第35話 覚悟

「終わりなんだ。まあ、折角だしさ、勉強頑張ったし、ここまできたし……卒業ぐらい、したかったかな」

 あの日、二週間前、叔父に運ばれた先で起きたことを、彼女は余さず少年に語った。

 あの晩、そこには知らない男が三人も加わっていた。幾ばくかの金を払った彼らに手加減など存在せず、彼女は更なる地獄を味わいながら、これから自分が突き落とされる悲惨な運命を知った。

「つんぼのカタワだって」

 叔父に吐き捨てられた台詞を教える。すると少年は絶句し、瞳を揺らしたかと思うと、瞬く間に表情を悔しさで埋めた。少女の障害の理由を知る優しい彼にとって、信じられない台詞だった。

「そんなひどい言葉、信じないでください。あなたは何も悪くないし、足りないものなんて、何ひとつないんだから」

 あの場にいた人間は、誰もが叔父の台詞に可笑しさを見出して下卑た笑い声をあげていた。一体何が面白いのか、懸命に否定する彼には生涯理解できないだろう。ヒトという形態のみが一致するだけの彼は、あの生き物たちとは何もかもが違う。

「警察には、言わないの」

 暗く光を失った深海のような世界で、彼が一縷の望みをかけて尋ねた。

 だがここは、いつもとは異なる沈んだ海の底。見上げても光など存在しない世界に、望みなどかけられない。

「通報したって、私の話なんか誰も信じないよ。証拠もないのにさ。私一人が何を言ったって、誰も味方なんてしない。お母さんだって、いざとなったら絶対に叔父さんの方につくよ。惚れてんだからさ。馬鹿だよ」

「ぼくは、ずっと味方でいますよ」

「わかってるよ。でも今言ってるのは、そういうことじゃないの。わかるでしょ、大人がいないと太刀打ちできないってことぐらい」

 敢えて素っ気なさを装うが、彼は誤魔化されることなく、どうしようもない落胆に押し黙ってしまう。

「……もし事件にできても、下手に知られればさ、学校のやつら、さぞ楽しむだろうね。こんな汚いことしてる同級生なんて、いじりがい満点でしょ」

「いじめって、ことですか」

「その言葉、嫌い」

 わざと彼女がつんと横顔を見せると「そうですね」と彼は呟いた。「ぼくも嫌いです」そう繋げた。

 道徳に反した話題に飢える傍観者たちは、倫理を足蹴にした出来事が大好きだ。当事者がその事件を提供などすれば、たちまち授業を受けるどころではなく、骨さえ余さず貪り尽くし、学校内外問わず煽り続けるだろう。とてもではないが、自席に着きノートを広げる日常は、瞬く間に失われてしまう。

 録音でもしとけばよかったかな。ふいに思い、少女は少しだけ後悔した。だがここまで事態が悪化することを想定しなければ、誰がわざわざこっそり録音ボタンを押し、自分の醜態を来るべき時まで保存しておくだろうか。

「あいつらさ……叔父さんたちのことね。悪い大人だから、誤魔化すのなんて大得意だよ。そうすれば、その後で私は、もっと酷いことになる。……想像もつかないよ。あいつらのとこでさ、手足でも切ってダルマにされるかもね。一生遊べるしさ」

 うっすらと笑う少女の顔を見て、少年は絶句し、そんな酷い話はないとよろめくように首を振る。

「冗談だよ、流石に」彼女は笑っているが、それは無気力かつ薄く消え入りそうな、口元に浮かぶだけの微笑だ。「もし死んじゃったら面倒だし、そんなの抱いたって、面白くないでしょ。でもまあ、せいぜい、足の骨ぐらい折られるだろうね。私、生意気だしさ。逃げられないようにって」

「そんなの、絶対に嫌だ」

「嫌だって言っても、仕方ないのよ」

 ずっとリアルな想像を消し去ろうと、彼は頭を振る。目を覆う前髪が揺れ、光が彼の髪を滑って流れる。

「どうにか……どうにか出来る方法が、あるはずだよ。あなたのこんな終わり方、あまりにひどすぎる。許せない」

「あんたが許せないって、よっぽどだね」

「滅多にないです」

「滅多にはあるんだ」

 彼女の軽口に惑わされることなく、彼は唇を軽く噛んで考え込んでしまった。自分が使えるやり方で、彼女が絶望的な未来から安全に逃れる方法を懸命に模索する。左手を口元に当て、足元を睨みつけ、なにも思いつけず肩を落としては髪に指をうずめて考える。そんな彼の様子を見る彼女も、床へ視線を落とした。

 壁の掛け時計の秒針が、いやに大きく響く。彼女の残酷な結末へのカウントダウンを楽しむように、絶対に止まるもんかと動き続け、何もできない子どもたちを嘲笑う。

 時間だけが無情に流れる。二週間考え抜いた彼女の横で、必死にあれこれと思考を巡らせる少年が、自身の身を抱いて俯いたまま小さく呻いた。

「ねえ、それならさ」

 苦し気な彼に対し、至って明るい声をかける彼女は、顔の横で人差し指を立てた。

「私たちで、殺しちゃおうか。叔父さん」

 常軌を逸した台詞に、顔を上げた少年は目を見開き、瞼をひくつかせた。

「あんな人間なんだから、神様だって大したばちは当てないよ」

 まるで冗談のように彼女の顔は笑っているが、その瞳を見た彼にはわかってしまった。

 ――桜庭菜々は、本気だ。

 あまりに過激な言葉に戸惑う少年は何か言おうと唇を震わせたが、結局拒否の意見を口にすることはないまま、表情を緩めた。

 賛成も反対の言葉も言わないが、それでも逃げようとはしない彼の姿が、少女には嬉しくて、その優しさが、悲しかった。

「人間は、ばちは当てるよ」

「でも、今が一番お得だよ。少年法ね。未成年でさ、殺人て、どうなるんだろ。死刑にはなんないよね、多分、無期にも。けど当分、塀の中だろな」

「その方が、ずっとマシだよ」向かい合う少女に、少年は優しく頷く。罪を償い続ける生涯と、やがて訪れる気の狂いそうな生涯。前者を選ぶことは、言うまでもない。

 当然のように運命を共にしてくれる彼に、彼女はにっこりと笑いかけた。

「ふたりでやったら、罪は半分とか、ならないかな。ひとりでやってもふたりでやっても、同じだもん」

「本当に、半分こ、出来たらいいのにね」

「それでも、あんたと同じなら。同じ分だけ被っちゃうなら、それでいい。二倍あった方がいいよ」

 半分に分けて背負えないのなら、同じ分を二つだけ。それが一番だと、顔を見合わせるふたりは笑い声のないまま笑い合った。ふたりの覚悟は、既に固まっていた。

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