第52話 約束と宝物1

 決して忘れない別れの日から、一年と半年がたった。いつの間にか不眠を忘れた少女は、日課となった早起きを終えると、自室のデスクの前に佇んだ。綺麗に整頓された天板の上には、一冊の本と一つの財布が並んでいる。

 渡された時から一グラムも重さの変わっていない、端のほつれた財布を彼女は手に取った。革の硬い感触をそっとなぞり、コインチャックから指の長さほど伸びた組み紐を指先でつまむ。先についていたお守りの鈴は、気づかないうちに千切れて無くなってしまっていた。あの夏の日、互いに願いを叶えるためにお揃いで買ったお守りが残っていれば、今も彼は、隣に居ただろうか。そんなことを、彼女は幾度も考える。

 朝の光だけが差し込む、底冷えのする部屋。彼女は財布を机に置き、隣に並ぶ文庫本を手に取ってページを捲った。

 暑い夏の日、少年が薦め、貸してくれた小説は、五人の登場人物たちの物語だった。

 孤児の少年、不治の病に冒された少女、夢破れた青年、借金を抱えた中年のサラリーマン、最後は夫と死に解れた老女の話。それぞれが目を背けたくなる不幸を背負っていた。しかし初めの少年には、やがてかけがえのない友人ができ、少女は手術を重ねて病気を克服した。青年は新たな夢を発掘し、サラリーマンは人生を省みた後、尊敬しあえるパートナーを迎えた。終わりの一人、孤独な老女の人生は、決して孤独と呼べる悲しいものではなく、この世を去る瞬間を微笑んで迎えた。

 五人の人物は、全員が幸せになった。物語の最後の一行を笑顔で迎えた。どの話もハッピーエンドだった。だから彼は、この小説が好きだったのだ。彼らの人生を自分と重ね、今この瞬間はただ苦しい最中にいるだけ、海底に沈んでしまっているだけだと信じた。だからいつか、自分も彼らのようにと、空想したに違いない。そのために、何が起きても歯を食いしばり、涙を隠しながらも懸命に毎日を泳ぎ、命がけで乗り越えてきたのだ。フィクションとノンフィクションのどうしようもない差分に唇を噛みながら「それでも」と毎日毎日願い続け、幸せな終わり方を何よりも望んでいた。

 早く読み終わって、感想を伝えるべきだった。私もこの話が好きだよと、笑って語り合えばよかった。

 ――もう、時間だ。

 端の破れた本を大切に閉じ、財布の横に並べる。彼が間違いなくそこにいた証拠に、「行ってくるね」と微笑んだ。


 待ち合わせていたファミリーレストランにはほどよく暖房が効いていて、例年より冷える二月の空気を忘れさせてくれる。

 ホットコーヒーに流れたミルクがくるくると渦を巻く。日曜日の午後十時、周囲の喧騒を逃れた隅のボックス席。視線を上げた少女の向かいに座る男女の前にも、同じカップが一つずつ置かれた。白い受け皿とカップには、茎をのばす植物が、このミルクのように器の周りを周りながらピンクの小さく可憐な花を咲かせている。

 ぼくもおなじのがいいと可愛い声が上がるのに、彼女は思わずふふっと笑った。斜向かいで父親の膝に乗せられているまだ幼い男の子は、自分だけ色のみが似通ったココアが置かれたことが不服なようだった。だが、コーヒーはまだ飲めないよと優しく父親が諭すと、唇を突き出しながらも素直に諦めた。脇に置いた子ども用のリュックサックに手を伸ばし、いそいそと中身を取り出す。

「ゆうくん、ご飯の時は、出しちゃ駄目よ」

 隣に座る母親に窘められるが、今回は頑固にそれを抱きしめて口を尖らせた。

「ごはんじゃないもん! のみものだもん!」

 ゆうくんと呼ばれた男の子が大事そうに抱きかかえているのは、青いくじらのぬいぐるみだった。口元に入った黒い刺繍のおかげで、笑っている風に見える。

「可愛いね、それ」

 少女が笑いかけると、味方を見つけたとばかりに嬉しそうに頷く。

「うん! くじらさん!」

 自分によく似た真っ黒な瞳を持つぬいぐるみに頬ずりし、決して離すまいと抱きしめている様子から、よほど大切な宝物であることが覗える。あと一年もしたら小学生になるのにと母親は呆れて笑い、父親は愛おしげに男の子の前髪をかき上げた。

 だが、男の子がぬいぐるみで手遊びを始めて大人しくなると、穏やかさに包まれていた空気はそこはかとなく冷えていってしまう。

 ひと月前、「一ノ瀬」と名乗る家族から少女に連絡があった。

 少年は警察を誤魔化し世間を欺いたが、桜庭菜々という少女と大切な家族だけは騙されなかった。彼が決して、人を憎む想いを胸に日々を生きていたはずがないと、家族は信じている。だからこそ彼らに対して嘘を吐く必要性など既に感じられないまま、少女は尋ねられるままに、彼と出会った半年を静かに語った。

 頷き、聞き入る母親の整った顔立ちは少年とよく似ている。隣で優しい笑みを浮かべる父親には、彼も持っていた穏やかさが満ちている。ああ、この人たちが本当の親なんだ。少女は、目じりに浮かびそうな涙を堪えた。

 彼の行動の全ては、彼女を守るためだった。決して傷つけさせないと、自分を信じて欲しいと繰り返した彼は、下手な大人よりも遥かに立派に、困難な約束を果たしてみせた。

「……あの子は、本当に優しい子なんです」

 少女の言葉を深く噛み締めるように、母親は頷く。

「いつだって、私たちのことを一番に考えてくれる子で。……特に弟には、甘やかしすぎるくらいに、いいお兄ちゃんで」

 父親の膝の上で大人しく遊んでいる男の子に、優しく視線をやる。母の慈しみに満ちたその表情は、彼も愛していたに違いない。

「本当は、弟が生まれるなんて、どう思ってしまうのか……心配でした。これで家族が離れてしまうだなんて、あの子が思ってしまうんじゃないかと」

 そう言って父親は、腕に触れる男の子の小さな手を軽く握る。少年と父親には一滴の血の繋がりもないが、生まれてくる弟は立派に両親の血を継いでいるのだ。

 もしかすれば彼が弟を恨んでしまうのでは。最悪の場合、自分が与えられず、望んでも貰えなかった愛情を憂い、嘆き、挙句には憎んでしまうのでは。そう両親は危惧してしまったのだ。

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