第24話 最後の別れ

 五百蔵は、厳しい目付きでハーブティーの入ったティーカップを見つめながら語り出した。

「私、見たんです。五、六年程前、拓三さんを」


 五百蔵は、短大卒業後勤めた会社を辞め、次の就職先が見付かるまで、高級クラブに勤めていた。そして、その店で、派手な服装に身を包み、両手にホステスを抱え喜んでいる男性が目が留まる。


「あの人って、誰ですか?」

 五百蔵は、気になった男性について店で働く子に尋ねた。

「あ、あの人。加瀬さんよ。何でも、お爺さんが大臣で、お父さんが病院長だって。彼ももう直ぐ、製薬会社の社長に就任するらしいわよ。あんな人の奥さんに成れたら、どんなにラッキーかしら。愛人でもいいわ。ま、もう沢山居るみたいだけどね。貴方も彼狙い? ライバル多いわよ」

「加瀬・・下の名前は?」

「え―と、確か拓三だったはず」

「加瀬拓三」

 五百蔵の心にヒビが入ってしまう。


 五百蔵は、クラブで見掛けた拓三の姿が脳裏に蘇ると、唇を噛み締めた。

「あの人は、もう姉の事なんて、すっかり忘れてしまっていて。だから悲しくて悔しくて・・」

「それ、拓三に尋ねたの?」

「聞かなくても分かります。あの人、お墓参りにも一度も来ない。お姉ちゃんのお葬式以来、私会ってないもの。お姉ちゃんの遺書を見せた時、あんなに取り乱していたのも、きっとお芝居だったんだわ。加瀬の人間だって、お姉ちゃんが盗みをしていたのをきっと知っていたはずなのに、理由を聞こうとも助けてやろうともしなかった。皆地獄に落ちたらいいのよ」

 五百蔵は、感情の高まりを抑えきれず声を荒げていまう。


 佐野は、そんな五百蔵を見つめながら、心の中で拓三に同情していた。

 拓三は、もう二十年近く経った今でも、まだあの日の自分を責め続けているからだ。渚沙を試すような事をした自分を。

「お姉さんの誕生日っていつだった?」

 気持ちを制するように呼吸を整えていた五百蔵は、可笑しな佐野の質問に怪訝な顔をした。

「6月です」

 そう告げると、ハッとする。そう、姉の誕生日が、明後日だと忘れていたのだ。

「拓三は、お姉さんを忘れた事なんて一度もないよ」

「でも」

 反論仕掛けたが、佐野の真剣な目に言葉を止めてしまう。そして、拓三について自分よりも確実に知っていると言った面持だったのだ。


【どうして、お姉ちゃんの誕生日を聞くのかしら?】

 五百蔵の心に確かめたい何かが浮かぶ。


 五百蔵は、梅雨明けが近いのか時折曇り色から顔を出す青空の下を、バケツと花束を持って墓地を歩いていた。日中の温度は、既に夏を思わせる日もあるが、朝はまだ比較的涼しく、この時期に姉の墓参りに訪れるのは初めてだった。

 墓地は、閑散としていた。彼岸も過ぎ、盆前に墓を参る家族は少ないのかもしれない。

 そんな事を考えながら、姉の墓近くに辿り着くと人影が見えた。

「どうして」

 全身から力の抜けた五百蔵は、手に持っていたバケツを地面に落としてしまう。

 墓前で両手を合わせていた拓三が、音のする方を見ると、呆然と立つ五百蔵の姿が瞳に映った。

「おはよう。お久し振りだね。壮太、否、佐野から聞いた?」

 そう尋ねると、『お節介だな』と言いたげな溜息を付いた。

「どうして、貴方がここに?」

「今日は、渚沙の誕生日でしょ? ケーキを一緒に食べようと思ってさ」

「こんな朝早くに」

「だって恥ずかしいだろう。大の男が一人墓地で、バースデーソングとかケーキ食べたりするの。朝早いと誰も居ないからさ」

「毎年来てたの?」

「ああ。渚沙はもう35だよ。死んだ人の年って数えたらダメらしいけどな」

「私は、貴方が姉の事なんか、とっくに忘れてしまっているって思ってた。だから、だから・・」

 五百蔵は、何かを後悔するような面持を見せる。


「あの事なら、別にいいよ。何とかなるから。それより、実際の所は、大田とかに何かされてないよな? そっちの方が心配」

「まぁ、セクハラ程度です」

「変なとこ触られたって事? あのエロ爺どもめ」

 拓三は、手に握り拳をつくると、口の中で何かブツブツと呟いた。


「拓三さん。ごめんなさい。私、貴方をクラブで見掛けた時、凄く腹が立って」

「クラブ? まぁ、俺にだってそんな時期があったよ。謝る事なんて何もない。そんな気持ちにさせてしまった俺の方が悪いからさ」

 朝の涼しい風が、二人の間を駆け抜けると、五百蔵の目から涙が零れ出した。


「お姉ちゃんの日記が出てきて・・」

 声を絞りながら、渚沙が書き綴っていた日記の存在を拓三に伝える。

「私のせいだったの。なのに、拓三さんを怨む事で自分の重荷を軽くしたかった」

 五百蔵が立つ地面にポツポツと涙雨が落ちた。

「拓三さんと付き合い出して、お姉ちゃんは恐喝されてた。でも、それが酷くなったのは、私が中学に入学してから。お姉ちゃんは、私を守るために必死だったの」

「俺も悪いんだ。犯人かもって疑ってたのなら試すんじゃなくて、ちゃんと聞いてあげるべきだったんだよ。一人で苦しんで、一人で解決して・・・・。あんなに一緒に居て分り合えたと思っていたから、寂しかったよ」

 そう告げると、身体を墓の前に向けた拓三は、目を閉じて悲しい表情をすると肩を落とした。

 それは、まだ脱ぎい切れない悲しさを抱え、まるで最近まで一緒に居た人を惜しむ姿。

 五百蔵は、涙で揺れる景色の向こうに拓三の辛さを垣間見ると、更に胸が苦しくなった。


「・・本当にごめんなさい。私、加瀬病院の院長にも、拓三さんの会社にも、全部正直に話ます」

「それは、大丈夫。週刊誌には俺の方から言っておくよ。彩ちゃんが気にしなくて良い。そんな事より身体を大切にしなきゃな。渚沙が心配する」

「拓三さん」

「こうやって、彩ちゃんと会えた機に、俺もそろそろ前へ歩き出そうかと思う。良いかな?」

「こんなに想って貰って、姉は絶対に嬉しかったと思います。それに、私と違って、拓三さんの幸せを祈っているはず」

 拓三は、墓石に再度向き合うと、手を合わせた。

「もう『さようなら』してもいいか?」


【さようなら、拓三】

 彼の問いに渚沙の声が空から降って来た気がした。


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