。
そうだ。こんなことを考えていること自体、おかしいのではないか。
わたしは今まで、明晰夢を見たことなどなかった。それに比べると、この夢ははっきりとしすぎているのだ。
『というか。お腹、減ったなぁ』
そしてこの空腹感である。
夕飯もろくに食べずに寝てしまったのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。けれどもそのことが、ここの現実味を増しているようにも思えた。
とにかく、寝ているはずだが、目は覚めてしまった。
明日はライブだからと、早めに布団に入ったというのに。
仕方がない。仕方がないから……うたおうか。
……お腹、減っているけれど。
ラーラララー ララー ラ ラー
ラーラララー ララー ラー……
……え。えっ!?
突然、泉の中心から草が生えてきた。キラキラと光る水を滴らせて、こちらに向かって、ものすごい速度で伸びてくる。
あまりにも怖すぎて、わたしは、ひぃっと叫びながら後ずさる。
草はそんなことお構いなしというふうにわたしの目の前で成長を止め、綺麗な桃色の花を咲かせた――と思ったら、今度はみるみるうちに萎んで、大きな実がなったではないか。
……あり得ない。やはりこれは夢だ。
まるで、「お取りなさい」とでも言うかのように、草はゆらゆらと揺れてみせた。大きな実も一緒に揺れて、そのまま落ちてしまいそうだ。
思わず両手を添えると、実は茎から勝手に千切れた。ずっしりとした重みが手の中に収まる。
それは、大きな桃のようだった。
色は赤みがかった薄茶色だが、皮はさらさらしていて、細かい毛が生えている。匂いは……微かに甘いような。
少しだけ残った茎の部分を持ち、プルタブを開けるように捻る。すると簡単に皮が剥けて、甘い香りが強まった。垂れそうになった汁をぺろりと舐めれば、蜜のような濃厚な甘味に、顔がにやける。
……桃缶、いや林檎か。アップルパイに使うような、甘く煮た林檎。
甘いけれど、くどさはなくて美味しい。お腹が空いていたのであっという間に食べ終わってしまった。
そしてわたしは、あることに気がついた。
……喉、乾いた。
当然だ。ご飯を食べずに寝ればお腹が減るし、水を飲まずに甘い物を食べたら喉が渇く。
水。
それは、目の前の泉にたくさんあった。
はたして、これを飲んでも大丈夫なのだろうか。
キラキラしていて何だか怖い。そもそも泉の水をそのまま飲むというのはお腹に悪そうだ。困った。
『……とりあえず』
うたうか。先ほども食べられる実が出てきたし、今度も何か出てくるかもしれない。なんて、ね。
で、出てきた……!
うたいはじめてすぐ、同じように泉の中心から生えてきた草。今度は茎がかなり細い。実のなる草に絡まりながら高速で成長し、やはりわたしの目の前で止まる。
ピンと張った細長い葉の先から、ちろちろと水が零れだした。
キラキラと光る粒も混じっていない、普通の水のように見える。
わたしは葉の下で「あぁん」と口を開けて、上を向いた。ひと口分の水が溜まってからごくりと飲み込む。
『はぁ。生き返った』
お腹が空いたと思いながらうたえば食べ物が出てきて、喉が渇いたと思いながらうたえば飲み物が出てくる。
……随分と都合の良い夢だな、と、わたしは思っていた。
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