荒祭は必死に手足を動かし闇を掻き分けた。

 まるで海だった。

 掻いても掻いても黒い波が被さってくる。

 全てが繋がり過ぎて境界無く浮いている。


 足の下には地面がある、ならば此処は地上の筈だ。

 ああ、でも風を感じない。

 

 ハッハッという自身の荒い息遣い。

 孤独を一層募らせる音が聞こえないよう耳を塞いでしまいたい。


 しかし、しつこい問いの残響で鼓膜が震えていた。

 塞いでも無駄だ。

 それにカミソリの煌めきと昆虫に似た医者達の残像が左右の目の横でずっと揺れている。


 その映像と声は闇でも消せない。


 無我夢中で木の小屋を飛び出した時点で、世界は闇に閉ざされていた。

 自分を捕らえようとする大きな影に囲まれているようで息苦しい。


 行く当ては無い。

 何処に逃げても目と耳から逃れられない。


 瞬きすら忘れた眼に映るのは厚く塗り重ねられた闇、闇、闇。

 見たいものは見えないのに見たくないものばかりが現れては囁く。

 

 額から流れるのは血か汗か。

 睫を伝い目に染みて瞬きすると、視線の先にぼんやりと紫陽花色の光が舞っていた。

 一瞬でも幻かと疑う理性はあった。

 左右に振れながら、上下にも移動する不思議な光。


 ポツポツと数が増えていく。

 光の尾が伸びて美しい連珠を闇に描く。


 溺れ掛けた人間にとっては藁にも等しい心許なさだが、他に道標は無い。 


 荒祭は虫のように吸い寄せられ、よろめきながら歩を進めた。

 自らの指先さえ定かでない漆黒の闇に覆われていれば、光に誘われるのは当然の心理と言えた。


 此方から近付いているのか向こうからなのか。

 当に前後不覚。

 紫陽花色の光が彼の周りで戯れる。

 地獄の内の天国に陶酔し、痺れた。

 

 静謐と安らぎ。

 求不得苦から漸く解放された心地だった。


 闇に散る粒を掴もうと手を伸ばすと、光が指先に止まった。


 それは目映く世にも美しい蝶だった。

 羽が微かに震える度に、宝石のような粒がキラキラと散開する。

 光の軌跡を追いながら、不思議な音を耳が捉えた。

 涼やかな、凪いだ風を誘う高い鳴き声。


 蝶も鳴くのか。

 ぼんやりと、そう思った。

 今、彼は闇ではなく光に包まれていた。

 紫陽花色を纏う無数の蝶が群れ、頭や肩や背中に羽が優しく触れる。


「荒は──」


 左から低く。


「祭は──」


 右の声は高く。


「道は──」


 上からの声は重く。


「真は──」


 下から明瞭に突き上げる。


 風を呼んだ鳴き声は、人の言葉となって告知した。


 荒祭の額から流れるのは血か汗なのかもしれない。

 だが頬を濡らすのは、間違いなく涙だった。


 荒祭は嗚咽した。

 耳を塞いでも頭蓋骨を錐が突き割り、脳髄に直接言葉が染みていく。

 骨も内臓も芯から溶かされ、心眼には既に彼岸が映り、紅の花が鮮やかに咲いていた。


 慰撫するように身体を掠め蝶が舞う。

 時折、肩や頭の上で羽を休め鳴き声を発する。


「荒は、叢に打ち捨てられたザンバラ髪の骸」


「祭は、生贄の肉を捧げ供える人」


「道は、災いを入れぬ為、埋められた首」


「真は、行き倒れの骸」

 

 アメーバが波濤を起こし、記憶を押し上げた。

 虚空に向けて慟哭した。

 それでも同じ言葉が延々と脳を掻き回す。

 自身で身体を抱き抱えながら走った。

 見えない鎖を腰から引き摺る彼の前後左右を青い光が包囲する。

 

 自分で選んだのだ。

 始めから選んでいたのだ。

 平穏に膿み、先に希望が持てず緩慢な死に身を投じ続けた。

 本当は死を望んでいたのか。

 投げ遣りに日々を送りながら、無駄な物を積み上げ、それでもガラクタにしがみついた。


 天から降る水は法雨だった。

 血と汗と涙、煩悩を洗い流してくれる。


 真っ裸で、体毛さえない素肌の上を水滴が滑っていく。

 彼岸花が誘い、青い蝶が導く。

 

 全て捨てた。

 紅に縁取られた彼岸に向かって進む。


 青い蝶に紅の花。

 立命安心の境地で飛べばいい。

 そうすれば、もう選ばなくていい。


 蝶のように飛んだ。

 真の安らぎを求めて。

 青い光が玉となり彼を包み込む。


 落下しながら、あの日届いたメッセージの最後の一文が脳内を駆け巡った。


 生きるべきか死ぬべきか。

 迷いある者、頂を目指せば答えを示す。

 迷っても選べる。

 迷いがあるうちは決して死なない。

 だから不死原岳。

 

───


 雨で湿った山中の叢に血塗れの男が倒れていた。

 無精髭に、髪は長髪で衣類は泥だらけ。

 割れた頭部には血と脳漿がこびりつき、叢に投げ出された右足首が奇妙な角度に捻れ、左脚の脛から白い骨が露出していた。


 無惨な骸の上で蛆虫が群れていた。


 男は自分だ。

 たまとなり、自身の死と向き合う。


 側に鉈を持った老人二人が立ち、囁き交わしていた。

 その囁きは、もう彼の耳には届かなかった。



                 完


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