第11話 朝焼けの街
早朝の薄闇の中、目を伏せて言葉を呟くだけだった少年がようやく笑顔を見せたその日から、少女はいくつかのことに気がついた。
彼の目は、暗いのではない。深いのだ。黒々とした水面のような瞳の奥は、海の底のように深かった。少女が前髪を通して覗き込むと、新聞を届けに来た彼は深海の瞳で瞬きをした。しかし何も言わない少女が、自分を見ているのではなく見つめているのだと気が付くと、途端に目を逸らし、頭を下げ、慌てて次へ向かってしまうのだった。
相変わらず、安い缶コーヒーを片手に会話をする時間は、三分にも満たない。誤差を一、二分しか許さない新聞配達の少年がやってくる五時半という早朝は、睡眠リズムの崩れた不眠症の少女が起き出すにはあまり適さない時間だった。
隣の部屋で眠る母を起こさないよう、目覚まし時計ではなく小さな音で短時間だけ鳴るようにスマートフォンのアラームをセットしたことを、少女は気まぐれと呼んだ。五時二十分。この時間には喉が渇くんだ。家の麦茶や牛乳では満たされない類の、身体に悪い味を求める時間。それだけなのだと、彼女は自分に言い聞かせた。
少女にとって、それまで朝は憎しみの象徴で、待ち伏せている今日という一日を予感させる厄介なものだった。
しかし鳴り始めたアラームを切るようになり、そのたび少女は一つのことを思い出した。
今日は何を話そうか。コーヒーに溶けるミルクのように、緩やかに差し込む朝陽をカーテンの隙間に感じながら考えた。
家のことなどつまらない。学校のことなど思い出したくもない。そうだ、それなら聞いてやろうか。あいつはいっつも真面目に答える。中三のくせに、反抗期のはの字もない。
そうして彼女は、階段を下りる。
五月も終わる季節になると、出会った約ひと月前より朝の光は少しだけ強さを増し、夜から力を奪い始めた。それでも性懲りもなく居座る霧のような夜を、タイヤが切り裂く音が響く。
「おはよ」しつこい低血圧のせいで、わざわざ外に出てくる少女の声に覇気はない。
「おはようございます」自転車を止めて答える少年の声も小さく、夜明けの邂逅は短くささやかで儚い。ほんの数分、缶コーヒーを飲み終わるにも至らない時間、二人は言葉を交わした。
「よくやるよね」
美味しくなどない缶の中身をあおり、新聞を取り出す少年に少女は言った。
「雨の日なんか大変なんじゃない」
「大変です」
彼は決してにこやかではない。少なくとも、いつも笑顔で元気いっぱいの少年には程遠い。だが、無闇に視線を逸らしはしなくなった。
少女は、彼の本当の姿を考えた。表と裏。本音と建て前。必ずこいつにもあるはずだと少ない思い出を手繰ったが、紐の先に答えは結び付いてはこない。いくらからかってみても、皮を脱いで嫌悪を向ける兆候すらなく、憮然とした表情さえ見せても怒る姿など一度も見せてはこない。
「水たまりで滑って転んだりしたら、もう……」
「死にたくなる?」
彼女の言葉に、「そこまでは」と彼は僅かに頬を上げて少しだけ笑った。
塀にもたれ、中身の半分残った缶を右手にふらふらと揺らし、新聞受けに腕を伸ばす少年を眺める。
「楽しいの、新聞配達」
「……楽しいとかは、あまり、ないですけど」
「楽しくもないのに、よくやってんね」
少年の深い瞳が彼女に向けられる。呟くような声量でも、彼の声は下に落ちず、穏やかに彼女の鼓膜を叩く。
「冬のまだ暗い時間は特に、専売所に行く途中の坂道で、星が綺麗に見えるんです」
「星なんて、晴れてればいつでも見えるでしょ」
「特別なんです。それに、この先の坂の上からも、振り返ったら朝陽が見えて。街が照らされていって……。なんだか、この世界に自分しかいないって気がして」
彼が前髪で隠す目を見つめると、心に思い浮かべるその光景がまさにその中に見える気がする。
「みんなが眠ってて。この景色はぼくしか知らないんだって。ぼくだけの世界だって、思って。すごく綺麗で。後ろに白い三日月が昇ってると、それだけで、十分で」
朝と夜の境目の、静謐な世界。足元に広がるこの町を、少年は一人で眺める。空には、型抜きされた月の跡。少女が憎む朝を、一方で少年はそうして見つめている。自分しか知らない、誰の声も姿もない、孤独で美しい世界の様相。
夜の星空を、冷たい空気を、迎える朝焼けを、薄まる月の影を。新聞配達の少年は、全身で受け止める。
言葉を交わす時間はそれがせいぜいで、少年はサドルから下りることもなく、いつも軽く頭を下げて行ってしまう。全ての人間に横顔だけを見せ、自分だけが知る世界へ向かい、潜るように消えていく。毎朝。飽くことなく、毎朝。
一方で彼女の気まぐれは毎朝は続けられず、元来の不眠はそこ意地悪く体を支配し早朝のアラームを拒んだ。
それでも夜行性の彼女にとって、飛び飛びであれど早朝の起床は随分とした快挙だった。ともすれば、彼の言った景色を見たいとさえ思った。頼めば、彼は連れて行ってくれるだろうか。自分だけの世界を、ほんの少しでも見せてくれるだろうか。誰も知らない、深海の瞳を持つ少年だけが、一人きりで潜り続ける世界を。
馬鹿馬鹿しい。思うたびに、彼女は自分で自分を笑う。
所詮はただの景色の話、網膜に結ばれる像のこと、視神経が脳に伝えて見せているだけのもの。あいつは多分、年の割に感受性が子どものままなんだ。誰かに笑いながら、少女はアラームを止める。
「これ、飲む?」
そんなある朝、以前に自分が言った約束にもならない台詞をふと思い出し、少女は安いコーヒーの缶を揺らした。中身はまだ十分に残っている。
「喉乾くでしょ。自転車なんかこいでたら」
不思議そうな顔をする少年は、「まあ……」と曖昧な声を漏らした。
「ほら。気に入ったら全部飲んじゃってもいいよ」
「コーヒーですか……?」
「どう見てもコーヒーじゃん」
缶のラベルを見せると、少年は左足を地について右手でハンドルを握ったまま、困ったように頷いた。
「もしかして、飲めないの、コーヒー」
「いえ……飲めないことは、ないですけど……」
どうにも歯切れが悪く、隙あらば彼は彼女から視線を外そうとする。前髪にその目を隠そうとする。
なんだこいつ。少女は迷っている風な彼の姿に、そのわけを考えた。
そうして一つの答えにたどり着くと、眠気を忘れた笑い声をあげた。
「もしかして、照れてんの?」
「それは……」
かき消えそうな声で何かを言おうとする彼は、否定をしない。代わりに、一層居心地悪そうに、上げかけた視線を逸らしてしまう。
「私がもう飲んだから? なにそれ、そんなん気にしてんの?」
遠慮なく彼女は笑った。この程度の間接キスに戸惑って躊躇うだなんて。小学生じゃあるまいし。
これがもしも学校の男どもなら、いくらか金を出すやつだっているだろう。そんな輩に缶を渡すことなど、地球が最後の日を迎えたってあり得ないが。
だからこそ、目の前の少年が彼らと同じ種の同じ性別の生き物であることすら、なんだか信じがたく思える。
「もしかして、いや?」
そう問いかけると彼はぎゅっと口を閉じ、小さく首を横に振った。
「ならいーじゃん」
「……あなたは、嫌じゃないですか」
「嫌なら言わないし」
その通りかと彼は頷く。煮え切らない手が伸ばされるのに、少女は軽く笑いながら缶を渡す。
「心配すんなよ、毒なんかいれてないって」
少年は何かを訴えるように彼女を上目遣いに見ながら、缶の中身を確かめるように軽く振り、ようやく一口含んだ。
だがその一口で彼は口の端をゆがめ、缶を口元から離してしまった。眉を寄せる表情は、いかにも心外な味だと言っている風だ。
「どうしたの。まずかった?」
「いえ……」そう否定するがこれ以上は飲む気が起きないらしく、口をつけた部分と自身の口元を手で拭う。「ブラックですね……」
缶を受け取った少女は思わず吹きだした。
「なに、あんたブラック飲めなかった? 書いてるじゃん、ほら」
「見えてなくって……ごめんなさい」
「謝んなよ。あーおかし」
彼女の手に隠れ、BLACKの文字が読み取れなかったらしい。苦みが取れないのかしきりに口を動かす様子をみて、彼女は声を殺しながら、それでも笑ってしまう。
「目え覚めた?」
「覚めてます」
気のせいかいつもより投げやりに聞こえる台詞を最後に、少年は会話を打ち切ってしまった。
そうして夜明けへ向かう背中を見送り、缶の残りをあおって、少女はまた一つ気が付いた。
彼は、こちらへ近づかない。
最初は、視線をやることさえしなかった。目を合わせるどころか言葉も最低限のまま、まるで少女に興味のかけらもない態度を貫いていた。今になって、ようやく伏せ気味の目を上げ、感情があることを示すように静かに笑うようになった。からかわれれば少しだけむくれ、または戸惑い、問いかけられると話し出す。
だが、それだけなのだ。
それが少女には新鮮だった。どれだけ構っても視線すら合わせない彼は、普段同級生の視線を浴びている彼女には稀有な存在だった。
今だって無糖だと知れば無理に口に含むこともせず、あっさりと缶を返しさっさと背を向けてしまう。どこまでも素直で裏の見えない彼だから、全ての態度が本音に見える。だからこそようやくみられるその笑顔に、無理に縮められない距離感に、安堵してしまう。
彼は無闇にこちらへ踏み込まず、触れようなど決してせず、ただただ律儀に新聞だけを届けに来る。互いの名前さえ知らせないまま。
だけどさ――。
そんな想いが潜むのを、彼女は飲み込んだ。
わざわざ遠回りをして、下校中に公園の前を通るのは、ただの気まぐれなんだ。いい運動になるから、そうだ、そうなんだ。中学校と高校の放課時刻は違う。電車が駅に着くまでの時間だってある。
だから、用事のあった彼の後ろ姿を数度見かけたのだって、別に朝の延長だ。「またね」は副産物。勝手に口から出てくるだけなんだ。
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