17. ロマンチックの『ロ』の字すら


 ……浮け――、私は心の中でそう呟き、脳内でそう念じた。

 さきほど子どもを助けた時と同様、水面下にあった月代くんの身体がフワリと宙に浮く。全身ズブ濡れになった月代くんの纏う制服から大量の水がしたたり、私は彼の身体を川岸の堤防上まで乱暴に誘導した。「――イテッ」。仰向けの姿勢で空中を遊泳していた彼の身体が背中から地面に落ちて、彼は思わず呻き声を漏らす。……ざまみろっ。


 幾ばくかの時間、月代くんは寝転んだままハァハァと必死に酸素を体に取り込んでいたが、やがてムクリと起き上がり、ニンマリと満足げな笑顔を私に向けた。

 長い前髪から、大粒の水滴がボタボタと垂れる。


「……助かったよ、ありがとう小太刀さん」

「……よくそんなコト言えるな。自分から飛び込んだクセに」


 月代くんがハハッとイタズラっぽく笑うもんで、私は呆れたようにハァッとため息を吐き捨てた。


「小太刀さんなら、絶対助けてくれると思ったからね。想定の範囲内ってやつだよ」

「……ったく、私が念力使えなかったら、どうするつもりだったんだっつーの」


 何の気なしに返したそんな言葉。

 私は自らの失言に、未だ気づけていない。


 月代くんが、指で作ったピストルを私の眼前に突き付けた。

 相変わらず得意げな顔の彼がさらにその口角を吊り上げ、一言。


「ようやく認めてくれたね。小太刀さん」


 私は思わず「あっ」と声を漏らして、知らぬ間に自分が投了していた事実を遅れて知る。



 私は再三のタメ息をはぁっと深く吐き出し、その行為は降参の意を表明していた。私はずぶ濡れの月代くんの顔に自らの顔面をグッと近づけ、「あのさっ」と弱々しい声を漏らした。


「……このコト、内緒にしてもらってもいいかな?」


 私は懇願するように彼の顔を窺い見ていた。月代くんはきょとんと、不思議そうな顔で私の瞳を見つめていたが、やがてフッと口から乾いた息を洩らして、私の肩を両手で押しやるコトで距離を離して。あごに手をやりながら再び口元をニヤつかせ始めた。


「うーん、どうしようかな」


 そんで、そんなコトを言いやがるもんだから、私の脳内血管が三本ばかり切れる。


「――てめっ……」


 私は拳を振り上げようとして――、しかしグッとこらえた。……なんせ、秘密を握られているのは私の方、この状況、私は圧倒的に分が悪いのだ。なぜ月代くんが、自らの掌の上で私を転がそうとしているのかその理由は一ミリもわからないが、私は焦っていた。

 無表情に笑う月代蒼汰という男の底が見えない。何をしでかすか分からない彼のペルソナに妙な不安感を覚え、私は藁にすがるような声をあげ始めていた。


「いや、マジで頼むよ。超能力を外で使っているコトがバレたら、私、お母さんに殺される可能性すらあるんだよね」

「……そうなの? でも、やっているコトは人助けなんだから、誉められるコトはあっても咎められはしないと思うけど」

「そういう問題じゃないんだよ。私、この力を使わないって、お母さんと約束しているんだよ」


 私はできうる限り必死な声を出しているつもりなんだけど、ぬぼーっと表情の読めない顔を晒している月代くんは「へー、そうなんだ」とどこか投げやりな口調で虚空を見つめていた。

 ……なんだコイツ、なんで「いいよ」って言わないんだよ。何が目的なんだ――

 月代くんの煮え切らない態度に、私は段々イライラしてきて。


「お願い、黙っててくれたら、私、なんでもするからさ」


 虚空を見つめていた月代くんが、「えっ」と驚いたような声をあげながら、丸くなった瞳を私に向けた。私たちの視線が交錯して、私も思わず、「えっ」と漏らした。

 ……もしかして私は、とんでもない台詞を口走ってしまったのではないだろうか。

 ざわざわと、私の胸に一抹の不安が広がる。そして。


「……ホントに、なんでもしてくれるの?」


 不敵に笑った彼の笑顔が、私の胸に広がる不安感に加速度をかける。


 ……えっ、何、私、月代くんに何を要求されるの? ……お金? 月代くんお金に困ってるの? いやいや、私バイトしてないし、財布に千円くらいしか入ってないよ。……いやもしかして、エロいことなのか? 月代くんだって男の子なワケだし。……もしそうだったら、どうしよう。月代くん、割と顔はいいし、キスくらいまでなら――、って何考えてるんだ、私は欲求不満かっ。


 グルグルと、あらぬ妄想を巡らせていた私はハッと意識を取り戻し、ごまかすように月代くんから目を逸らしながら、「まぁ、私ができる範囲であれば」と力ない声を返した。


 五月の空はいよいよ暗がりを帯び始めており、「じゃあさ」と口を開いた月代くんの次の発言に、私は今日イチのドギモを抜かれる運びとなる。


「小太刀さん、僕と、付き合ってよ。僕と恋人関係になってよ」


 ――はっ……?

「――はっ……?」


「半年間……、今年の十月三日が終わるまでで、いいからさ」


 ――はぁっ……?

「――はぁっ……?」



 心の声と喉から出る声が完全同時だったのは、たぶん人生で初めてだ。

 ――ツッコミドコロはあまりにも多いが、とりあえず私は急な告白にテンパっていた。あばあばと、どこぞのヤエの如く私は口を開閉させており、とにかく場を平定させようと情けない声をあげる。


「い、いやちょっと待って、いきなりどうしたんだよ。半年って、どういう――」

「なんでもするって、言ったよね?」


 有無を許さぬ、氷の微笑。

 眼前の月代くんが首を傾ける。大きな瞳を細くたゆませて、彼は優しく微笑んでいるものの、その笑顔の裏側は相変わらず底が知れない。

 妙な迫力に、私は思わず息と共に声も呑んでしまった。


「これからヨロシクね、小太刀さん」


 五月の空はすっかりと暗がりに包まれており、近くの街灯にパっと光が灯る。昼間の陽光はどこへやら、湿った風がワイシャツの上から私の肌をなぞり、私は薄ら寒い心地すら覚えていた。

 どうやら私に、人生初の彼氏ってやつができたらしい。

 胸の高鳴りも、胸のトキメキも、ロマンチックの『ロ』の字すら――


 そこにはありゃあ、しなかったんだけど。

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