第18話

 事件発覚の翌日未明、吉岡みずきなる女は、交際相手の男性宅にいたところを神倉署の捜査員によって発見された。子どもたちの母親であることを認め、任意同行の求めにおとなしく応じたが、取り調べに対しては黙秘している。事件についてはおろか、自分の名前すら答えない。発見されたとき、本人確認ができるものはいっさい所持していなかった。神倉市に住民登録はされておらず、家宅捜索でも身元のわかるものは見つかっていない。

 黙秘を続ける吉岡は、非協力的な態度から逃亡や証拠隠滅のおそれがあるとして、まずは男児に対する保護責任者遺棄罪で逮捕となった。子どもの父親や知人に保護を依頼していたという可能性もないではないが、交際相手や職場の関係者にも子どもの存在を隠していたことから、そうは考えにくいと判断された。

 そのタイミングで、烏丸が取調官に任命された。当初は神倉署の刑事課署員が事情聴取に当たっていたがらちが明かず、やはり同性のほうが聞き出しやすいだろうとの理由で白羽の矢が立ったらしい。神倉署の面々はおもしろくない様子だったが、そんなことをいちいち気にしてはいられない。

 取調室で初めて対面したとき、吉岡みずきの両目は乾いていた。視線を下げてマリンカラーの爪をいじる様は、授業に退屈している学生のようだ。緩く波打つ茶色の髪を首の後ろで結わえ、貸与品のグレーのスウェットを身につけている。そでぐちからのぞく細い手首には、いくつもの古い傷跡があった。色白の美人だが、店のホームページに載っていた写真とずいぶん印象が違うのは、化粧の有無や服装の違いというより表情の違いだろう。

 吉岡の身柄を確保した捜査員によると、娘の死を知らされたときもこんなふうだったらしい。涙も見せずうろたえもせず、ぼんやりと捜査員を見て、そっかあ、死んじゃったかあ、とつぶやいた。何度もはんすうしているその言葉を、烏丸はまた思い出す。

 押収した吉岡のスマートフォンには、子どもの写真や動画が大量に収められていた。親子三人、くっついてアップで写っているものもたくさんあった。あんなに幸せそうに笑っていたのに。

 司法解剖の結果、女児の死因は脱水と栄養失調、平たく言えば餓死だと判明した。また、死亡したのは八月二日ごろだということもわかった。子どもたちが発見されたのは八月五日だから、男児は女児の遺体とともに三日間ひとりで過ごしたことになる。他に重大な身体的虐待のこんせき、たとえば火傷やけどや骨折のあとなどは見られなかったものの、だからといって恒常的な虐待がなかったとは言えない。男児は病院で治療を受け、もう会話もできるはずだが、今のところいっさいの質問に対して口を閉ざしているという。衰弱は激しいものの、体に深刻な後遺症が残る心配はないということだけが救いだった。

「まずはあなたの名前を教えてくれる?」

 烏丸の質問に、吉岡は沈黙でこたえた。沈黙というより無視だ。

「それじゃ、あなたの子どもたちの名前は?」

 吉岡はやはり答えない。

「ゆうやくんと、まひるちゃん、だよね。貼ってあった絵に書いてあったよ。どういう漢字を書くの。それともひらがな? お兄ちゃんと妹で、ゆうやくんは七歳なんだね。まひるちゃんはいくつ。五歳くらいだろうって医者は言ってるけど」

 七歳なら小学校一年生か二年生のはずだ。しかし部屋にランドセルはなく、ゆうやが小学校に通っている様子はなかった。近隣の保育園や託児所への聞き込みでも、ゆうやとまひるらしき子どもの情報は得られなかった。烏丸もマンションの住人に尋ねて回ったが、子どもの存在に気づいていなかった者がほとんどだった。

「七月二十五日の朝に、あなたの部屋で『死ね』と叫ぶ声を聞いた人がいるの。続いて部屋を出ていく物音も。それはあなた?」

 少し間を空けて烏丸は続ける。

「同じく七月二十五日、あなたは交際相手であるすぎうらさんの家に転がり込んだ。その日は約束してなかったのに、急に訪ねたんだってね。そしてそのまま警察に発見されるまで居座った。それまではどんなに遅くなっても泊まらずに帰ってたから、杉浦さんは帰らなくていいのかといた。するとあなたは、帰れないと答えた。『帰れない』ってどういう意味」

 子どもがいることを知らなかった杉浦は、吉岡が別の男と暮らしていると思っていたそうだ。だから必ず帰宅していたが、この日、その男に追い出されたのだと。だからそれ以上は追及せず、好きなだけいていいと言った。

「あなたはひとりで子どもたちを育ててたの? 父親は?」

 殺風景な取調室に烏丸の言葉だけが積もっていき、同じだけのはがゆさが心のなかに積もる。記録を取っている西がいまいましげにこちらを見ている。

「あなたが話してくれないと、まひるちゃんをきちんと弔ってあげることもできないよ」

 解剖はオールマイティではない。被疑者や被害者の口から新たな事実が出てこないとも限らない以上、早々に遺体を焼いてしまうわけにはいかない。あの小さな体は事件の証拠なのだ。

 吉岡の目が初めて烏丸をとらえた。だがそこに宿る感情を読み取る前に、またすぐに伏せられてしまった。

「もっかい訊くよ。あなたの名前は?」

 吉岡みずきは偽名だと、烏丸は確信している。

 名なしの女は再び黙り込んだ。


 逮捕から五日が経過しても、彼女は吉岡みずきのままだった。その名で送致もされたが、本名なのかどうかもまだ判明していない。

 事情聴取を連日おこなっているにもかかわらず名前ひとつ聞き出せない烏丸に対して、風当たりがきつくなってきた。とりわけ取調官の座を奪われた神倉署の捜査員たちは、非難がましい態度を隠さない。やり方がぬるいんじゃないのか、代わってやろうか、などと面と向かって言われることもある。うっせえと怒鳴ってやりたいが、なさは自分が誰より感じている。

 一方、多くの捜査員を投じた聞き込みの成果も芳しくない。意図的にそうしていたのか、吉岡には親しい人間がいなかった。個人的な付き合いがあったのは交際相手の杉浦だけで、その杉浦にしてもデリヘルの客として出会って親密になったというだけで、彼女のことをよく知っているとは言いがたい。近隣住民とのつながりも皆無と言ってよく、スーパーやドラッグストアの店員が顔は見知っていたものの、それだけだった。小児科を含む病院にもかかった形跡がない。また、スマートフォンを解析しても発見はなかった。今の若い女性には珍しくSNSを利用しておらず、インターネット上の友人も見つかっていない。

 検察からは早く身元をはっきりさせろと矢の催促だ。上層部も焦っている。この事件は大々的に報道されており、一刻も早く解決しなければ警察のメンに関わる。マスコミによって「自称・吉岡みずき容疑者」としてデリヘルのホームページの写真が公開され、各社は独自に情報を得ようと動いているはずで、先を越されるようなことになれば目も当てられない。

 そんななか、烏丸に新たな任務が課せられた。

「入院中の被害者のところへ行ってくれ。管理官のご指名だ」

 係長のざくらが、いつもの生真面目な調子で告げた。県警に採用された時期は同じだが、年齢は烏丸のほうがひとつ上になる。葉桜は大卒、烏丸は高校卒業後に一般企業に勤めていたのを辞めて警察官になった。

「ゆうやくん、面接の許可出たの」

 そこまで回復したなら喜ばしいことだ。声を弾ませる烏丸に対し、葉桜は冷静に答える。

「児童福祉司も同席の上で、本格的な事情聴取でなく顔合わせ程度なら、という条件付きだ。口数は少ないものの会話に応じるようになって、いくつかの簡単な質問には答えてるらしい。ゆうやの漢字は、夕方の夕と夜。妹は真っ昼間の真昼。みようは答えないが、年齢は夕夜が七歳で、真昼は五歳。のどが渇いたとか寒いとか、自発的な言葉もぽつぽつ口にしてるそうだ」

「すげえじゃん! いいニュースならいいニュースらしく言えよ」

 若いころからあいきようとは無縁の男だった。葉桜が口を開けて笑っているところを見たことがない。そんなだからよく不機嫌だと誤解されるのだ。

「夕夜の聴取は数回に分け、間隔を空けておこなうことになる。スケジュールは回復具合を見てだが」

 被虐待児童からの聴取は、基本的に女性警察官が担当する。また、烏丸はかつて生活安全部に長くいたことがあり、その種の経験も少なくはなかった。なるべく精神的な負担をかけずに子どもから正確な証言を引き出すため、司法面接法の研修も受けている。

 烏丸は気を引き締め直した。相手は傷ついた子どもだ。その傷は目に見えないだけに、深さは計り知れない。

 神倉市立病院は市の中心地にあり、敷地内にある駐車場はおおかた埋まっていた。どうやって嗅ぎつけるものか、被害者の入院先は公表されていないにもかかわらず、ここにもマスコミ関係者らしき姿がある。彼らの目につかないよう、烏丸は通常の入り口ではなく救急搬送口から中へ入った。

 そのとき、廊下の先に警察官の制服が見えた。こちらに背を向けて、ぶらりぶらりと歩いていく。そのだらしない歩き方で、ぴんと来た。

 狩野雷太だ。

 後ろから見てひと目でそうとわかった自分に驚きながら、なぜ狩野がここにいるのかといぶかしむ。狩野は現在、神倉署の地域課に所属し、神倉駅前交番に勤務している。通報を受けて被害者の二児を発見したのは彼だった。だからこの事件に無関係とは言わないが、捜査をする立場にはない。

 別件で来たのだろうか、などと考えているうちに、エレベーターホールで一緒になった。

「やっちゃん?」

 狩野のほうも気づいて声をかけてきた。狩野もまた採用時期が同じで、たしか葉桜とは年齢も同じだ。顔を合わせるのは、かれこれ六年ぶりになるか。記憶にある姿よりいくらか老けたが、昔と変わらずせ型で、警察官にしてはやや髪が長い。歩き方に限らず顔つきもしゃべり方もだらしなく、警察官の制服を着てこれほどうさんくさく見える人間も珍しい。

「久しぶり。今、捜一なんだっけ」

 過去の出来事など忘れたかのような屈託のない態度に、いらだちが募った。もしかしたら怒りはもう薄れているかと思ったが、まったくそんなことはなかった。

「なんでいんの」

 とげを隠さずに尋ねると、狩野はおっかないとばかりに首をすくめた。本気で怖がっているわけではないのは、しまりのない顔を見れば明らかだ。

「あの子の様子を見に来たんだよ。面接の許可が出たって葉桜から聞いたからさ」

 烏丸は舌打ちを抑えなかった。葉桜が知らせたのは、親切心からばかりではないだろう。狩野を刑事に戻らせたいと、いつだったか口にしたことがある。捜査情報は狩野をその気にさせるための餌だ。

 狩野はかつて、神奈川県警捜査一課に籍を置いていた。取り調べを得意とし、「落としの狩野」という異名まで取っていた。

 しかし六年前、烏丸や葉桜も捜査に参加していたある殺人事件で、許されないミスを犯した。過酷な取り調べを苦にして、被疑者が自殺してしまったのだ。

 物的証拠こそなかったものの、事件の犯人はその男以外にありえなかった。大勢の捜査員がこつこつと足で状況証拠を集め、本当にあとひと息というところだった。被疑者死亡というむなしい結末。あげくに、捜査に問題があったのではないかとメディアから突き上げられ、誤認逮捕の可能性さえ疑われた。狩野は捜査員全員の努力を台無しにしただけでなく、無念と屈辱を与えたのだ。

 狩野が捜査一課を去った年、てらというひとりの老刑事が四十年の警察官人生をひっそりと終えた。烏丸の警察学校時代の恩師で、警察官としての基礎を作ってくれた人だった。一時はペアを組んだ相棒でもある。さんたんたる結末を迎えたこの事件が、寺尾にとって最後の事件になった。彼はそれを嘆くことも狩野を責めることもなく、これからはバードウォッチングと打ちにいそしむんだと明るく去っていったが、退官後に赤提灯ちようちんで肩を落としている姿を、烏丸は目撃したことがある。

「だからってあんたが会う理由も必要もないだろ」

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