第13話 深海1
「私はあと一年ぐらい誤魔化せる自信あるけどさ。流石にあんたは無理でしょ。誰がどう見たってただの中坊なんだから、補導されたって知らないからね」
あまりに無責任すぎる少女の台詞だったが、少年にはそれを気に留める余裕など既になかった。
「制服で来るとか。あんたじゃコスプレにも見えないね、似合いすぎ」
だが彼女からの説明は何一つなかったのだ。彼が学生らしい制服で待ち合わせ場所に来ることは特に不思議なことではなかった。
少女が腕を掴んで引っ張ると、ようやく彼はついてくる。強すぎるネオンの光に目を細め、すたすたと路地へ入る少女に辛うじて歩調を合わせる。
健全な少年にとってはまったく予想外の出来事だった。普段なら陽の落ちた時刻にこんな道を歩くことなどあり得ない。
それでも彼女の手を振りほどくことが出来ず、何も言えないまま、ただ黙って後ろを歩く。
そんな彼の手を握る彼女には、少年の戸惑いも緊張も手に取るように感じられた。
口をぎゅっと引き結び、視線を伏せ、顔を髪に隠してただ懸命に気を張って。帰ろうという声だけは発さずきょろきょろと惑う姿さえないが、すっかり落ち着きを失っているのは確かだった。可愛いやつめ。鍵の落ちる音にびくりと肩を震わせるのを見て、頭ぐらい撫でてやりたくなる。
彼もやはり十五歳になる少年で、まるきり興味がないわけでもない。しかし今はそれを遥かに凌ぐ不安と困惑に翻弄され、進んで彼女の隣に並ぶことも、背を向けて逃げ帰ることもできなかった。
怯えからすっかり硬直してしまい一言も発さない彼に、部屋の鍵をかけた少女は振り返って意地悪く笑う。
「本気で嫌なら、帰っていいよ。流石にわかるでしょ、いくらガキんちょでも」
ひどく今更な言葉に、少年は小さく顔を上げ、前髪に透かして少女を見返した。彼女は待っていたが、少年の躊躇いがなんとか霞んでしまうのに、たっぷり数十秒は必要となった。
「ちゃんと髪拭いたの」
「……拭きました」
「びしょびしょじゃん。タオル貸して」
毛先に雫が残る彼の頭にタオルを被せ、少女は両手を動かして髪を拭いてやる。少し乱暴な手つきだったが、彼がそれに文句を言うことはなく、幼い子どものように、されるがままに目を閉じていた。
拭き終わると、少女は手櫛で彼の真っ直ぐに垂れる髪を梳いてやった。普段から伸びている前髪は、濡れてしまうとすっかり目を覆うほどの長さがある。
「前髪伸びすぎじゃない? 少しは切ったら」
「これで、いいんです」少年は呻く。
「こんな伸びてたら前なんて見えないでしょ」
「意外と見えてるから、大丈夫です」
何と言われようと、彼には前髪を切る気はないようだった。
「生意気に」と笑った少女がそれを軽く左右に分けてやると、やっと彼の瞳はこちらを見つめた。大人になれない彼の皮膚はまだ薄いのか、シャワーを浴びたおかげで血色よく、顔はうっすらと赤くなっている。
「顔赤いね」
「のぼせやすくて……」
「でもシャワーだけでしょ。お風呂沸かす時間なんてあった?」
「蒸気だけでも、なるんです……」
少女がわざとシャワーの温度を高く設定して出てきていたいたずらに、少年は気づいていなかった。すぐに立ち上った水蒸気だけで眩暈がしたと言う彼は、ろくに髪も拭けずに出てきていた。
「でも、もう平気でしょ」
そう言って顔を近づける彼女に、彼は返事をしなかった。
そんな彼の深い瞳を見つめ、強張る両肩を両手で軽く包む。ぎゅっと唇を引き結んでしまった少年は、緊張のあまりぴくりとも動かない。彼女は体を寄せながら瞼を閉じた。
胸が合わさると、早い鼓動が身体を通して聞こえてきた。少し高い体温が、シャツ一枚を通して伝わってくる。どんどん速度を増す心音に、ひどく躊躇いながらも促されるまま僅かに唇を開いた彼を、少女は抱きしめる。戸惑って動けない彼の姿も、病気かと思うほど早い鼓動も、その身体の高い体温も、のぼせる頬も濡れた髪も何もかも。離したくない。触れていたい。
やがて少女が顔を離すと、少年は大きく息を吐いて深い呼吸を繰り返した。何も知らない彼は、上手な息継ぎの方法さえわからなかったのだ。
「さっきより、顔真っ赤じゃん」
そんな彼の頬を、少女は柔らかな手で撫でる。
「可愛いね。女の子みたい」
その言葉に僅かに眉根を寄せて、声にしないまま少年は大人しく抗議する。女の子に女の子みたいと評され、可愛いと褒められても、少年にとっては喜ばしくなどない。
やっぱり好きだ。この少年が、自分は好きなんだ。
そんな彼の様子を見て、自分の変わらない想いを確かめると、少女はにっこりと笑った。それを望む者には決して見せない、見せてたまるかと思っているはずの、誰もが見惚れる笑顔を見せた。
「いいよ」
恥ずかしがりやな彼の目を、そっと前髪で隠してやった。
良く言えば純粋で、悪く言えば無知な少年は、彼女が笑ってしまいそうになるほど不器用で精いっぱいだった。ここまできて彼女の肌に触れることに戸惑い、恐る恐る手を伸ばした。
「あんたは初めてでも、私は初めてじゃないんだから。そんな怖がんないでよ」
くすくすと笑い、少女は彼の腕に触れる。
彼が触れた肌が、指先の形に温かい。いや、熱い。その熱を、彼の手の形を、肌に永遠に残しておきたい。そう思いながら、少女は天井に目をやった。
そこに、いつもの木目はない。その幻覚を見る気にもならない。少しでも、今の景色を瞼の裏に残しておきたい、感覚を覚えていたい、聞こえるもの全てを鼓膜の奥へ閉じ込めていたい。
そうして、やっと気が付いた。少年が、音を立てずに切らせる息の間で、何度か同じ言葉を重ねていた。
「痛くない?」
心配そうな声音。その言葉の意味を理解できず、少女は小首を傾げる。「大丈夫?」と彼はまた聞いた。どうしてそんなに、不安そうな顔で見つめるのだろう。
理由を考えて、やっと少女は自分の身体に小さな痛みがあることに気が付いた。それはただ物理的に感じられるだけで、感情と切り離す努力をしなくとも、言われなければ気づくことさえない痛みだった。こんなに柔らかな痛みを、彼女は知らなかった。
「へたっぴ」笑ってやると、彼は怒るよりもすまなさそうな、情けない表情を見せる。「痛くなんてないよ」その顔に、優しく付け足した。
「本当に?」
「本当に。ほんとのほんと」
それでも不安げな彼を安心させるように、腕を伸ばす。覆いかぶさる彼の頬を包み、真っ黒な髪をかき上げた。痛いかと問われたことなど、これまでただの一度もない。だからこそ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
赤らんだ彼の顔を、下から眺める。彼は小さく開けた口で、細かな呼吸を繰り返している。その深い瞳が、こちらをじっと見つめている。
痩せた肩へ伸ばした腕でその背に触れて抱き寄せると、彼もゆっくりと身体を倒した。
いっそう強く聞こえる心臓の音。ようやく緊張の解けた体は、火照っていて熱い。苦しそうに呼吸をするたび、背中が大きく上下する。殺そうとしている荒い呼吸が耳にかかる。頬に触れる髪から微かにシャンプーのにおいがする。
少し汗ばんだ彼の背を、少女は黙って抱きしめた。これが本当なのだと、自分に強く言い聞かせる。行為の名称は同じなのに、全ての感覚がいつもとは違う。
自分から手を伸ばしたのは、初めてだった。自然に手が伸びていた。こんなに幸せなことなんだ。頬に頬を押し当てて、少女は少年を抱きしめた。
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