蹄跡の40

 今日は大井競馬場の調教場・千葉県の小林牧場に出張して調教を付けるカンナと紅葉である。


「レースはまだだけど、今日は強く追ってくれって」


「この馬いつもそんな感じやよね」


 カンナと紅葉は仲良くなった。元々同期の誼があるし、同じ肩身の狭い女性騎手同士だし、いがみ合い続ける利点が少ない。紅葉の方から積極的に発言して調教の音頭をとることが多い。


「じゃ、先に行くわよ」


「うん。1馬身差でスタートやんね」


 この牧場(トレーニングセンター)には坂路コースも設置されている。ちなみに、カンナが乗っているのは現在、小野厩舎に預けられる形で小林厩舎に滞在している金沢・延厩舎の看板馬だ。


「A級馬の実力、見せてやろうね!」


 アルセンドという名前の牡馬だった。もう7歳になるが金沢A2級で掲示板に載る活躍を見せている。金沢にいたころは番頭・温井が専属で調教を付けていたが、ここにはいない。


「良い馬やなあ」


 5歳12月までは中央にいて、未勝利戦を勝ち上がった馬だ。1勝クラスでは鳴かず飛ばずで、ついにタイムオーバー(そのレースで決められたタイムを超過して走ってしまったこと)による罰則で出走停止を食らい、我慢できなくなった中央の馬主がさじを投げたそうな。金沢に移ってきた6歳3月からはB級を連勝し始め、A1級も走ったほどの馬だ。


「金沢のA級ね…どんなもんか、見せてもらう」


 紅葉の乗る馬は小野厩舎の、大井でB2級の馬だ。アルセンドからすると、少し格下になる。しかし、南関大井のB級馬と言えば、押しも押されぬ立派なサラブレッドだ。

 小野厩舎の厩務員が合図を送る。両馬が走り始める。アルセンドが1馬身後方から追いかける形の併せ馬だ。


「よしよし」


 紅葉は納得の表情で馬を追う。反応が良い。B級の馬ともなると、C級下位の馬と比べると特段に反応が違う気がする。


「で、カンナの馬は?」


 700mも走れば馬体を併せてくるかと思えば、1馬身後方スタートのアルセンドの影が見えない。紅葉はいぶかしんで、後ろを振り返ってみた。


「えっ」


 目の前にアルセンドの頭が迫ってきた。紅葉は油断した自分を恥じた。さすがに強い。残りの数百mは気が付けば激しい競り合いになっていた。


「じょ、冗談じゃない…!」


 調教とはいえ、油断して負けたなんてそんなこと。恥ずかしすぎる。しかし、アルセンドはするすると差し脚を伸ばしていく―――




「敗けた…」


「頑張ったねえ!」


 紅葉は馬の首に突っ伏した。カンナはヨシヨシと馬の首を撫でる。仮にも中央で勝ち上がってきた馬と、地方で苦労してB級に上がった馬の差であった。


「ごめんね…あたしがちゃんとしてればもうちょっと」


「いやあ、アルセンドはウチの看板馬ですから」


 負けるわけにはいかないよ、とはカンナ。今年は重賞出走も期待されているのだ。延厩舎を代表してただ1頭、関東まで出されてきたのもそのため。


「アキノドカじゃないの」


「いや、アルセンドやよ。ノドカは重賞こそ勝ったけど、前面には押し出したくないんだ」


 暮内オーナーは重賞戦線を戦っていくことこそ認めたが、それでもアキノドカに取材が付くことを嫌がっていた。ちなみに、姉はまだ園田古馬C1級ということで注目度は少なく、妹はスーパーフレッシュに向けて調整中だ。


「アルセンドに吉田さんを乗せて、百万石賞でも獲れたらすごいやろねえ」


「色々あんのね」


 百万石賞は金沢古馬の代表的重賞で、700万円の高額賞金を巡って2100mを争う。これに勝てば、アキノドカに集中しがちな注目をちょっとは散らせられるだろう。延師はここか2000m重賞のイヌワシ賞を大目標にしている。


「ハルウララねえ。あたしも会ってみたいわ。敗け続けのアイドルホースだったんでしょ?」


「うん。先生が言うには、それはもうすごい人気や~って」


 2003年・2004年ごろの「ハルウララブーム」。冠協賛レースは当然として、多くのファンを集めて経営の傾いた高知競馬を立て直し、あの武豊尊を呼び寄せ、馬の写真集まで出させた。それほどの馬だが、勝ちに縁は無く、その頃はまだ物心ついてなかったカンナも紅葉も、どんなものか理解してはいない。


「お母さんのように注目されなくても、地元の人に愛される馬で終わって欲しいんやよって」


「うーん、ちょっと贅沢な悩みね」


 あの頃の過熱っぷりを知らない2人はやっぱりしっくり来ていない。暮内オーナーの悩みを理解はできないが、馬の幸せを考えた馬主の行動を尊重するくらいの良識は持っている。2人とも、それ以上は言わないことにしたのだった。

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