みくトゥルース
怪異化の憂き目
「昨日発生した《伝染》の被害者は手元にある通りです。前回と同じく五十名に対して、同時刻に同種の怪異が発現しました。異なっていたことは、そうですね、殺意の在り様、害悪の及ぼし方がより顕著に発現していたことでしょう。美玖さんが捕らえた秋槻聰明という男、報告の通りであれば《伝染》の首謀者だと見做すこともできるでしょうが――」
それはおかしい、と続けられた。
「どういうこと?」
筒井崕ゆり子はティーカップを置き、静かに美玖へとファイルを滑らせた。
「秋槻聰明の解析結果です。彼の怪異譚の名は《神理創生》——新たな神の理を生み出すことです。何とも歪んだ神ですが、さておき、他者の怪異譚を喰らうことで己を改変し、唯一無二の怪異に至ろうとする。それを効率的に行うために人間の深層心理から怪異を引きずり出す。秋槻聰明は伝染の真似事くらいならやれたでしょう」
けれど、とゆり子は否定する。
「この程度の怪異譚では、五十人に一斉に怪異を宿らせることなど不可能です」
「……私が食べたことで弱体化した可能性は?」
「それも考えましたが、その程度の変化に惑わされるほど、わたくしどもは稚拙ではありません。これは揺るがしようのない事実、黒幕は別にいます」
ゆり子の言葉を吟味しながら、美玖は背もたれに体を預けた。
船内で交わした言葉はすべて覚えている。問いただすまでもなく、聰明はべらべらと自白してくれた。その言葉を斟酌すれば、聰明が黒幕となる図式がきれいに成立する。だが、気がかりが一つ。聰明は神の聲に従って行動していると語った。そして、神の聲をどう聴くのかと訊ねられ、夢の中だと答えた。
夢の中で語られ、誘われる。それはみづほの症状とあまりにも酷似している。
「——……神」
美玖はぽつりと呟く。
「秋槻聰明の行動原理はすべて神に基づいている。言い換えれば、彼は神の傀儡でしかない」
「神とやらが真の黒幕だとでも? どうにもオカルトじみてきましたね」
「怪異譚そのものがオカルトじゃない。都市伝説、口承文芸、風説に虚聞。根も葉もないことは言わずもがな、信憑性なんて皆無に等しい、存在してはならないもの。存在するはずのないもの。だとすれば、神というオカルトが存在してもおかしくはないでしょう?」
「……そうかもしれませんわね。ですが、怪異譚はどう取り繕ったところで根源は人間です。人間の心理です。末路がどうであれ、根源には実在性があります」
「だったら、神様も同じなんじゃない?」
怪異譚が人間を発端とするように、秋槻聰明の神もまた、人間を発端としているのではないか。それは《神》と呼ばれる怪異なのではないか。
「秋槻聰明の上位互換である怪異譚の持ち主が、神というヴェールを纏って彼に接触した。なるほど、そう考える方が妥当なのかもしれませんわね」
「問題は、それほど強大な怪異を、誰が持っているのかということになるけど」
ゆり子は思わず押し黙る。よもや気付いていないのだろうか。そうやって首を傾げる自分のすぐ隣に、それを可能とする怪異譚の持ち主が、常日頃から佇んでいることに。
(和宮真知、彼ならばあるいは……)
だが、それを告げたところで「真知に限ってそんなことはない」と美玖は否定するだろう。彼女が真知に寄せる感情は、信頼を通り越して偏執の域に達している。崇拝していると表しても過言ではない。自分を守り、自分と寄り添い、自分の道を照らし出してくれる人物だと、信じて疑っていない。和宮真知は誰かに危害を加えるような人間ではないと信じ切っている。
そして、それに関してはゆり子も同意見だった。たとえば彼の怪異が暴走したのだとして、怪異を管理下に置くことができず害悪を撒き散らすようになったのだとして、それならそうと分かる。彼女の眼は怪異譚の変質を見抜くのだから。少なくとも、初めの《伝染》が生じる前から一年間を見通しても、真知に変化は見られなかった。
そもそも彼にとってのメリット、彼の怪異譚にとっての整合性がない。和宮真知の怪異は美玖に依っており、美玖への感情が怪異譚発祥の引き鉄だとゆり子は分析している。その感情をどう呼ぶのかは本人にしか分からないけれど、真知が美玖に向ける眼差しの色合いから、彼女を傷付けることは望んでいないはずだ。
聞けば、聰明の捕縛にあたり、美玖は死にかけたようではないか。聰明の能力を見誤り、喰らうつもりが逆に喰われたそうではないか。
和宮真知が黒幕だったとして、美玖が危険に曝されているのはおかしい。
和宮真知が黒幕だったとして、美玖に情報が知らされていないのはおかしい。
付け加えて彼の怪異譚は変質などしておらず、正常に管理されているものだと認められる。以上の根拠より、彼を疑うことは妥当ではない。
そうやって納得したはずなのに、ゆり子の眼が疑義から解放されることはない。正面に座った美玖から目を逸らし、右隣の空席を見つめる。疑念を悟られないように冷静に努めながら、ティーカップをごまかしの意味で手に取り、ゆり子は切り出す。
「そういえば、今日は、和宮さんはどうされたのですか」
一瞬の揺らぎが生じたことを、ゆり子は見逃さない。
「ご一緒ではないなんて、珍しいこともあるのですね」
声音を尖らせる。追求から逃れるように美玖は顔を背け、観念したのか嘆息した。
「えぇ、そうね。あなたに隠したところでどうせ知られるのだから白状するわ。どうにも、具合が悪いらしいの。今朝からずっと臥せっているわ」
「あら、風邪でもひかれましたか」
「嫌味よね、それは。本心から言っているのだとすれば、あなたの器が知れる」
「そうですわね。風邪なんてものに煩わされるなら、怪異とは呼べませんものね」
「私の前でなら、まだいい。でも、それを面と向かって真知に言ったら許さない。喉笛を噛みちぎられても文句を言えないと、あなたなら理解できるわよね」
和宮真知が純粋な怪異であること、現実から否応なしに切り離された怪異でしかないことを彼に突き付けることを、美玖は嫌っている。目を逸らしたところで何も変わらないのに。それでも彼女は、せめて自分の隣だけでは、真知に人間として生きて欲しいと願っている。それがいくら不毛なのだとしても、報われない虚構なのだとしても、それだけは譲れない。
「えぇ、痛いほどに理解しておりますわ」
それなのに嫌味を言わずにはいられない。自分の性格に嫌気がさす。
「それではどうしたのですか。和宮さんに何か異変でもありましたか」
「……怪異を、《思考螺旋》を使いすぎたのよ」
みづほの事件から数えて、《伝染》に纏わる一連の事件の中で、真知は四度も《思考螺旋》を行使した。しかも一度は、学校の内部と近隣住民を含めた大規模な形で。
それは、普段からは考えられもしないほどに度の過ぎた行為だった。
「確かにこれまでの報告からすれば、和宮さんが《思考螺旋》を行使したことはほとんどなかったですわね。《等価交換》のみで片が付くほどの簡単な事件だったと考えることもできますがそうではない。美玖さんは、和宮さんに怪異を使ってもらいたくないのですね」
「そう…………その通りよ。我ながら心配性だと思うけれど、怪異を使えば使うほど、真知が変わってしまう気がしてならないの」
「それは気のせいなどではありません。怪異譚の蒐集と縫合をつかさどってきたわたくしから言わせて頂ければ、和宮さんは《思考螺旋》を行使するほど怪異に近付いていきますわ。以前、美玖さんはみづほさんに告げました。怪異に呑み込まれても自我を保っていられるなんて彼くらいのものだと。それは、特別なのではなく異常なのです。あり得てはならないのです。なぜならそれは、人間の心理が怪異を凌駕している状態なのですから」
ゆり子は目を細め、どこか遠くを見つめる。
「わたくしも、美玖さんも想像できるはずです。怪異が自分の裡に生じたとき、わたくしは抗えなかった。怪異に引きずられるままだった。怪異にかしずく他になかった。それほどまでに怪異の持つ呪詛とは強力なのです。けれど、わたくしどもと和宮さんの間には決定的な差があります。わたくしと美玖さんは生身の肉体を保有しています。生身の肉体、これほど怪異に抗う糧となるものはありません。この世界に対する実在性を保有していること、ただこの一点のみがわたくしの意識を保ち、怪異化の憂き目を和らげているのです」
「でも、真知には体がない」
「はい。紙一重で保ち続けている自我は、たった一度の怪異譚の行使で崩れ去ってもおかしくありません。そういう危うい状態で和宮さんは存在しているのです。楽観視などできるはずもありません。美玖さんが和宮さんに怪異を使わせたくないと願うのは、直感的にでもそのことを理解していたためでしょう」
「そう――なのかもね」
「はい、きっとそうなのでしょう」
「真知はいま、危ないのかな」
ふと、美玖の声音が掠れた。ゆり子は顔を上げ、美玖を見つめる。縫合された両目では何も見えなかったが、ゆり子の怪異は、涙ぐむ少女の姿を捉えていた。
(愛されているのですね、和宮さんは)
微笑ましさを胸に、大丈夫ですよ、と声をかける。
「わたくしから見ても、和宮さんに異変は訪れていませんでした。現在視の怪異が保証するのです、どうか安心してください」
「やっぱり覗き見してたんだ」
「あら、バレていましたか」
ゆり子は肩を竦め、怪異が収められている目を軽く撫でた。
「美玖さんが気にされるのでしたら、わたくしどもで和宮さんを一度診てみましょうか? 怪異化の憂き目を和らげる方法も徐々に分かってきています。商売相手とはいえ、これまでにも数え切れないくらい、あなた方には助けられてきました。今後ともよいお付き合いを続けていくためにも、力になれることでしたら、わたくしは喜んで致しますわ」
「そうね、ありがとう。お願いするわ」
「調査の方はどうしますか。和宮さんがそういった状態なのであれば、手を引いて頂いても構いません。こう言っては何ですが、腕の確かな人物には他にも心当たりがありますから」
「いいえ、続けるわ」
腕で擦ることで涙の跡をぼやかし、美玖は毅然と顔を上げる。
「これくらいのことでへこたれていたら、真知に怒られちゃう」
そう言って笑った美玖の貌を、ゆり子は忘れられそうになかった。
怪異譚の世界は希薄だ。どうしようもない現実に挫き、心を瓦解させ、それでも何かを願った人間達が集う。それがゆり子の生きる世界だ。陰陽でいえば陰に傾いだ世界に、清廉な絆なんて求められるはずがない。それなのに、美玖と真知は深い繋がりを築いている。
それは羨ましく、嫉妬を覚え、同時に守ってあげたいと思えるものだった。
(わたくしも困った性分ですわね。怖れるべき天敵に、親愛を抱いてしまうなんて……)
ゆり子に見送られ、美玖はCELIAへと帰る。《伝染》に関わる調査が空振りに終わったことは残念だったけれど、道行きが途絶えたわけではない。真知と一緒なら大丈夫だと思える。
「ただいま」
扉を開け、店内に入る。カウンターに姿はなかったので、まだ臥せっているのかもしれない。二階に上がり、真知の寝室を覗き込んだ。やるべきことはたくさんある、寝ている暇なんてないわよ、と伝えるために。
「真知!」
けれどそこには、もぬけの殻となった布団だけが残されていた。
「…………真知?」
いつも帰りを待ってくれていた人は、初めて、自分の前からいなくなった。
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