第4話 二匹の鹿2
谷川の浅瀬を渡ったところで雪が降り始めました。歩くほどに激しくなり、坂の上から川のように吹き降りてきます。幾度か、枯れ葉の上の雪に足を滑らせたサッダが、息を切らして立ちどまりました。
「山小屋まであとわずかだが、ちっとばかり休ませてくれ」
自分から言い出すなど、疲れは
ちょうど近くに大岩があり、ひさしのように平らな岩が寄りかかっていました。二人はその中に身を寄せました。
サッダは懐の油紙からいちびの
パチッ パチッ…
ほどなく朱色に揺れる炎が立ち上がりました。
二人は並んで膝を抱え、どちらともなく枯れ葉をくべました。かじかんだ体から疲れがとろとろと流れ出ていきます。渋い煙に目を細めながら、キドは魂を持った生き物のような炎を見つめていました。
ふと気づくと、目の前にまぶしいほどの光が差し込んでいました。その源には静かに
『ああ…観音様』
尊い微笑みを浮かべるその姿に、両手は祈るように重なっていました。
『キド、よくお聞きなさい』
言葉が光とともに体を貫きました。
『おまえは今、二匹の美しい獣と出会おうとしています。その内の一匹は、放たれた矢に命を投げ出すことでしょう。しかし、もう一匹は守らなければなりません。それは、おまえにとって、かけがえのないものとなるのですから。
そして 命果てた獣の骨を、手元に置いておきなさい。時が満ちた時、それで作るのです。それに、おまえの思いの全てが懸けられるようなものを』
キドは何もできず、何も考えられませんでした。観音様が遠ざかっていっても、しばらく心はしびれたままでした。
「キド、獲物じゃ」
押し殺したような声が聞こえました。
いつの間にか目の前の炎は消え、細い煙が白くたなびいていました。その先の暗闇に、光が流れていました。
金色に輝く二匹の鹿でした。親子でしょうか、一匹はあかがね色の斑点を残した子鹿でした。降りしきる雪の中に、二筋の光を伸ばしながら駆ける姿は、まるで神の使いのような美しさでした。
「お告げの通りだ」
つぶやきの横で、弓を握ったサッダが立ち上がりました。先ほどまでの疲れはどこへやら、その物腰はキドを背負っていた時のように力強いものでした。
二匹の鹿は、辺りの様子をうかがうように、いったん止まって首を伸ばし、また走り始めました。
金色の光を映し込んだサッダの瞳は、取り憑かれたように熱を帯びていました。引き絞られた弓は、大きくも小さくも揺れています。目まぐるしく流れを変える光の筋に狙いが定められないようです。が、やがて矢の先は、ゆったりと落ち着きました。
「いけない、子どもを射るなぞ!」
キドは
人の声に驚いた子鹿が立ち止まりました。
シュッ
その瞬間、矢が放たれましたが、大きな光が子鹿の前を横切りました。
ピーーー
長く悲しそうな鳴き声が続き、親鹿が倒れました。子を守るために我が身を矢の前に投げたのです。子鹿は、力むなしく脚を動かす親鹿のもとに駆けより、矢の刺さった胸元に首を垂れました。
間髪を容れずに、また弓のしなる音が聞こえました。矢は再び子鹿に向けられています。
「だめだ、サッダ!」
キドは叫びながら、サッダの足にしがみつきました。
「
矢が放たれましたが、今度ははずれました。子鹿は木々の間に光を残して消え去りました。
サッダは倒した鹿の元に駆けていきました。
「再び生まれてきた時は、より良き音に耳を傾けられよ」
小刀を鹿の胸に深く突き立て、狩りの習わしの通り、祈りの言葉を捧げました。
キドは雪の中に
観音様の言葉は真実となったのです。ですが、彼の心を激しく打ったのはそのことではありませんでした。
これまでどんな獣を射る時でも、サッダの瞳は冷静でした。難しい狩りの時ほど、静かに矢の先を見すえていたのです。ところが先ほどの瞳は、見たこともないような熱を帯び、あろうことか親子連れの子に矢を放ったのです。
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