第22話 小さな気遣い
珍しく病院のロビーを歩く拓三の姿が夏樹の目に留まる。
「拓にぃ」
「おお、夏樹。今、休憩?」
「まぁそんな感じ。今晩当直だから。」
「お前、かっこいいよな。外科医の顔をしてるぞ」
「え? まじで? 拓にぃに褒められると嬉しいな。今日はどうしたの? 亮にぃとこ?」
「ああ、クレームを聞きにな」
「クレーム?」
「ちょっと美人MSさんの件でな」
そう告げた拓三の背後に嫌な影が落ちた気がして、夏樹は心配になった。
「拓にぃ、大丈夫?」
夏樹が拓三に向けた不安気な面持ちが遠い記憶を蘇らせる。
『たくぅにぃ、だいじょうぶ?』
拓三が高校生の頃、心身共に病み落ち込んでいた彼に小さな夏樹が、自身の心臓を押さえ息を切らしながらも、拓三に近寄ると声を掛けて来たのだ。
【あの時も、お前は同じ顔で俺を心配してくれたな】
「はぁ― 俺って本当に家族に愛されてるよな―」
「何だそれ、当り前じゃん」
夏樹の根底から自然に出るその言葉に、拓三は胸が熱くなった。そして、隣を歩く夏樹の肩を抱き寄せた。
夏樹は、外の空気を吸いたかったため、拓三と共に病院の西玄関の自動ドアを通り抜けると、梅雨の湿気を含んだ生暖かいビルの吹き降ろしが、夏樹達を包む。
「患者さんの玄関通るの久し振りだわ」
「亮にぃが、夏樹頑張ってるって言ってた。あんま無理すんなよ」
「外科の仕事めっちゃ楽しいから大丈夫。けど、有難う」
「おお」
「あ! 拓にぃ、流石社長だね~ 迎えに来てるよ」
「まぁな、運動不足になるから、たまには歩きたいんだけど時間が勿体ないし。じゃまたな」
「うん。またね。拓にぃお疲れ」
車が到着すると後部座席のドアを自分で開け、身体を乗り入れようとした拓三の動きが止る。そして、再び夏樹に振り向いた。
ちなみに、拓三は自身で車のドアを開けるのが好きなのだ。
「そうだ。夏樹、来月誕生日だよな。この間、母さんが集まるって張り切ってたぞ」
「聞いたよ。毎年、好きだよね」
「だな~ 俺は、そろそろ遠慮したい。結婚して落ち着くまでって、まるで罰ゲームだ」
「罰ゲームって、言えてる。アハハハ」
「何か欲しい物があれば言えよ。じゃあな」
「うん。有難う。絶対来月は会えるんだよね。楽しみにしてる」
夏樹は、車に乗り込むと直ぐに窓を開けて別れを告げる拓三に手を振った。
夏樹にとって、三人の兄は皆尊敬に値する人間で大好きだ。中でも、歳のまだ近い拓三は、ハンサムでキラキラとした存在なのだ。
「スーツ姿、かっこいいよな」
運転手付きの車で去って行く拓三を見送りながら、弟である事を嬉しく感じた。
夏樹は、病院から少し歩いて道路まで出ると、日が高くなった夕方の風に触れ、大きく深呼吸をした。
佐野は、病院の自室に戻ると、机の引き出しにある名刺入れから、五百蔵と書かれたのを取り出していた。
そして、暫くぼんやりと彼女の名刺を見つめた後、携帯電話の番号を確認すると自身の携帯から発信する。
「さてと、僕の電話なんかに出るかな?」
5回程呼び出し音が聞こえた後、受話器から女性の声が発せられた。
『はい、五百蔵です。珍しいですね。佐野先生からお電話を頂けるなんて。どう言う風の吹き回しですか?』
「お察しの通りだと思いますよ」
『・・どういう意味でしょうか?』
「雑誌記事の件と言えば分かりますか?」
『加瀬家の者に嫌な仕事を押しつけられたって事ですか?』
「否、そうじゃないよ。僕に興味があってね。何処かで会えないかな? 録音されても構わない場所がいいな」
『なるほど。全てをご存知って事ですね。佐野先生とお会いして、お話する事なんてありません』
「そうでしょうか? 加瀬の人達は、貴方のお姉さんの事と、関係があると思っていますよ」
『あの人達に私の気持ちなんて分かりません』
「だから、一度ちゃんと聞かせて貰えないですか? 貴方に、こんな事をさせてしまった原因をね」
電話の向こうは、繋がっているのか分からない程に数秒間無音になる。
『分かりました』
五百蔵は意を決したように静かに応えた。
来週会う事になり電話を切った佐野は大きく溜息をついた。そして、病院の自室の窓から見える街灯が、仕事開始とばかりに灯し出すのを、焦点が定まらない目で眺めた。
五百蔵は、佐野との待ち合わせ場所であるカフェに到着していた。
佐野に、医者は待ち合わせに遅刻する事が多々あると、先日の電話口で既に詫びを入れられていた。
ここのカフェは大型で、ファミリーレストランの様にボックス席が多数在り、商談などには打って付けの場所だ。そのためか比較的年齢層の高い常連客が多い。五百蔵も仕事でよくここを利用するのだ。
時刻は、夜8時を過ぎているため五百蔵はハーブティーを注文した。そして、運ばれて来たティーカップに口を付けようとした時、カフェ沿いの歩道を佐野が歩いているのが見えた。
五百蔵は、口に含んだハーブティーをゴクリと喉に通す。
「すみません。お待たせしました」
佐野は、きちんとアイロン掛けされた半袖ブルー系のシャツに、少し薄てのジャケットを腕に引っ掛け、茶色い革製の鞄が肩から下がっていた。
病院で見掛ける白衣姿とのギャップに、五百蔵は少し緊張する。
「あ、いえ。事前に遅れるかもと、仰っていたので、待ち合わせ時間兆度に来ました」
「そうなんだ。何飲んでるの? 良い香りだね」
佐野はミルクティーを注文すると、それが届くまでは、梅雨の話など他愛のない会話をする。
佐野が、前に置かれたティーカップにミルクを入れ、一口飲んだ後、五百蔵に真剣な面持ちを向けた。
「今日は、わざわざお時間を頂いて有難うございます」
「いえ、私もきちんとお話した方が良いと思いましたので」
「じゃあ、きちんと聞かせて貰えますか? 加瀬拓三さんに未だ恨みをお持ちなんですね?」
イキなり確信を付いて来た佐野に、五百蔵は一瞬苦い顔をする。
「その通りです。もう、二十年近くも経っているのは分かっています。だけど、私の姉はあんなに苦しんで死んだ。もう戻って来ない ・・なのに」
五百蔵は、テーブル上に組んだ手の中にあるハンカチを、強く握ると胸の内を話出した。
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