33. ようやくッ――
月代くんは、「ううっ」とか嗚咽を洩らして、目の周りを少しだけ赤くしながら、隠すこともせずボロボロ泣き始めた。
少し離れた席にいるカップルらしき二人組の男女が、何事かと私たちの席をチラチラ見ている。私は慌てた。慌てすぎて、思わず立ち上がっていた。
「ちょっ……、いや、なんでお前が泣くんだよ」
月代くんが嗚咽をもらしながら、グズグズと鼻をすすりながら、「ゴメン、ゴメン」とこの世の終わりみたいな声をこぼしだした。何に対しての、何を以てしての「ゴメン」なのか、私には皆目見当もつかない。慌てて立ち上がったものの、月代くんの胸中をはかれない私はただ狼狽するだけだった。
少し落ち着いたのか、月代くんは服の袖で涙を拭き始めて、赤く腫らした両目で私のことをグッと見上げた。
「ゴメン、小太刀さん。僕はキミに言わなきゃいけないコトがある。いっぱい、あるんだ――」
まるで、何かを懺悔するようにか細い声色だった。あまりにも弱々しい彼の態度に、私は少し身構えてしまった。とりあえず私は椅子に座りなおして、テーブルの上に視線を落としている月代くんをジッと観察してみる。
ちょっとだけ間があいて、やがて月代くんが顔を上げた。
私のコトをまっすぐに見つめながら、徐に口を開いて――
そのまま彼は、ピタリと止まってしまった。
最初は、私以外の時間が全て止まってしまったんじゃないかって、そう錯覚した。でも私たちの周囲には、人々のおしゃべりやら木々のざわめきやら環境音が変わらず流れているし、少し離れた席にいるカップルらしき二人組は、相変わらず私らにチラチラ目を向けている。
世界が止まったんじゃない。月代蒼汰だけが、止まってしまったんだ。
私は、言い知れぬ違和感を覚えた。一握りの恐怖と、ひとかけらの不安が胸に広がるのを感じた。私はこわごわながら、「お~い」と月代くんに声をかけてみた。彼の目の前で、ブンブンと掌を振ってみた。少し遅れて、月代くんがハッと我に返るような素振りを見せる。そのまま彼は、私に目もくれずにズボンのポケットをまさぐり始めた。
彼が取り出したのはイヤホンだった。月代くんは神妙な面持ちのまま、取り出したイヤホンを慌てたように自身の片耳につけはじめる。
ブランと、線の細いコードが宙で揺れている。
その先端は、どこにも繋がっていない。
でも月代くんは、真剣な表情でイヤホンから何かを聴いている。私の胸の中で、ひとかけらの不安がどんどん大きくなっていった。
「……えっ、月代くん。どうしたの、何、やってるの?」
私は懇願するような声をあげていた。月代くんは私の声に気づいたのか、ようやく私に顔を向けてくれた。彼は静かに片耳からイヤホンを外すと、今までにないくらい、――ちょっと、怖いって思っちゃうくらい、マジな顔をしていた。
月代くんが、いやにゆっくりと、やけに低いトーンの声を出す。
「小太刀さん、今すぐ家に帰ろう。キミのお母さんが、このあと倒れる」
私ははじめ、月代くんが何を言っているのか理解できなかった。ポカンと口を開いて、でもすぐにへらっと無理やり口角をあげて、私は窺うような声で返事を返す。
「な、何言ってんだよ。なんで、そんな笑えない冗談、急に――」
「冗談じゃないんだ。キミが信じられないのは百も承知だけど、今はとにかく、僕の言うコトを信じて欲しい。そうじゃないと――」
月代くんは一瞬だけ声を詰まらせた。だけどすぐに、喉元に刃物をつきつけるような鋭い声で言葉を紡ぐ。
「キミは一生、後悔する」
人々のおしゃべりやら木々のざわめきやら、のん気を体現したような環境音が、私たちの周囲には流れている。流れているはずなんだけど――
私と月代くんのいる空間だけが、半円形のヴェールで覆われてしまったみたいに、静かだ。
月代蒼汰が、私から視線を外してくれない。
私もまた、彼から視線を外すことができなかった。
※
三階にある病室を後にした私は、がらんどうの廊下を力ない足取りでゆっくりと歩き、待合室のある一階へ向かうべく階段を降りる。ポケットのスマホを取り出して目を向けると時刻はすでに夜の八時。受付時間を過ぎているためか、院内のスタッフと思しき看護師さん以外はあまり人の姿を見かけなかった。区内で一番大きな病院とはいえ、敷地面積は決して広くない。手狭な待合室で一人ポツンと腰をかけている月代くんを見つけるのは簡単だった。
「月代くん」と私が後ろから彼に声をかけると、月代くんはゆっくりとこちらを振り返った。その顔は、なんだか生気を感じられない。私はトボトボと彼の元に近づき、隣にボフッと腰を落とした。少し湿ったようなクッションの感覚が妙に冷たい。
月代くんが、私の方を見ないままに声を出した。
「お母さん、どうだって?」
「大きな病気とか、そういうのではないみたい。疲れがたまってるから、とにかく休みなさいって。一週間入院するコトになった。お母さん、最近土日も働いてたからさ」
「そっか。……心配、だね」
「まぁでも、いい機会なんじゃないかな。こういうコトでもないと、あの人休まないから」
月代くんが再び「そっか」とこぼしたところで、私たちの会話が途切れる。
シンッとした静寂が私たちを包んで。私は月代くんの方を見ないままに、無機質な病院の床に声を落とした。
「月代くん、ありがとね」
「……えっ?」
「いや、お母さんが危ないって教えてくれて――、あのまま発見が遅れてたら、もしかしたらやばかったかも、しれないからさ」
「ああ、うん……」
月代くんの声は、いつもの如く覇気がない。でも今の声は、普段の彼のトーンとちょっと違うように聞こえた。私は意を決して、月代くんに顔を向けてみる。月代くんは呆けたように口を半開きにしていて、その目はどこか焦点が合っていない。私は更に意を決して、その言葉を彼に投げかけた。
「あのさ、なんでわかったの?」
でも、月代くんは答えない。黙って、虚ろな目つきで、味気ない地面に視線を落としている。
「お母さんが、家で一人で倒れているって、なんでわかったの? 上野公園のカフェにいたとき、キミは、どこにも繋がっていないイヤホンで、何を聴いていたの?」
月代くんはやっぱり返事を返さない。私の声が、聞こえていないはずがないのに。
「……だったら、質問を変えるよ。月代くん、あの時私に何か言いかけてたよね。言わなきゃいけないコトいっぱいあるって、そう言ってたよね。キミはあの時私に、何を言おうとしていたの?」
月代くんは口をつぐんだまま。つぐんだままに、ユラリと私に顔を向けた。まるで幽霊みたいな顔をしていた。……目の前にいる彼は、本当にあの月代くんなのだろうか――
私の全身に、ざわりと恐怖が巡る。そして。
「ゴメン、小太刀さん」
月代くんが、謝ってきた。
さっきから、何に対してのゴメンなのか、私にはまったくわからない。不安と焦燥でイライラしてきた私は、思わず「何が?」、と語気強く彼に返した。
月代くんが、うなだれるように首を左右に振り始める。
「本当にゴメン、キミが、僕のコトを好きになるって宣言した時点で、止める、べきだった」
「……はっ? どういう――」
思わず私は彼に詰め寄ろうとして――、でも、ふいに顔をあげた月代くんの表情に、私は言葉を失ってしまった。
月代蒼汰の顔面には、一切の色味がなかった。
まるで、真っ黒なペンキで塗りたくられたみたいに、一切の感情を有してなかったんだ。
「こんなやり方、やっぱり間違っていたんだ。全部、僕が悪い」
ゾンビみたいにそう呟いた彼が、のそりと立ち上がった。そのまま、フラフラの足取りで、何かに操られるようにがらんどうの廊下を歩き始める。慌てた私も立ち上がって、「ちょっと、どういうコトだよ!」と思わず大声を荒げた。でも、月代くんは立ち止まるコトも、振り返るコトもしなかった。
私は、彼の後を追うことができない。なんだか、足がすくんで動かなかった。
次第に月代くんの背中が小さくなる。静まり返った空間に、彼の足音だけが響く。
気が付くと、手狭な待合室には私一人だけが取り残されていた。
「なんだよ……、なんなんだよ」
喉から声が、勝手に漏れ出ていた。
私の頭の中で、心の中で、形容不能の感情がグルグルと渦巻いている。
……ようやく、ようやく、ようやくッ――
「――ようやく、人に、心を開けるようになったのに、人を好きになるってコトが、わかってきたのによ……」
私はその場にへたりこんだ。
両手両膝に顔を埋めて、ギュッと目を瞑った。
「キミが何を考えているのか、全然、わかんなくなっちゃったよ――」
真っ暗な世界に放られた私の声が、虚しく反響した。
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