第19話 蘇った瞳

 雨が止んだせいか、いつの間にか傘の中が静かになっていた。しかし、夏樹の鼓動は、まるでスピーカーが取付けているかの様に、耳の奥まで鳴り響いていた。


「愁、仕事終わったの? お疲れ様」

 先程、春音の前に立ち塞がった夏樹の姿は、神木からだと春音の傘が邪魔をして見えない。

「うん。春は講演会の帰り?」

 神木は、春音の後ろに立つ誰かを確認するように、上半身を横に傾けた。

「あれ? 夏樹?」


【こんなに動揺するのは何故だ】

【自分の行動に後ろめたさが、あるからだろうか?】

【掴んだ腕 キス 繋いで手】

【あれは、全部冬也さんが】

 春音と神木との会話が遠くに聞こえながら、グルグルと思考を巡らせていると、自身の名が鼓膜に届き、咄嗟に俯いていた姿勢を正した。 

 夏樹は、傘をさしたままで、一歩横に移動する。


「神木先生。今、お帰りですか? お疲れ様です」

「うん。あれ? ちゃんと彼女の事を紹介していなかったけど、必要なさそうだね?」

「・・・・」

 夏樹が神木の質問に応じる前に、春音が口を挟む。

「ほら愁、お母さんが入院している時に、病院で何度かお見掛けして。あと、偶然帰り道に会ったりとか。今日も講演会でばったり。奇遇続きなの、ハ・・ハハハ」

 春音はいつもと変わらない態度で、神木に説明していた。その姿を横目で見ながら、夏樹の様に動揺していない彼女に対して少し嫌な感情が湧く。


【何で、胸がモヤモヤするんだ?】


「そっか」

 そう告げると、神木は手を翳し雨が止んだのを確認すると傘を閉じた。そして、止った皆の足を家へと前進させるように歩き出す。


「じゃ、夏樹、俺達こっちだから。また病院でな。お休み」

 神木は、仕事帰りの疲れた身体を少しでも早く休ませたいのだろう。無駄な会話をせず家路を急いだ。

「じゃあ、加瀬先生。今日はお疲れ様でした」

「あ、はい。お二人共お休みなさい」

 夏樹は、二人が並んで帰る後ろ姿を暫く見送ると、自身の家に足を向け歩き出した。

 春音は、別れ際『夏樹君』ではなく『加瀬先生』と呼んだ。

 彼女も意識をしているのだろうか? そう考えもう一度二人の姿を探した。

 そこには、決して誰も邪魔が出来ない空間が築かれ、繋がれた二人の手がそれを証明しているかの様だ。

 夏樹の全身を、例えられない負の気持ちが襲い、今までに得た事のない苛立ちを感じた。

【イライラする事なんてない。なのにどうして】


 神木はいつもの様に春音の手を取り、家路に向ったが、心中は少し穏やかではなかった。

「前に蟹とか夏樹から貰ったけど、あれって夏樹が家に持って来たん?」

「ううん。そう言ってくれたけど、悪いから私が、加瀬先生の家にまで、取りに行かせて貰った。どうして?」

 神木と春音の間に、少し澱み掛けた空気が流れているのを、春音は感じ取っていた。

 それは、これまで一度も二人の間には、起こらなかった事。

「夏樹の家、俺もまだ行った事ないなぁ」

「すっごい豪華マンション。あ、でもあそこのタワーマンションじゃなかった。一戸建てで育ったから、マンションって慣れないらしくて、それに高い所好きじゃないんだって」

 春音は話終わると、神木に微笑みを送った。

 その何気無い行動だが、神木の全身を槍で射ぬ様な衝撃が走る。


【え、どうして】

 神木がずっと取り戻したかったもの、それは春音の瞳に宿る魂。


 男の子二人が河原脇にあるグランドでサッカーをして遊んでいた。

 小学三年生になったばかりの冬也と愁だ。

「ちょっと休憩」

 冬也はそう告げると、芝生の上に倒れ込んだ。

「体力ないなぁ~」

 愁が、上から冬也の顔を覗き込んだ後、冬也と同じ様に彼の隣に倒れ込んだ。

 澄み渡った春の空は、どこまでも続き、流れる雲を二人の目が追う。


「俺、引っ越すんだ。お母さん違う人と結婚するんやって」

「え? まじで? どこに行くん?」

「すぐそこ。駅前にある病院の横みたい。だから小学校も変わらんし、今まで通り愁とは遊べるで」

「ほんなら良かった」

「あとさぁ、妹ってのが出来る。俺、お兄ちゃん」

「うわっ」

「めっちゃ可愛い子やった。色々あったみたいで、今は、すっげぇ暗い顔してるけど、ぜってぇ明るくしてやる」

 冬也は横を向くと、飛びっきりの笑顔を愁に向けた。これが冬也の初恋だったのだ。

 そんな冬也とは対照的に、愁の春音に対する第一印象は、『お化けみたい』であった。

 二つ年下で、当時小学校に入学したばかりの春音は、子供の愁から見ても生気がなく、まるで幽霊だった。口角や眉は動じても、春音の目は、輝きも色も無く、魂が抜けていて、愁に強い衝撃を与えた。

 だが、冬也だけは、そんな春音に根気よく寄り添い、暖かく見守り続けた。その結果、春音の凍り付いていた心も徐々に溶け始め、少しずつ笑顔を取り戻すようになっていく。


 ある寒い日曜日の朝、冬也は、満面の笑みを飛ばしながら、春音の手を取り、いつもの遊び場にやって来た。

「お―い、愁! 見てみぃ。この愛されているお兄ちゃんを」

 冬也は、手に持っていた紙袋を愁の胸辺りに突き付けた。

「何それ? あ、プレゼント?」

「そう」

 冬也は、紙袋から小さい包を2つ取り出す。

「この手作りクッキーが俺への誕生日プレゼント。でもって、このチョコがバレンタインデ―。どうだ! で、チョコは愁、お前にもあるみたいやで」

 冬也と繋がれていた手から離れると、小さな春音は手に持っていた包み紙を愁に手渡した。

「チョコあげる」

 この時、恥ずかし気に頬を染める春音の笑顔は、キラキラと輝いており、その瞳は魂を取り戻していたのだ。

 愁が、チョコレートを受け取ると、足早に冬也の元に戻った春音が、再び彼の手を掴む。すると、冬也が春音の頭を撫でた。

 冬也によって命を吹き返した春音の瞳。


 愁は、見えない糸で固く結ばれた二人の絆にゴクリと唾を飲んだ。

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