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 彼の遠慮を見てとったのか、瀧川は瞬時に退屈させられたような目になって、関係のない佐藤の顔をじっと見やった。

 その佐藤は笑って、わざとらしく福士の手元を見た。結局のところ福士がひとつきり取り上げてから礼を言ったので、ちらりと何か考えついたふうに奥の「そら豆」を眺めていた瀧川は即座に視線を戻し、あえて少々考えたうえで『バニラ』味だけを選び取る嫌味についてひとしきり講釈を垂れたあと、もはや遠慮など微塵もしていない福士に向かって、駄目押しで『チョコレート』と『キャラメル』味との二個を差し出した。


「べつに『ストロベリー』嫌いとかいうわけじゃないっスよ」


 彼女がごく数秒のうちに働かせた判断の機微に応ずるように福士が口にした、こんな如才ない台詞は、瀧川をしてその残りひと種類をまで彼に寄越させしめた。

 仁木田が、そのときようやく起き出してきたらしい「そら豆」を呼びに立ち、この彼女ら擁するいたいけな最下級生にも先だって福士が頂戴した『儀礼』をひととおり通過させたあと、いやしくも平時の「書道部」構成員である顔ぶれが集った状態で、部長である瀧川がおもむろに活動開始前のミーティング開始を宣した。


「今日からしばらくは七時半までやって大丈夫なんで、やりたい人は残ってやっててもいいでーす。みんなでやる片付けはいつも通り、基本六時半から始めまーす。

 そう、それからあと、大事な文化祭の話ね。……そら豆……じゃなかった、半田はんだちゃんも知ってるとは思うけど、うちは特に文化祭でもみんなの見てる前でおっきい半紙に書いたりする、いわゆるパフォーマンスはやりません。ご覧の通りだけど、そもそも人数が少なすぎて。まあ、とは言え五年くらい前まで……かなあ?まだ部員が多いときで十五人くらい、そう。結構いたときはやってたみたいだけどね。――まあいいや。でぇ、ここ最近に関しては毎年、教室借りて個人展示するのと、スタンプラリーだけやってます。とりあえずは今年もそういう感じでいこうと思うんですけどぉ、もし万が一なんか企画持ってるって人いたらここで教えてください」


「んーと特に異論なければいつも通りでいくんで、じゃあ……福士くんは去年のアレをまたお願いします。でも、まあ――前みたく、あんなに張り切って描いてくれなくても大丈夫だから。ともかく個人製作に支障出ない範囲でやってくれれば」


「じゃ、各自個人製作、文化祭は思ってるほどそんなに先でもないので、当日納得のいくもの仕上げられるように時間大事にね。頑張っていきましょう。ンじゃあ、今日の目標はぁ――純子じゅんこちゃんよろしく。…………はい、お願いしまぁす。」


 散開し、ちょうど普通教室における教卓にあたる、前方黒板の真正面に据えられた大机からおのおのが任意の枚数分だけ古新聞を持ち出してはその定位置に落ち着きはじめると、放課後の美術室は不意に何ともおうようない静けさに包まれた。

 皆が、あちらこちらで木製タイル貼りの寒々とした床にその手を突き膝を突き、都合四つん這いになるような格好のまま、……さんざ使い込まれた挙げ句その表面のあばた面のようになったすずりや、使われようが使われまいが常にかえすがえすも丁重に扱われる毛筆や、他方では……ある巧まれた書の作品が、半紙の上にその穂先が宿す挫折と勃興との不断に交錯する影を、あたかも生命の輪郭をなぞってゆくがごとく克明に溶け出させて見せる――といったまさに芸術上の一事件の起こりゆくかん終始して、とある抽象的な片隅で静かにその絶対的無垢をてらっている墨液容器……等、一介の書道部員として活動してゆくに必要最低限とも思われる彼ら自身による持参品と、部から貸出もされる布下敷や文鎮に水差し、加えて部費から毎月定期的に購入される半紙などといった七つ道具の類いを、これからすぐにでも取り掛かれようといった案配にまでてきぱきと順序よくお膳立てしていく様子は、中々にやぶさかでない見物みものであった。


 福士円久は壁際を選び、日ごろ彼が暗にその「定位置」の目印としている、床部にほど近い高さに据え付けられたコンセントプラグが間近に見える一区画に寄った。

 竜田は来ない。さきほど福士が、威嚇するじゃからほうぼうの体で逃げ帰ってでもきたかのような気色でこの部室へ飛び込んでから、これまで都合三十分以上が経過していたが、少なくとも現在のところ彼は自由であった。

 だが、このの自由は決して無頼を許さぬ。

 例えば、あるとき人が、その内部に長きにわたって小銭を山と貯め込んできた陶製の貯金箱をひと思いに破壊する決心を抱いたとしよう。彼がその時機を捉え、この生まれ落ちた時分よりまばたきすることを知らぬ無垢な子豚の上にの手近なトンカチを振り下ろさんとした際の、最初の一刹那――において、事もあろうに、当人にとってしてみたところで自らが一体全体どこでそんな仕草を覚えてきたかが判然としないような、あくまで由来不明の軽はずみな神妙さをたちどころに身に纏ってしまう場合があるが、福士がこのときその片手に携えた『古典臨書範』のうちひとつの見開きに、まさにそのどこか一辺にはなまじっかな穴は空きもしようといったほどに眺め入っていたどこかしら鬼気迫る感じの中にも、やはり悲しいかな――そういったある種の試供品じみた、お仕着せの「神妙さ」の秘めやかな躍動が、しかしそれとはっきりわかる形で窺えたのであった。


 


 薄曇りの窓硝子からは佳朋も登下校時よく利用するコンビニエンスストアのサイン看板が遠くに認められた。佳朋はその距離というひとつの可能性の表現が彼女に逆らいがたく想起させる、ある猟奇的な美文の気配におののき、ゆっくりとそのときやりかけた小さな欠伸を噛み殺した。

 はてさて何たる口車に乗せられてのことであったか、彼女自身にも今となっては皆目見当もつかない事態であったが、それにしても佳朋は今、そのぐるりからのほとんど単に品定め以上の意味合いを持つとさえ言える、いわば佳朋というひとつの佇まいの中からある鞏固きょうこな固定観念をさえ引き出しかねない強制力に晒されていた。それは「彼ら」からの視線であった。

 ものの数分前――階段の踊り場で出会い、そのどこかしらに見覚えのあるはずのわざとらしいほどに扁平な顔の、なぜか物欲しそうにも見えるどんぐり目を物言わずに見つめ返したのがいけなかった。あるいはそもそものはじめから、この日未希子とのくだんの約束の時間までに木偶でくの坊みたな空き時間を持っていたのがいけなかった。佳朋にはともかく仕様もなしにこちらからそれを尋ね、相手がその途端に「どっこい、あっぱれ」とでも言い出さんばかりの上ずった声で名乗った竜田諒という姓名にははっきりとした聞き覚えがあったが、この名前の印象にはただ醤油の瓶を倒してできたごく当たり前の醤油だまりのような無感動さだけがあって、要するに佳朋はこのとき彼をはじめて知ったのであった。

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