1.私がスパイになるまで
私の本当の名前はペリーヌ。苗字は無い。ただのペリーヌだ。普通庶民には苗字など無い。
そう。私は庶民の生まれだ。それはもうバリバリの庶民。ワクラ王国の北、海沿いの地方に生まれた。家は農家。それほど大きくも無い土地を一族で耕して暮らしていた。私は最終的には三男二女となった家庭の(もっと生まれているのだが5歳以上まで生きてたのがそれだけという意味)長女。
貧しいながらも家族が助け合って暮らすと言えば聞こえは良いが、つまりは朝から晩まで家の手伝いという生活だ。物心ついた時には既に働いていた。朝起きればまず水汲み、家畜の世話、朝食の後は畑に出て草取り合間にたい肥作り薪拾い。昼食など無く夕方にはまた家畜の世話、季節によって違うが糸を紡いだり保存食を作ったり服を繕ったり。晩飯を食べたらというより暗くなったらすぐ就寝。灯りが勿体ない。
そんな生活を続けてその内親戚の誰かと結婚してそのまま家を手伝い続けるのだろう。私は別に不満も無くそう思っていた。比較の対象が無ければ人間は現状に不満を抱かないものだ。そう、満12歳の年を迎えるまではそう思っていた。
その年、夏が涼しくしかも長雨で、家の農地は麦も芋も不作を極めた。収穫は普段の年の半分以下となり、領主様が慈悲深くも相当減額してくれたという年貢を払ったら、家族全員が冬ごもりする食料が無かった。
悩んだ親は、私に尋ねた。家を出てくれないか?と。
やせっぽちの少女だった私は確かに農家の働き手としては不足だった。それに12歳ならギリギリ自活出来るかもしれない。親もまだ小さな弟妹たちを死なせるのは不憫だと思ったのだろうし、私を人買いに売り飛ばすのも忍びないとも思ってくれたのだろう。私は考えた末、その提案を了承した。
そうして私の人生設計は根本から見直しを余儀なくされたのだった。
私は歩いたり荷馬車に乗せて貰ったりしながら旅をして王都に出た。道中特に何事も起こらなかったのは運が良かったのだろう。当てのない少女の一人旅など今考えると危険過ぎる。騙されて売り飛ばされたり、山賊に襲われたり、単に野垂れ死んで獣に喰われても何の不思議も無かった。秋の収穫が終わってすぐに旅立ったのも良かったのだ。その冬、私が着いた後に王都には食い詰めた農民が押し寄せて大変な事になったらしいのだから。ちなみに私の家族だが、冷害はこの年で終わらず数年続いてしまったので、おそらくもう誰も生きてはいないだろうと思われる。
更に非常に運が良い事に私は王都ですぐに仕事を見つけることも出来た。小さな商店の下働きだ。一人何役もこなさなければならない激務で寝る暇も碌に無いからベッドすら与えられなかったが、最悪身売りを覚悟していた身としては文句など言えなかった。
その仕事を半年。伝が出来てもう少し大きな商店のちゃんとベッドのある少しマシな職場に移る。そしてそこで一年。今度は貴族の御屋敷の下働きに転職だ。相部屋とはいえドアのある部屋に入れた。夢のようだった。
そして15歳の誕生日が過ぎてすぐ、私は兵部省というお役所の下働きに転職した。今度は以前に仕事を一緒にしていた先輩からのスカウトだった。
なにせ、お役所である。国の中心である。待遇は流石だった。凄い事に週に一度休みがある。更に凄い事に食事休憩がある。もっと凄い事に部屋は個室だった。お給金もちょろまかされずに満額手元まで来た。お仕着せの着替えまで支給。お役所万歳。さすが公務員。私は快哉を叫び一生ここの職場にしがみ付くのだと心に決めた。
兵部省での仕事も要するに何でも屋で、掃除洗濯、たまに炊事、たまに郵便を届けたり伝言を受け賜ったり、お貴族様が来れば給仕の真似事もした。いろんな仕事をするので覚えるのには気を使ったが、人数にも余裕があるし長年いる先輩も多かったから仕事に苦労することは無かった。というより王都に来てすぐに働いていた商店の立って眠る生活と比較したら楽で仕方が無かった。
そんな極楽お役所生活を送って半年くらい経った頃。その話は突然やってきた。
ある日、使用人頭に呼び出された。名指しというわけでは無く、歳の頃15歳前後の少女の使用人がまとめて呼び出された。私たちは何事かと首を傾げながら会議室の一つに集まった。入って来たのは軍服を着たお貴族様が数人。貴族と平民では軍服の色が違うのですぐ分かる。
彼らは無遠慮に私たちをジロジロ眺め回した。お貴族様に逆らうと色々大変だ。私たちは畏まって下を向いていた。やがて一人が言う。
「彼女が良かろう。私と髪の色が似ている」
そのお貴族様が指差したのは私。うん。何度指先を辿っても私だった。は?髪の色?確かにそのお貴族様の髪は赤茶色。私はもっと赤に近い茶色。似ていると言えば似ているがそれがなんなの?
私が?マークを飛ばしている間に私以外の使用人はみんな退室させられ、私一人が残された。お貴族様が数人の前に一人佇む私。え?何?どういう事?
その部屋にあった応接セットにお貴族様たちが座り、なぜか私も席を勧められる。いや、その、お貴族様と同じ席になんか着いたら女性使用人頭に叱られるよ。私は躊躇したがお貴族様に逆らうのはそれはそれで大問題になるので、えいやと決心して柔らかなソファーに座る。
運ばれてきたお茶を飲むお貴族様。なんと私の前にもお茶が出た。運んで来た下働きの少女は私と目を合わせると「どういう事なの?」と視線で聞いてきた。知らんがな。私は小さく首を振った。
お茶など飲む気になれないまま正面に座った40歳くらいと思われるお貴族様を見る。がっちりした体格で口ひげを生やしている。髪はさっき言ったように茶色濃いめの赤茶。彼はカップを置くとおもむろに切り出した。
「君には、スパイになってもらいたい」
そんな事いきなり言われても訳が分からない。とりあえず最初にスパイって何よ?ってところから分からない。私が何もかもを理解していないことはすぐに分かったのだろう。お貴族様は懇切丁寧に説明してくれた。
お貴族様の名前はモラード男爵。軍人で大尉だという。うん、ダンシャクでタイイととりあえず分からないなりに覚えておく。とりあえず偉い人。私にはそれで十分な筈。だよね?
モラード男爵曰く、これから戦争が始まるのだという。ほうほう。そうですか。それは大変ですね。軍人さんは。あ、私も兵部省の下働きなんだもの。戦争が始まると忙しくなるのかしら?
「あの忌々しいカストラール帝国。あの国が我が国を狙っている内は、わが王国は枕を高くして寝られない。何としても一戦して敵の野望を挫き、我が国に安寧を齎せなければならん」
カストラール帝国って何だろうね?分からないなりに覚えながら聞く。男爵の演説に口を差し挟むような事はしない。
「そのために我が軍は作戦を立てた。君に詳しく教えてやるわけにはいかんが、必勝の策だ」
そんな事聞きたくも無いから愛想笑いを浮かべつつほうほうと頷く。早く本題に入ってくれないかなぁ、などとはおくびにも出してはならない。お貴族様は怖いのだ。
「しかしながら、戦は常に不確定な物。勝利を確定的にするには情報が必要だ。そこで我々は情報収集のためにカストラール帝国に潜入する計画を立てた・・・」
そこから男爵様が長々語った事を要約するとこういう事だった。
つまり戦争の前にカストラール帝国の詳しい情報が欲しい。しかも出来れば帝国の上層部や軍の高位高官から詳しい情報が欲しい。しかしながらワクラ王国はカストラール帝国に伝が全く無く、情報は全くと言って良いほど無い。
そこで帝国にスパイ集団を潜入させようと企んだという訳である。スパイと言ったって庶民を入国させても帝国の貴族の情報が取れないので意味が無い。本来は時間を掛けて貴族の使用人などに潜り込ませるのだが短期間では無理。そこで男爵が考えたのが「貴族商人を装って商品を売り込む振りをして入国し、帝国貴族と誼を結んで情報を得る」というものだった。
そのためにモラード男爵は島国フレブラント王国から来た隊商からありとあらゆる商品を丸ごと購入した上で口止めしたのだという。その商品を持ってカストラール帝国に入国し、フレブラント王国貴族シュトラウス男爵を名乗って帝国の貴族界に乗り込む計画を立てていたのだった。
ほうほう。と私は聞きながら、傾げた首が戻らずにいた。男爵の計画は分からないなりに覚えたし、なんとなく分かった。しかしながら、そのスパイ計画とやらのどこに私が関わってくるのかが全然見えてこないのだ。話し終えた男爵は満足そうにお茶を飲んでるので、私は仕方なく、そっと手を上げた。
「質問をよろしいですか?」
「何かな?」
「それで私は何をしたらよろしいのでしょう?」
男爵は目を丸くし、苦笑した。
「いや、すまんすまん。君はなかなか聞き上手だ。つい色んな事を話してしまったからすっかり依頼が済んだと思っていたよ」
私、頷いて聞いてただけですけどね。
「私は今回の作戦で出来るだけ多くの情報を得たい。なので私だけでは無く、私の家族も帝国を訪れて家族で帝国の貴族界で情報収集をしてもらいたいと思っているのだ」
貴族の社交とは家族ぐるみの交流である事が多い。らしい。故に男爵だけでは不足で、奥方、息子、娘を伴いたいらしい。そうですか。
「だが、残念だが私の妻には反対されてしまい、妻は同行してくれない。それに息子はまだ5歳だし、娘はそもそもいないのだ」
奥様冷たいな。まぁ、いわば敵地に乗り込むのだ。常識ある貴族女性なら嫌がるか。
「そこで代役を使う事にした。妻役と息子役は軍からめぼしい人材を選んで了承してもらった。問題は娘役だ」
王国の常備軍は一千名程度と人数が少なく、しかもほとんどが男性だ。女性は少なく若い女性は更に少ないらしい。しかもその数少ない若い女性は全員貴族のご令嬢で、仕事歴の拍付けや婚活の一環として軍に名前を入れているだけという状態。そんなご令嬢に敵地への潜入などどう考えてもやらせられず、打診してもあっさり断られたらしい。
「そこで仕方なくこの兵部省の使用人の中から選ぼうという話になったわけだ」
ようやく話が繋がった。つまり男爵の娘役だから髪の色が似ている私が選ばれたらしい。なるほど。・・・いや、ちょっと待って。
「え、と、今のお話では貴族として帝国に行くというお話でしたよね」
「そうだ」
「連れて行くには貴族で無ければまずいのでは?私は庶民ですよ?」
元農民、今使用人。教養お作法なんなら読み書き何にも知りませんよ?その私が貴族を騙る?秒で見破られるでしょう。
「分かっておる。しかし他に人材がいない。この任務は極秘なのだ。兵部省の外には話を広げられぬ」
「しかし庶民の娘だとばれたら一行すべての方に危険が及ぶのでは?」
「当然だな。ばれぬよう、任務の前に教育を受けてもらう」
「教育ですか?」
「そうだ。一見貴族令嬢に見えるようになる程度に作法や立ち振る舞い、言葉遣いなどの教育を受けてもらう」
「どのくらいの期間学べるのでしょう?」
「長くて半月。それ以上は任務に支障が出る」
・・・たった半月の教育で貴族女性を完璧に演じないと命が無いという事ですね。はい、無茶振り来ましたよ。ここまでの人生でそれなりに無茶振りには慣れているとはいえ、過去最大級の無茶振りじゃないでしょうか。自分だけでなく他の一行の命、何ならワクラ王国の命運まで懸ってる気がするのですが気のせいでしょうか?
「その、お断りすることは出来るのですか?」
「ここまで話してそんな事が許されるとでも?」
男爵はむしろ面白そうに片眉を上げて言った。ですよね~。良くて失職、普通に考えて口封じですよ。選ばれた時点で詰んでたんですよ。私は内心頭を抱えてうが~っと叫びながら、愛想笑いをにこっと浮かべた。
「分かりました。やらせて頂きます」
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