第二話 懐かしい声
1
成宮綾乃は、シャワーを浴びるとベッドに倒れ込んだ。夕食を取っていないことに気が付いたが、数時間もすれば起きなければならないのだ。諦めて眠ろうとするが、唇の痛みがそれを妨げていた。
眠った記憶のないまま、ベッドからは、なんとか這い出ることが出来た。朝はまだ明け切っていないが、使命感からか身体が自然に動き出す。熱いシャワーを浴び、髪を洗うと気持ちもリセットされる。洗いたての下着をつけることも、必須条件である。一日分のエネルギーを満タンにするように、朝食をしっかりと取った。
特に生ハムとチーズと熱いコーヒーは、欠かせないものなのだ。
クリーニングしたての白いシャツと新しいセルッティのスーツに腕を通す。黒革のトートバックの中身をすべてテーブルの上に並べてみる。昨日の携帯ポットの蓋もしっかりと絞められていて漏れ出た様子もない。綺麗に磨かれたローヒールを履き、ドアを閉める前に玄関に備え付けてある鏡に全身を写して見る。そこには、間違いなく颯爽とした女刑事 成宮綾乃が立っていた。
マンションの地下駐車場から、『MAZDA6』を引き出すと、早朝の街を抜ける。
6時前にはマンションを出発しないと、出勤渋滞に巻き込まれる恐れがあるのだ。横浜新道は、空いていた。7時15分過ぎには、普段通り加賀町署の玄関前駐車場に着くことが出来た。こうして新たな一日が始まって行く・・・。
「おはようございます! 成宮警部補」
「おはよう! 古畑巡査部長」
刑事課強行犯係の中でもこの二人は、常に出勤が早いのだ。
「警部補、どうしたのですか、その唇?」
「また、いつものように酔っぱらって、どこかにぶつけたみたいね…」
「気をつけてくださいよ、いくら武道に自信があるからって・・・」
「はい、承知しております。…それより、これ至急分析してもらってくれない」
綾乃は、携帯ポットを古畑に渡した。
「何ですか、これは?」
「多分、『MDMA』が入っていると思うの…」
「なんで、また?」
「バーテンダーが、私にちょっかいを出そうとして、グラスに入れたんだと思うわ」
「無理やり飲まされたという訳ですか?」
「ちょっと、味見してみただけだから…、通称『エクスタシー』で間違いないと思うわ。少し、苦く感じたのと、何となくエッチな気分になったから、セロトニン効果が出たのは確かね」
「警部補でも、そんな気分になることが・・・」
「当たり前でしょ。私もまだ現役なんだから…。それより早く調べて!」
「・・・了解です」
「…うちで調べるより、県警の『科捜研』の方が早いと思うわ。持って行ってくれるかな?」
「再び、了解です!」
「私は、頼まれていた身元不明者の件を調べるから…」
「『行方不明者』ではなくてですか?」
「そう、捜査関係者らしいから、『身元不明者』を調べた方が早いような気がして」
綾乃は、警視庁の『身元不明者情報ページ』を開くと、神奈川県限定で調べることにした。重要な身体的特徴を書き入れると、やはりヒットするものが一体あった。
発見場所は、大桟橋、発見日は昨日である。『貫通射創痕』のある身元不明者など、
滅多にあることではない。綾乃は、直ちに横浜水上警察署刑事課に連絡を入れた。
2
「課長ですか? 加賀町署の成宮です。昨日水上署が扱ったガイシャに心当たりがありまして、確認のためこれから伺いたいのですが?」
「それは本当ですか? 成宮・・? ああ、昨夜、交番員に名刺を渡された? 喧嘩の仲裁に入られたと聞いておりますが、なにかそのことと関係が・・・?」
「いえ、それは、まだ何とも…」
「分かりました。では、お待ちしております」
刑事一課長五木寛高は、思いがけなく入って来た情報に期待感を膨らませると、課員全員に待機を命じた。
10分も経たず『MAZDA6』が水上署に滑り込むと、数人の捜査官が出迎えた。
「あっ、警部補、ご苦労様です」女性警察官と認識した中の一人が挨拶をする。
運転席から降りる綾乃の長い脚に、思わず見とれている。綾乃には、スカートの裾を気にする様子も見えない。男達のこのような視線には、慣れているのだ。
捜査本部は、二階の会議室であった。正面のスクリーンには、身元不明者の情報が、すべてスクリーンに映し出されていた。
「成宮警部補の持っている情報とは、何ですか?」
挨拶もそこそこに、五木課長は切り出した。
「これですが……」
綾乃は、麗香から聞き出した川端直樹の身体的特徴の記載された『行方不明者
届』を五木に見せた。スクリーンには、すでに身体的特徴である『貫通射創痕』が大きく映し出されている。
「う~ん、全てが一致してますね。まず仏さんで間違いないでしょう。後は、身内の対面確認と、DNA鑑定で決まりという事で・・・」
「……残念だわ、でも、これが事実なのね」
「警部補、残念とは、どういう意味なんですか?」
「届出人からすれば、生きていて欲しいと思うのが普通の感情ではないですか?
それが、絶望に変わったのですから…」
綾乃は珍しく、感情をあらわにした。麗香の嘆き悲しむ顔が浮かんでいたのだ。
「警部補、至急身内の方に連絡を取って頂けないですか。ガイシャの特定を急ぎたいので・・・」
「課長、その前に死因は何なのですか?」
他殺となれば、大きな事件である。事件の究明と、犯人の逮捕が必須となるのだ。
「両手首に残る結束バンド痕からして、殺人か自殺の幇助ですかね。死因は、それ以外の外傷がないことから、やはり水死という事で・・・。でも、この事件の究明はこちらに任せて下さい。うちが所轄でもありますので・・・」
「犯人に目星の方は?」
「いや、まだ何とも検討が・・・」
「五木課長、私も捜査に加わってよろしいですか? 身元の割り出しは、私たち加賀町署の協力がなければ、早期には判明しなかったはずですから…」
「う~ん、仕方ありませんね。でも、水上犯罪には、うちは強いですからね。あなたのお手並み拝見といったところでしょうか」
「分かりました。その挑戦。お受けしますわ。でも司法解剖の方はしっかりとお願いします。どんな証拠が見つかるか分かりませんので…」
「もちろんです」五木は、きっぱりと言い切った。
綾乃は、川端直樹が捜査関係者であることを、あえて秘匿した。潜入捜査であった場合、その情報が警察関係者に公開されることなどあり得ないのである。しかし、綾乃には、野島耕介という隠し玉があった。
加賀町署に戻ると、麗香に悲しい現実を知らせる仕事が待っていた。戸惑う指で、麗香の携帯の番号を押した。
「…麗香さん、昨日はどうも…、無事に帰れたかしら…?」
「成宮警部補ですか? 昨日はありがとうございました。それで…直樹は、見つかりそうで…」
「ええ、直樹さんは…、見つかったわ……」
「良かった! それで直樹は、いま何処に……」
「残念だけど………」
「えっ、嘘でしょ? 嘘ですよね? 刑事さん………」
麗香の泣き叫ぶ声が聴こえてくる。何度経験しようと、辛い知らせに慣れることは
ないのだ。綾乃の眼にも涙が浮かぶ。
「…麗香さん、辛いでしょうけど、直樹さんに会ってあげてね。それと、DNA鑑定のために、直樹さんが使っていたものも必要よ。場所は、大桟橋の入り口にある水上警察署だからすぐわかると思うわ。私が何としてでも、犯人を捜し出して処罰してあげるから…、いいわね」
「………はい、………お願い…します」
かすかな携帯越しの声であったが、決意が聞こえて来た。今は、現実を受け入れ、時間に身を任すしか悲しみを癒す方法などないのだ。
3
綾乃の電話が終わったのと同時に、古畑巡査部長が県警の『科捜研』から戻った。
「警部補、只今戻りました」
「ご苦労様。…で、どうだったの?」
「かなり量が少なかったので、苦労したようでしたが、やはり『合成麻薬』で間違いそうです。それもかなり純度の低いもので・・・」
古畑は、分析データ表を綾乃に見せた。
「…それだけ、混ざり物が多く危険度が高くなるっていう事ね。『MDMA』は手に入りやすいから、『クラブ』なんかで若者の間に広がっているのが現状だし…」
「警部補、何処で手に入れたか知れませんが、県警の組対部に任せた方が・・・」
「私は、末端の小物を捕まえるのが目的ではないの…、何時かは役に立つかも知れないと思って調べてもらったのよ。ともかくありがとう。助かったわ。しばらく、水上署との合同捜査にあたるけど、いいわね」
「はい、今のところ大きな事件は起きていませんので・・・、了解です」
12時を過ぎていたが、綾乃は思い切って電話を掛けた。鼓動が少し速くなる。
「はい、『みなと探偵事務所』です…」
明るい女性の声である。この女性が、パートナーの渡邊亜里沙なのだろと、綾乃は、思った。
「…私、加賀町署の成宮ですが……」
「…成宮さんですか? じゃあ、麗香から電話が行ったんですね?」
物怖じしない性格のようだ。戸惑う気持ちが薄らいでいく。
「ええ、その件で、野島さんにお話が……」
「お、お待ちください。所長、加賀町署の成宮さんから……」
「え、何だって! 本当か・・・」
野島の慌てた様子が携帯越しに伝わってくる。
「所長、何その慌て方、まるで昔の恋人に会ったみたいじゃない?」
仲の良さが伝わってくると、綾乃は少し余裕が生まれたようである。
「・・・野島です」
「成宮です……」
綾乃にとっては、6年ぶりの懐かしい声であった。なぜか、熱いものがこみ上げてくる。野島耕介の部下として過ごした4年間は、決して忘れることの出来ない貴重な記憶なのである。
「元気そうだな・・・」
「ええ、何とか元気に……」
「川端君のことで、何か分かったのかな?」
「…、麗香さんには、今残念なお知らせをしたところですけど…」
「・・・そうか、それはご苦労様でした。予期していたとはいえ、残念な結果だった。・・・ところで、直樹くんは、どのような状況で発見されたんだ?」
「それは、大桟橋ターミナル突端から50m程先の海上でした。両手に結束バンドの痕があったことから、明らかに殺害されたのだとは思いますが…、」
「結束か・・・、反社の仕業と見てまず間違いないと思うが・・・」 野島耕介は、今は民間人であった。軽々しく綾乃に想像を話す立場にはなかった。
「先輩、電話で失礼ですが…、川端直樹さんとは、どういう関係なんですか?」
「綾乃の捜査に役立てばと話すけれど・・・、川端君は、『マトリ』だよ。
したがって、厳密にいうと警察官ではないんだ。厚労省の役人という事だよ。
所属は、『関東信越厚生局麻薬取締部横浜分室』だ。
以前の調査の時に分室長の日下部五郎さん(注 探偵シリー第3弾『インプロビゼーション』に出演)にお世話になった時に知り合ったんだ。たまたま、出身校が同じだという事でね・・・」
「…そうでしたか。分室長の日下部さんは、まだ在職なのですか?」
「たしか・・・、まだ定年にはなっていないはずだよ」
「先輩、捜査協力ありがとうございます」
「いや、俺の方こそ綾乃を巻き込んでしまった・・・」
「事件が解決したら、美味しい物でもご馳走になりますから…」
「分かった。楽しみにしてるよ」
時間にしてみると、6年ぶりとはいえ数分の会話でしかなかった。
野島と綾乃に、わだかまりがなかったのか、と言えば嘘になる。野島が、上層部の命令を無視し、加賀町署を追われる立場になった時に、付いて行くべきであったと後悔する気持ちがしばらく纏わりついていたのだ。しかし、綾乃は、捜査権と逮捕権を手放すことは出来なかった。女にとって弱者に寄り添うには、絶対的な武器が必要であると考えていたからであった。
4
綾乃は、玄関前の狭い駐車場から『MAZDA6』を引き出すと、中区にある横浜第2合同庁舎2Fに向かった。日下部に会うためであった。
「あなたが、加賀町署の成宮警部補ですか? 先ほど、野島さんから連絡がありましてね、捜査に協力してやってくれと言われたのですよ。警視庁の5課であれば、お断りしたのですが・・・」
横浜分室の一捜査員が、5課に違法捜査の疑いで逮捕された経緯があったのだ。確かに、ライバル関係にあっても不思議ではない。
「それは、恐れ入ります」綾乃は、殊勝な態度で臨んだ。
「ところで、どのようなご用件ですか?」
「室長は、川端直樹さんをご存じですか?」
「・・・、それは何とも申し上げられません。何故、今カワバタさんという方の名前が私に関係あると、お考えに?」
「実は、川端さんのご遺体が昨日、大桟橋の突端で見つかったものですから…、何としてでも犯人をこの手で…、」
「加賀町署は、所轄ではないはずですが・・・。成宮警部補と、その・・川端さんとのご関係は?・・・」
「身内の方から、加賀町署に『行方不明者届』が出され、捜査をしている段階で偶然にも発見することが出来ましたので…。しかし、それは明らかに他殺でした。
私は、弱者と呼ばれる人たちの嘆き悲しむ姿を見たくないのです。犯人を挙げることが、残された弱者に対する私なりの使命だと思っているのです…。」
「あなたみたいな捜査官が、まだこの世の中にいたのですね・・・。野島さんが、私に頭を下げた理由が、やっと分かりましたよ」
「では、野島さんが言う通り、分室の所属だったのですね?」
「警部補、私の立場からいえば、それを明かすことは出来ないのです。これは、一般論として聞いて下さいね。彼は・・・、何処かのアンダーカバー、すなわち潜入捜査官だったのでしょうね。ですから、自分の家族も持たずに、職務についていたはずです」
「でも、現実には将来を約束していた恋人と呼べる女性がいたのです。この女性に対して何か言う事はないのですか?」
「仮定の話に、答えを求められても困りますね。ただ、自分の面が割れた場合の危険性は、十分に分かっていたはずです」
「室長、あなたの組織を守りたい気持ちも私には分かります。でも、これがあなたの娘さんの婚約者であったなら…、それでも、親として娘さんにかける言葉はないというのですか⁈」
「・・・彼は、この横浜、そして日本の未来を守るために自分の身を捧げたのです。
私も正直悔しいんだ。この借りは、絶対返してやるつもりでいるのです・・・。 成宮警部補、これで、私を許してもらえないだろうか・・・」
綾乃は、日下部の言葉を最後まで聞かずに飛び出していた。
向かう先は、『Blue』である。売人として末端の人間であったとしても、薬物の世界を良く知っているはずである。綾乃は、藁をもつかむ気持ちで野村の店に向かっていた。
第三話 綾乃と亜里沙へ続く
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