第5話 シルヴェスタの狼

 霜の降りた木立が宝石をぶら下げたように輝いているのが遠目にもはっきりと見える。

 他の森とは全く違う装い。濃い緑の塊に銀を散らしたような姿。それが"魔女の棲む森"シルヴェスタだ。ロードの眼には、木立の合間にぼんやりと、森の奥に隠された呪文の青白い輝きが見えている。


 冬にこの森に来るのは、二度目。前回は、森の奥にある"水晶の谷"――魔石の鉱脈を守る手伝いをした。その時と違っているのは、森へと至る道のあちこちが焼け焦げ、あるいは陥没し、戦闘の痕跡らしきものが残されていること。明らかに、この辺りも戦闘に巻き込まれている。森そのものに影響は見られず、戦火がきれいに森を避けているように見えるのは、さすがフィオが頑張ったといったところか。

 「良かった。森は無事みたいですね」

入り口にそびえる太い樹木を見上げて、ヒルデが呟く。

 「けど、まるっきり無事ってわけでもなさそうだな」

ロードは、森の入り口に近い一角のほうに視線をやった。

 木が切り倒され、新しく切り拓かれた場所に仮住まいがひしめきあっている。急場ごしらえの丸太の柵は防壁のつもりだろうか。細い煙が立ち上っている。


 近づいていくと、柵のあたりにいた子供がびくっとなって後すさる。怯えたように見開かれる黒い大きな瞳。着ている服は、ぼろ布を継ぎ合わせたような粗末なものだ。

 「ああっと…怖がらないでくれ。おれたちは、ここの魔女の友達だから。――お前たち、戦争から逃げてきたのか?」

子供は小さく頷くと、足元に落ちていた壊れた桶を抱えて大慌てで走り去っていく。

 そちらに視線をやると、木の枝や布を張り合わせて作ったような小屋が互いにもたれあうようにして建てられているのが見えた。


 その前で、数人の子供たちが森で拾ってきたらしい木の実を選別したり、石を打ち合わせて何か道具を作ろうとしていたりする。奇妙なことに、この仮ごしらえの村にいるのは十歳以下の子供たちばかりで、大人の姿はどこにもなかった。

 「どういうことだろう。この子たちの親はここにいないいのかな? フィオは――」

辺りを見回したとき、ふいに殺気だった気配を背後に感じた。

 振り返ると、粗末な小屋の一つから大きな黒い狼が這い出して来ようとしているのが見えた。低い唸り声。子供たちが何か叫びながらクモの子を散らすように走り出す。

 はっとして、ヒルデは腰の剣に手をかけようとする。

 「待って」

ロードは慌てて彼女を制した。狼の首の辺りに、小さな魔石の輝きが見える。それに、目の輝きは、明らかに獣のそれではない。

 「お前、魔法使いだな。それは変身の魔法か」

 「……。」

狼は低く頭を下げたまま、じりじりと間合いを計るようにロードたちの周囲を歩いている。殺気が弱まる気配はなく、気を抜いたらその瞬間に飛び掛ってくると思わせる気配だ。

 「おれたちは敵じゃない。フィオに会いに来たんだ。」

 「……。」

唸り声が続いている。

 「信用されてないみたいですよ」

と、ヒルデ。彼女は腰の剣に手をかけたままだ。

 「うーん…といっても、戦うのは…」

その時だ。

 「シグマ、だめっ」

どこか頭上から、少女の鋭い声が飛んだ。狼の動きが凍りつく。

 「お座り!」

ばっ、と反射的に居ずまいを正す。

 ぽかんとしている二人の前に、細い銀の杖に腰を下ろした少女が、杖とともにふわりと舞い降りてきた。

 「フィオ!」

ほっとして、ロードは笑顔になる。

 「久し振りね! ロード、それにヒルデも」

地面にぴょんと飛び降りると、森の主である少女はさっと手を振って、今まで乗り物代わりにしていた杖をブローチの形に戻した。大きな狼は、まだ固まったまま。散らばっていた子供たちが恐る恐る戻って来る。

 「皆、大丈夫だよ。この人たちはあたしの友達。いい魔法使いだからね」

子供たちに向かって言うと、フィオは、傍らの獣の頭をぽんぽんと叩いてロードたちのほうを向く。

 「この子はシグマ。ここの見張りをやってくれてるんだ。ほらシグマ、戻って挨拶して」

 「……。」

黒い姿が揺らぎ、ゆっくりと人の形に戻ってゆく。まだ馴れていないのだろうか、レヴィやハルのように変身を一瞬で解除することはできないらしい。

 魔法が解けて現われたのは、フィオより幾つか年下くらいに見える、痩せた少年の姿だった。拗ねたような切れ長の眼に焼け焦げの残る髪。むき出しの腕や足には小さな傷が無数に刻まれている。

 「その年で、変身の魔法を?」

 「うん、それしか使えないみたいなんだけどね。あと、ちょっと無口でねー」

フィオが首をかしげると、頭の脇でまとめた栗色のふわふわとした彼女の髪が兎の耳のように揺れる。

 「ロードたちが来たってことは、ハルさんに何か言われた?」

 「ああ、ここが手一杯って聞いたから手伝いに。状況を聞かせてほしい」

 「そだね。家にいこっか。じゃシグマ、あたしちょっと戻ってるから、何かあったら知らせに来てね」

少年は無言に頷いて、小屋のほうに戻っていく。

 まるで忠実な番犬だな、とロードは思った。

 気になるのは、彼の暗い眸だ。幼い心では耐え切れないほどの現実を目の当たりにしてきた者の、絶望に押しつぶされたような眸。子供まで戦場に駆り出されているという話、本当でなければいいと思っていたが、どうやら事実らしかった。




 木立の作る影に踏み込むと、その瞬間から空気が変わる。

 清涼な湿り気を含んだ風とともに、人を拒むような静けさが押し寄せてくる。足元には小路すらなく、ふかふかとした落ち葉があらゆる人の痕跡を覆い隠していた。

 そんな森のさらに奥深くに、魔女の家はある。ロードにとっては訪れ馴れた場所だが、初めてのヒルデは物珍しく、あちこち見回して感嘆の声を上げている。

 「さ、入って入って。最近ぜんぜん整理出来てないんだけどね。誰も来ないからいいかなってほったらかしだし」

入り口の階段を昇ろうとしていたロードの足が止まった。

 「誰も? 前は近所の村の子供とか遊びに来てたじゃないか」

 「あー…うん。あの子たちは…」

フィオの眸がわずかに翳った。

 「あの村ね、燃やされちゃったの。村人はみんな無事だよ。でも逃がすのに精一杯で、家が焼かれるのはどうしようもなくって」

 「…そうなのか」

森に隣接していた村まで戦火に巻き込まれているのか。

 だとすれば本当に、森が無事なのは、ほとんど奇跡的なことのように思えた。


 小屋の中はフィオが言うほど酷くはなかったが、確かに、どことなくほこりっぽい。干してあるハーブは色あせて、しばらく放置されたままのようになっている。

 「突然だったの、戦争が酷くなったのはここ半年くらい」

いつものお茶を出しながら、フィオは話してくれた。

 「森のすぐ側で、朝から晩までどっかーん! どっかーん! って。毎回、違うところの人たちで、おまけに次から次に出てくるのよ。学習能力無さすぎよ。脅かしたって全然意味なくって」

 「フィオのことだから、どうせ”脅かす”どころじゃなかったんだろ」

 「まーねー。あ、でも殺したりはしてないわよ」

さらりと物騒なことを言う。

 以前、一緒に魔石狙いの密輸業者を討伐に行った時のことを思い出して、ロードは軽く苦笑した。

 「それで? 今、森に避難しているのは、さっき見たあれだけなのか」

 「うん。そんなにいっぱい森に住まわせられないから、身寄りのある人とか自分で暮らしていける人たちは安全なところに送ったよ。ハルさんやレヴィの力も借りて。いま残ってるのは、家族も身寄りもなくて、一人じゃ暮らしていけないような小さい子だけ」

 「それでさっきの村には子供ばっかりだったんですね…」

ヒルデも納得したようだった。

 「レヴィは、最近ここへ来たのか」

 「うん。二日くらい前だったかな? 最後に残ってた人たちをノルデンの国境あたりまで逃がしてくれたの。すぐ帰っちゃったけど」

 「…何か言ってた?」

 「何か、って?」

 「”鴉”って呼ばれてる魔法使いのこととか」

フィオは目をぱちぱちさせた。

 「どうして知ってるの? それ。レヴィ、まだハルさんにも相談してないって」

 「嫌でも知ることになるよ。道中、色んな人たちがその話をしていた」

ということは、レヴィもフィオも、この件は認識しているのだ。

 ハルは知らない――当たり前だ。いくら千里眼の持ち主といっても、”視える”だけで、人の噂話はその場所に行かなければ聞こえない。

 「で、あいつどうするって?」

 「ハルさんに言って探してもらうって。なんか自分の偽物みたいでムカつくーって怒ってた。」

 「偽物…ねぇ…。」

ロードは、ティーカップを傾けた。


 フィオの家で出されるお茶は、相変わらず、独特の風味のあるハーブティーだ。小屋の前の畑で取れた薬草が入っているらしい。体によさそうな味ではあるが、どういう薬草が使われているのかロードにはさっぱり判らない。

 「…ああ、そうだ。もう一つ、大事な用があったんだ。フィオに伝言を預かってる」

 「伝言?」

 「ここに来る前にカールム・カレレムに寄った。シエラさんが、お前に相談したいことがあるって」

 「え、何? シエラが?」

フィオはテーブルの上に身を乗り出す。ロードは、シエラから聞いた話をかいつまんで話した。

 「…つまり、彼女がソランで暮らすに当たって、伴侶にどこまで秘密を話すか、ってことだな。」

 「うーん…。」

栗色の髪の少女は、難しい顔で腕組みをした。

 「うーーーん……。あのヤズミンって人、あたしびみょーに信用ならないのよねー…口は軽くなさそうだけど、なんかこう、頭良すぎっていうか、要領いいっていうかさー」

 「ああ、なんとなく判る。主人公補整がついてそうな人だよな」

 「だいたいああいう完璧すぎる人って、妙なとこでポカしてカマセになる系じゃない?」

 「…そうか?」

 「なんていうかー。絶対どっかでうっかり口滑らせるか何かしてピンチになるタイプだと思うのよ。あの人はー」

 「どうかなあ、確かに仲間になったとたん頼りなくなりそうには見えるけど、今のところ仲間じゃなくてそれなりに距離のある立場だし」

散々な評価に、ヒルデは、ぽかんとした顔で二人のやりとりを聞いている。

 「ええっと…つまりフィオさんとしては、あんまり本当のことを話して欲しくない…ってことですか?」

 「うん、正直ね。だけどこの森には魔石の鉱脈が隠れてる、静かに暮らしていくためによそ者はあまり招き入れたくない。…ってことにしとけば、納得はしてくれるんじゃない? 嘘はついてないわけだし。どうかな」

 「まあ、それでもいいとは思うよ。」

ロードは腕組みをしながら、そう答えた。

 「ソラン王国には魔石の鉱脈はない。この間もアステリアから輸入してたくらいだ。森を守るのが役目の魔女が警戒するのは、何も不思議じゃない」

 「そうですね。あとは…シエラさんがそれで我慢してくれるか、だけど…」

三人でそう話していたとき、小屋の扉が軽くノックされた。話し声が止むのと同時に、外から低く押し殺した小さな声が聞こえてきた。

 「魔女様」

椅子から飛び降りたフィオが駆け寄ってドアを開くと、入り口の前に、さっきのシグマという少年が立っていた。

 「新しい奴ら、来た」

 「えー? もぉお、ようやく片付いたばっかりだったていうのにー!」

フィオは頭を抱えている。

 「避難民?」

 「そ。あーあしょうがないかぁ、ほっとくと森の中まで入ってこられるしー。戻らないと」

お茶のカップを置いて、フィオは席を立った。

 「手伝うよ」

 「わたしも」

ロードたちも席を立つ。

 シグマは、一瞬だけ二人に目をやったが、すぐにその視線を足元に落としてしまった。どことなく、ロードたちとは距離を取りたがっているように思えた。単に見知らぬ人間に警戒心を抱いているだけなのか。

 或いは、魔法使いという存在に、忌避感を覚えているのかもしれなかった。




 三人が森の入り口まで戻った時、すでにその辺りには、戦火に追われた数十人の疲れ切った集団が集まってきていた。柵で囲まれた仮ごしらえの村の入り口に、家畜や子供の泣き声が響く。

 「止まって止まって! ここまでよ。森の奥に入っても迷うだけよ」

駆け出していったフィオが、大急ぎで集団を誘導する。

 「こっち。広場に来て! 全部で何人なの? あーもう、馬なんて連れてこないでよ。ここ飼い葉ないわよ」

 「あの子供が、シルヴェスタの魔女?」

馬を引いていた男が、驚いた様子で呟く。

 「そうだよ。ま、見た目はああだけど、見た目に誤魔化されないほうがいい。魔法使いってのは姿を変えることもある」

男は、じろりとロードのほうを見る。

 「あんたも、ここで厄介になってるのかい? この辺りの人間じゃなさそうだが」

 「おれは、…ちょっとした手伝いだよ」

 「じゃあまず治療からね! ケガしてる人、そこに並んで! 重傷の人からね」

フィオは、もう何度もこんな場面に遭遇してきたのだろう、手馴れた様子で人の群れを捌いている。

 避難してきた人々は、血の滲む額に布を巻いていたり、折れた腕を吊ったりしている者が何人もいる。それらを、フィオは治癒の魔法で手際よく治していく。

 「すごいですね、さすが賢…森の魔女」

 「ま、あの魔法覚えたの、ほんとはそんなに昔じゃないんだけどさ」

ロードは、二年前のことを思い出していた。

 彼女の魔法特性なら治癒の魔法との相性がいいはずだと、最初に見抜いたのはレヴィだった。それまでのフィオは、感情に任せて炎を撒き散らすくらいの使い方しか知らなかった。

 そしてあの頃はロードも、まさか自分に魔法が使える素質があるとは、思ってもいなかった。



 と、その時、柵のあたりで人と獣の悲鳴が上がった。

 振り返ると、馬の引いていた荷車の車輪が窪みにはまり込んで、動かなくなってしまったようだった。馬はとうにへとへとで、家財道具を山ほど積み込んだ重たい荷車を引っ張りあげるだけの力は残っていないようだ。

 大人たちが駆け寄って後ろから押し上げようとしているが、うまくいかない。

 「手伝うよ。ちょっと待ってて」

慌てて駆け寄ったロードは、人々に混じって荷車に手をかけながら、はたと気が付いた。

 (…これ、もしかして、浮かせられる…?)

いつも失敗する時は、動かす対象となる物体に直接手で触れていない時だけだ。逆に、直接触れている対象物なら、最近は思い通りに動かせるようになってきている。

 (試してみるか…)

 力を込めながら、荷車を持ち上げるところをイメージする。

 その途端、窪みにはまりこんでビクともしなかった車輪が空回りする音とともに宙に浮かんだ。

 ロードが片手で荷車を押し上げるのを見て、小さなどよめきが上がる。

 「あんたも魔法使いだったのか」

 「あーまあ…ちょっと使えるくらい。で、これ、どこまで持って行けば?」

巧くいったことにほっとしながら、ロードは、あたりを見回した。

 こんなふうに人に取り囲まれながら魔法を使うのも、見ず知らずの人たちに魔法使い扱いされるのも初めてだ。


 期待、恐れ、驚き、警戒。


 やはりここでも、"魔法使い"に対する感情はあまり良いものではない。

 だが、よく考えてみればアステリアやノルデンでだって、魔法使いに対するそれ以外の人々の感情は、実際はあまり違わない。「滅多にいない特権階級」、「信用のおけない変わった人々」。

 そもそも出くわすことが少ないから、敢えて口に出すことがないだけで。

 (そうか、…そうだよな)

今更のように、ロードは気がついた。

 滅多にいるはずのない魔法使いが、当たり前のようにあちこちの戦場に出ている今の状況は、明らかに異常事態なのだと。




 避難民たちの治療と収容が一通り終わったのは、もう日も暮れようとしてる頃のことだった。

 新しくやってきた住人たちのために仮ごしらえの家を増やし、森の奥に入らないよう言いくるめ、とりあえず何日か住まわせられるだけの準備を整えるので手一杯。

 やることは意外に多く、フィオだけでなくロードたちも、疲れてぐったりとしていた。


 初日の夜は大抵問題ごとが起きる、というフィオの言葉で、ロードたちも、森の奥のフィオの小屋には戻らず、森の入り口に建てたテントで夜を過ごすことにした。そこは少し地面が盛り上がり、小高くなっている場所で、森の入り口のあたりと、仮ごしらえの小さな村と、森の向こうに広がる平原とが一緒に見渡せる。

 フィオの話では、村の中の見張りは、シグマが引き受けているということだった。狼に変身すれば早く走れるから、伝令役としてもうってつけなのだという。


 色とりどりの布を結び合わせて作ったテントの天幕の下で、フィオは、焚き火のあかりに照らされた地面を棒でひっかいて、何かを計算している。

 「うーんどうしよっかなぁー、あの人数じゃ狭いし、食料足りないし…」

 「食料?」

 「そ、食料。さっきの人たちの荷物、見た? 食べるものなんて全然持って無かったでしょ。もう何日もごはん食べてないって言ってたし…」

そんなところには全く気づいていなかった。あんなに荷物を持っていたのに、食料でないとすれば、ぜんぶ家具や道具の類なのだろうか。

 「この森で採れる食べ物は? 木の実とか」

 「いま冬だよー、せめて秋に来てくれれば」

森の主は、ぷうっと頬を膨らませる。

 「うちの畑で野菜は作ってるけど、あたしの食べる分だけだもん。あーあ、レヴィが来た時に、塔の食料、もっと分けて貰うんだった」

 「うーん、あとは…あと手に入るものっていったら…狩りをする、とか」

 「それしかないかぁ~」

フィオはひとつ、溜息をついた。

 「でもあたし、鳥くらいしか取ったことなくて…。」

 「鹿とか兎ならなんとかなる」

と、ロード。腰のベルトからナイフを一本、引き抜く。

 「こいつで仕留める。影憑きと一緒だ。影が憑いてないぶん、むしろ倒しやすい」

 「さっすがー! じゃあさ、お願いできる? エモノ追うのにシグマ使っていいからさ。あの子なら足手まといにはならないし、ニオイで道がわかるから森で迷うこともないでしょ」

 「ずいぶん、あの子を信頼しているんですね」

と、ヒルデ。

 「いつ頃から、ここに?」

 「半年くらい前…かな。最初の頃に森に来たの。近くで大きな戦闘があったとき」

草の上に腰を下ろしてひざを抱えながら、フィオは、頭上の梢の向こうに広がってゆく夜の色を見上げた。

 「死んじゃうんじゃないかってくらいひどい怪我をして森の奥に倒れてたの。たぶん、水が飲みたかったんだと思うな。小川の近くだったから…。あわてて治癒の魔法かけて、なんとか命は取り留めて。最初はぜんっぜん喋らなかった。まだ体も治ってないのに逃げようとするし」

 「逃げようと?」

 「うん、魔法使いが怖いみたいだった」

 「自分も…魔法が使えるのに?」

言ってから、ヒルデははっとしたような顔になる。

 「もしかしてあの子、自分で意識せずに魔法を使ってたってことなんですか?」

 「そうみたい」

フィオは、ちょっと肩をすくめた。

 「戦闘に巻き込まれて、死ぬかもっていう気持ちになったときに生まれて初めて魔法を使ったんだと思う。それが変身の魔法だった。狼の姿になって精一杯逃げてきたのよ。最初は、自分の意志で変身したり元に戻ったりすることすら出来なかったんだから」

 「なるほど。文字通り、まだ駆け出し…ってことか。」

どおりで、妙に警戒したような眼差しだったわけだ。見知らぬよそ者には簡単に心を許さない。本当に、野生の獣のようだ。

 「聞いてもいいか。最近の西のほうの戦争じゃ、子供まで駆り出されてるって聞いた。あの子も、戦場に?」

 「本人は話したがらないけど、多分そうね。魔石を持ってたけど、誰かが意図的に渡したんじゃなきゃ持ってるはずないし、戦場のど真ん中にいたってことはそういうことなんだと思う」

 「ふうん…。てことは、魔法の才能はあってもまだまともに使えないような、ほんのひよっ子まで戦場に投入されてる、ってことだよな?」

 「そういうことになるわね」

 「そんなのおかしいです」

ヒルデは表情を歪める。

 「育てれば立派な戦力になる魔法の才能を持つ子供を、育てる前にわざわざ死なせるような真似、どうして…」

 「わかんないわよ、あたしだって。そもそも戦争してること自体がおかしくない?なんで、冬も近いこんな時期に戦争なんてバカバカしいことやるの? 畑を荒らしたら来年の食べ物が無くなるのに、なんで、畑を踏み荒らすの? わかんない」

 「わかんない、か…。」

同じだ。

 誰もかれも、「何故戦争をしているのか分からない」。

 でも、誰かが引き起こさなければ、戦おうとしなければ、そんなものは起こりえない。魔法使いがいるせいで戦争は終わらないのだ、と街道の酒場にいた用心棒は言っていたが、だとしたら、魔法使いを増やそうとしている”鴉”なる人物がこの事態の原因なのだろうか。


広い範囲を飛び回り、人々に怪しげな思想を吹き込んで魔石を配り歩く、謎の魔法使い。

 一体、――何者なのだろう。




 次の日、打ち合わせどおり、ロードはシグマを連れて森へ狩りに出ることになった。フィオとヒルデは留守番だ。フィオに連れられてきたシグマは、明らかに気が進まない様子で、上目遣いにちらちらとロードのほうを見ている。

 「じゃあロード、お願いね。シグマ、頑張るのよ。狩りの成功は、あんたにかかってるんだから。」

 「……。」

少年は、何も言わずに小さくうなづいた。

 「じゃあ、行って来る。」

 「よろしくねー」

女性陣と別れ、ロードは、無口な少年を後ろに従えて、シルヴェスタの深い森の中に踏み込んだ。


 ”創世の呪文”は、フィオの家のすぐ側に隠されている。

 その輝きが遠くに見えている間は、方向がわかるから迷うことは無い。だが、距離が遠くなるに連れて、次第に方向さえもあやふやになってくる。


 小川を飛び越え、太い倒木をよじ登り、腰まである下草を濃いで広場を横断する頃には、だんだん元来たのがどっちだったのか怪しくなってくる。

 「そういや前に来た時はフィオと一緒だったんだよなあ…」

足を止め、ロードは、空を振り仰いだ。

 空を飛べるならまだしも、そんなすべを持たない旅人にとってこの森は、まるで緑の迷宮だ。

 振り返ると、シグマも足を止めていた。ほとんど足音もたてず、同じ距離を保ったまま、ずっとついてきていたのだ。

 「疲れてないか?」

 「……。」

返事は無い。

 (さすがに、そう簡単に信用してはくれない…か)

苦笑して、ロードは再び歩き出す。

 「獲物の気配があったら、遠慮なく教えてくれよ。臭いでもいい」

 「……。」

鳥のさえずり、木の葉の落ちる音。耳を澄ませ、目をこらしながら、慎重に辺りを探る。

 狩りをするのは久し振りだ。故郷の村の近くで、猟師たちの手伝いで何度か山に入ったことはあったが、獲物を最初に見つけるのはいつも、腕利きの猟師たちのほうだった。


 人の住んでいる場所から遠ざかるにつれ、森の気配が濃くなっていく。

 動物が木の芽を食べた跡があることに気が付いて、ロードは足を止めた。糞もある。まだ新しい。

 どこかから、獣のような匂いがした。落ち葉を踏むようなかすかな音。

 顔を上げたとき、それと眼が合った。離れた木立の間からじっとこちらを見つめている、大きな鹿…


 反射的にロードはナイフを抜いた。

 鹿のほうは、弓矢を持っているわけでもない相手を侮っていたのかもしれない。跳ぶのが一瞬だけ遅れた。

 その一瞬で、ロードの手を離れたナイフは木立を掠めるようにして飛び、鹿の喉を切り裂いていた。

 「あっ」

後ろで、追いついてきたシグマが声を上げる。振り返らずに、ロードは、鹿がよろめきながら崩れ落ちたあたりを目指して走った。

 狙いは正確だった。

 鹿は痙攣しながら、首から流れ出した大きな血だまりの中に倒れている。

 ナイフを引き抜くと、生暖かい血が噴出して手をぬらした。今日の、一頭めの獲物だ。これで、手ぶらで帰らずに済む。


 ほっとしながら顔を上げたとき、木立の間から呆然とこちらを見つめている黒い目に気がついた。

 じいっとこちらを見つめ、逃げようともしない小さな鹿。まだ生まれてから一年も経っていない。おそらくは、今年生まれたばかりの小鹿だろう。

 「…子連れだったのか」

ロードが手を伸ばそうとしたとき、シグマが駆けつけてきた。

 「殺しちゃだめだ」

 「ん?」

 「そいつ、まだ…あの…」言葉が震える。「子供…だし」

 「けど、逃がせないんだよ。」

ロードは足元の、たったいま絶命したばかりの雌鹿を見下ろした。

 「生まれたての小鹿は、何があっても母親の側を離れない。ほっといたら何も出来ずに死ぬだけだ」

 「……。」

言いながらロードは、俯く少年の表情と、小鹿とを見比べる。シグマが何を考えているのかは、だいたい見当がついた。

 自分も子供の頃、はじめて狩りに付き合ったときは、同じようなことを考えていた。微かな罪悪感と戸惑い。何も子鹿まで殺すことはない、なんとかして命を救えないものか、と。

 ――無口だが、無表情なわけではない。この少年は…。

 「…助けるつもりがあるなら、連れて戻るしかないな。」

 「え?」

シグマが、上目遣いにロードを見上げた。

 「そいつを生かしたいんだろう? なら、お前が責任を持て」

雌鹿の大きな体を担ぎ上げながら、ロードはわざと突き放すように言った。

 「それが出来ないのなら、ここで母親と一緒に殺して食料にする」

 「……。」

シグマをその場に残して、ロードは木立の合間に鹿を担ぎ出した。首から血を抜き、腹を開いて食べられない内臓の部分を引っ張り出す。担いで帰る以上、余計な重量は少しでも減らしておきたいのだ。

 その間、少年のほうは逃げようとする小鹿をなんとか捕まえようと必死になって追いまわしている。小鹿のほうは、母鹿が解体されていく間、離れることも出来ず、かといって人間の手に掴まることも拒否しながら、木立の間を飛び回っていた。


 やがて、獲物の処理が終わった。

 軽くなった獲物の鹿の足を縛り終えたとき、ちょうどシグマが、小鹿の首を捕まえて戻ってくるところだった。ロードは、思わず笑みを浮かべた。

 「じゃあ、帰るか。」

 「……。」

シグマは何も言わず、子鹿の首に腕を回したままついてくる。ロードは何も聞かなかったし、その必要もないと思っていた。


 正しい選択か、やり通せるかなど今は分からない。

 確かなことは、彼が選んだのは、かつて自分が猟師たちに同じ選択を求められたとき、選ばなかったほうの選択肢だったということだ。

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