16:涙の沼地と満月の滝
薬草の丘で
丘からそれほど距離は離れておらず、しばらく馬車を走らせていると、水音が屋根を叩き始めるのがわかった。雨が降ってきたのだ。
それ以上は馬車が立ち入れないというところで、
前回呼んだ時とは違う御者だったが、こちらもやはり金さえ支払えば良いらしく、特に愛想はなかった。
馬車を下りた途端、肌に感じる湿度が明らかに高くなったのがわかる。
俺たちは
今回の外套は防水仕様になっていて、いわゆる
足元も防水仕様のロングブーツなので、沼地を歩き回ることも可能になっていた。密着するので、隙間から水が入り込む心配もない。
もちろん、どちらも魔法がかけられているがゆえの便利道具だ。
「さすがに花畑を想像してたわけじゃないけど、思った以上にジメっとしてるわね」
「雨は防げてもすっ転んだら泥まみれだからな。気ィつけろよ、チビ」
「うるさいわね! アンタこそ、そうなったら歩いて帰らせてやるわ」
グレイとシアが言い合いをしているが、確かに足元には気を付けた方が良さそうだ。
沼地の入り口は、兵士たちがいた地下洞窟のように、一帯が柵で囲まれている。立て看板には、『この先危険区域』と書かれていた。
雨はそれほど激しくないが、雨雲に覆われた沼地は、昼間だというのに薄暗い。
気温はさほど低くないはずなのだが、雨に打たれ続けることで、少なからず体温も奪われているような気がした。
柵を越えて進んでいくと、始めは少しぬかるんでいる程度だった地面の土が、徐々に柔らかさと粘度を増していく。
境目はわからなかったのだが、踏み込んだ足はいつの間にか、足首の辺りまで
本来はもう少しわかりやすいのだろうが、雨のせいで沼の中へ入り込んでいることに、気がつくのが遅れてしまった。
「コレ、冗談じゃなく転んだらヤバいかもな」
自分一人ならどうにかなるかもしれないが、俺の肩にはヨルが乗っている。間違っても転ぶことはできないと、緊張感が強まっていく。
沼はどのくらいの深さがあるのかわからないが、徐々に水面が腰の辺りまで上がってきていた。外套の中の服も防水仕様なので、濡れる心配をする必要はないのだが。
「……これ以上はマズイな。コシュカ、シア。ヨルと一緒に戻ってくれるか?」
「え、ですがそれでは……」
「二人は俺たちより身長が低いし、これ以上は危険だと思う。あと、ヨルが落ちたらそれこそ大変なことになるし」
「この沼地はそんなに広くない、三人いりゃあ十分だろ。オレも嬢ちゃんたちはその方がいいと思うぜ」
ギルドールの加勢と、ヨルの存在もあって、二人は渋々ながら来た道を引き返すことにする。
その背中を見送るのも心配だったが、人の身を案じているほど余裕があるわけでもない。
「うわ、足ハマった……! 店長、ちょい引っ張ってもらっていいスか?」
「いや、待って。俺もハマったかもしんない……」
「ったく、何やってんだお前さんたちは……」
幸いにも、ギルドールの言う通り、沼地は途方もない広さというわけではなかった。
歩きづらさで時間はかかったものの、ある程度隅々まで調べることができた。
死の森のような危険も無かったのだが、一人で入り込めば沼から動けなくなる危険性は十分にあるだろう。そう思えば、危険区域とされていることにも納得がいった。
「待っ、ギルドールさん! その引っ張り方はヤバ……っ!」
「バカ、おわッ!!?」
足がハマって動けなくなった俺とグレイの間に立つと、ギルドールはまとめて俺たちの腕を引っ張る。
しかし、力の強さとその角度が悪かったのだろう。
俺とグレイは引き抜かれた勢いのまま派手に転び、ギルドールはそれによって跳ねた泥を盛大に被ることとなった。
結果として、涙の沼地でも薬草は見つからなかった。
泥だらけの俺たちはシアに心底嫌な顔をされながら、多めに金を積んでどうにか馬車に乗せてもらい、町に戻る。
そうして散々な一日を終えた翌日、今度は満月の滝を目指して再び出発をした。
途中で眠ってしまいそうなほど長い道のりだったが、馬車は問題なく目的地へ到着する。
昨日は湿度の高い雨の中だったが、今日はそびえ立つ岩場を前に表情が険しくなる。
「ここって……登れるんですか?」
「一応な。わざわざ登る人間がいねえってだけで、登れないわけじゃないはずだ」
話に聞いてはいたが、満月の滝は、向かうまでがかなりの難所だった。
人を寄せ付けないように切り立った岩場は、ロッククライミングでもするのかというように、俺たちを拒絶している風に見える。
「コシュカはともかく……シアは厳しいんじゃないか?」
「何よ!? またアタシをのけ者にするつもり!?」
俺の心配をよそに当然シアは怒ったが、いくら大人びた性格をしていても彼女は子供だ。
それならば始めから連れてこなければ良かったのかもしれないが、シアは行動力がある。一人でこっそり着いてきたりする方が、かえって危なっかしい。
とはいえ、さすがにこの場所を一緒に登らせるわけにはいかないだろう。
その意見はギルドールも同じだったようで、俺の言葉に賛同してくれた。
「いや、今回お前は留守番だ。万が一怪我でもされちゃ、オレがどやされるんでな。つーことで坊主、子守りは頼んだぞ」
「ハ!? 何でオレが子守りなんだよ!? 保護者代わりだっつーならアンタが残るべきだろうが!」
「お前じゃ薬草見てもわからんだろ。それに、女だけでこんな場所に置いていけるか?」
グレイは不服そうだったが、ギルドールの言うことはもっともだ。
コシュカは俺より身軽なので心配いらないだろうが、そんな彼女とシアを二人で、この場所に置いていくわけにもいかない。
そうかといって、コシュカ一人を置いていくのは論外だろう。
何かあっても対処ができる男性陣が残るべきで、必然的に選択肢はグレイに絞られるのだ。
「頼むよ、グレイ。ヨルも置いていくから、二人を見ててくれないか?」
「クッ……店長がそう言うなら、今回は留守番してやります」
同じように不服そうな顔をする二人が、何だか面白い。俺はグレイにヨルを預けると、二人と一匹を置いて満月の滝へと向かうことにした。
岩場は確かに容易に移動することはできないが、
ただ、俺には雪山での前科もある。岩場から足を滑らせることのないよう、先を行くギルドールとコシュカの後を、慎重に追いかけた。
グローブをしていたので、手を怪我したりするようなことはなかった。
けれど、岩場を登るなんて初めての経験なのだ。さすがに握力が限界を訴えている。
「ヨウさん、あれが満月の滝みたいですね」
「ああ。何か由来があるのかと思ってたけど、本当に満月みたいな形をしてるんだな」
疲労しきった掌を握ったり開いたりしながら、俺はコシュカの声に頷いて目の前の景色を見上げる。
滝といえば、普通は重力に従って真っ直ぐに流れ落ちるもののはずだ。
しかし、今俺たちの目の前にある滝は、どういう力が作用しているのだろうか?
流れ落ちる滝の、丁度中央の辺り。そこの水だけが満月のように丸く広がっている、不思議な形をしていた。
「シアにも見せてやりたかったな。せめて、写真が撮れたら良かったんだけど」
「シャシンとは、何ですか?」
「えーと。今見てる景色をそのまま保存して、いつでも見られるようにできる機械、かな」
「へえ、お前さんが来た世界にはそんなモンがあんのか」
俺の説明に、ギルドールも興味深そうな反応を見せる。
俺からしてみれば、目の前の滝やこの世界の魔法などの方が、よほど珍しいものなのだが。
「とりあえず、俺たちは滝を見にきたわけじゃないし。手分けして薬草を探してみよう!」
岩場を越えた滝の周りは、普通に歩き回ることができる平らな地形になっていた。
ここから流れている水が、町の方へと繋がって、薬草の丘の傍にあった川にも流れついているらしい。
辿り着くまでが大変なので誰も近寄らないのだろうが、こんな場所を知ったら、特別な穴場になりそうだと思う。
(とはいえ、岩場から落ちたら大怪我だけど)
そんなことを考えながら、周囲を
沼地よりも生えている草や花の種類は多いようだったが、どれも特別な薬草には見えない。
時々不思議な形をしている草を見つけたりもしたが、ギルドールが首を縦に振ることはなかった。
「結局、ここも不発か……」
「めぼしい場所は探し尽くしたように思うのですが、地図に見落としがあるのかもしれませんね」
洞窟から始まって、森に沼地にこの滝まで、それなりに苦労をして探してきたつもりだ。
だからこそ、今度は見つけることができるのではないか。そんな期待が、知らず俺の中で膨らんでいたのかもしれない。
何の手がかりも掴めないまま、また振り出しに戻ってしまうことが悔しかった。
(みんなが、こんなに協力してくれてるっていうのに……)
伝説の薬草なんてものが、本当に存在しているのだろうか?
そんな風に思ってしまいそうになる自分を
「……待てよ。そういえば」
「ギルドールさん?」
滝に背を向けた俺たちの耳に、ギルドールの呟きが聞こえてくる。
彼は滝を見上げながら、自身の顎髭を撫でて何かを考えているようだった。
「由来があるのかと思った。そう言ってたな?」
「え? はい、言ったかもしれませんけど」
ギルドールの質問の意図が理解できないまま、俺はこの場所に来た時の自分の発言を思い返す。
確かに、そんなことを言ったような気はするのだが。それがどうしたというのだろうか?
「満月の滝。確か由来は、この形がもとになってるわけじゃあなかったはずだ」
収穫ゼロのまま帰ることになるのかと肩を落としていた俺だが、その言葉に一筋の希望を見出したような気がした。
ギルドールが思い出したのは、この滝の名前の由来についてだったのだ。
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