第7話 春 福岡市 その3

 今日、春野種が病院を訪れたことに、これといった特別な理由があった訳ではなかった。二歳年上の姉、苗とは週末にここを訪れてから口も聞いていない。何か思い詰めているようにも見えるが、姉からは何も話してくれない。

 以前は違った。

 一般の面会時間を終え、人気の無くなった緩和ケアセンターの面会室の椅子に腰掛け、自動販売機で購入した缶コーヒーを啜りながら種は天井を見上げた。

 昔の姉は気さくで明るくて、ちょっと天真爛漫なところもあったけれど、話すだけで元気を貰えた。なのに。

 最近、自分とは別に姉が祖母を訪ねて来ていることは、それとなく分かっていた。恐らく姉は、祖母に何かを相談していたのだろう。祖母が何も答えてくれないことを承知の上で。

 飲み終えた缶を種は手の中で握り潰した。しかしそれは意外に硬く、中途半端にひしゃげてしまう。溜息と共に、彼は窓際に設置されたゴミ箱に向かって、その缶を放り投げた。

 その時、窓の向こうで青白い布のようなものが、そろりと動いた。

「何だ?」

 布の正体を見極めようと、種は両目を見開いて外をしげしげと見詰めた。目の前に広がるセンターの中庭は、入院患者が少しでも寛げるように広い日本庭園風に整備されていた。

 その庭のど真ん中を、右から左へ、青白い物体がヒラヒラと通過して行く。背筋に若干の恐怖を感じながらも、好奇心から種は目を逸らすことが出来ない。

 ゆっくりと、その青白いものが窓の左手へと消えてゆく、急いで駆け寄り、顔を窓にべったりくっ付けて、種はその行方を目で追った。

 やがて、それが視界からすっかり消えてしまうと、種は面会室の窓の施錠を外し中庭へと降り立った。今見たものが何だったのか、確かめずには居られなかったのだ。

 庭の中央に設置された小さな水銀燈の灯りの下を、青白い影は揺蕩う様にゆったりと進んで行く。その後を、種は引き込まれるようにして着いて行った。ふと民話の本で読んだ一反木綿という物の怪を思い出して、種は身震いした。

 ふらふらと漂う青白い影。種はその背後に回り、目を細めてそれを注視する。

「あれは?」

 おばあちゃん?

 種の目に写ったそれは、薄い水色の寝巻きを身に纏い、裾を棚引かせながら歩を進める祖母、鈴の姿だった。

 呆然と立ち尽くす種を尻目に、鈴はゆらゆらと地面から立ち上る陽炎のように、頼りない足取りで前進して行く。

 何だ? どうして?

 おばあ——

 種が正気に戻り、声を掛けようとしたその時、祖母の姿は庭から掻き消すように無くなっていた。

「どこだ、どこへ行った?」

 目を凝らすが、彼の視界のどこにも祖母の姿は見当たらない。慌てて踵を返し、種は転がるように走って祖母の病室へと向かった。

「はあ、はあ——」

 息を整え、早る気持ちを抑え病室に入ると、そこには、いつも通りベッドの上に横たわる祖母の姿があった。種は呆けた様に祖母を見下ろした。

 では、たった今見たあれは一体何だったのだろう?

 緊張が解けた種は、ベッドの横にあった椅子にどっしりと腰を降ろし、じっと祖母の顔を見詰めた。

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