第19話 初日

 右側の車窓の外へと大半の生徒が釘付けになっている。僕はそれを車両最前列、左隅の座席に着いたままに静観していた。


 文明の利器と表現しても差し支えない新幹線からの情景でも、その文化的遺産の価値が暴落しないほど明媚めいびのようだ。


 隣席の武藤たけふじも反射的にそちらへと向かってしまい、行き遅れた僕はどうしようもなくそこに取り残されている。


「はぁ……」


 修学旅行者を含む団体専用の臨時列車は、流線型の複雑な先頭部で容易たやすく空気抵抗をいなし、時速二百キロを超過して、目的地でもある京都駅の方角へと突き進んでいる。


 旅のしおりに基づくプログラムは、まず二泊三日の初日。京都駅に到着後すぐ宿泊するホテルの部屋に荷物を置く。


 そして学校指定のナップサックに必要最低限の備品を入れ、クラスごとに現地のガイドさんが付き添い、集団で京都観光をする予定になっている。

 終了後、荷物を置いたホテルへと戻る。


 そして二日目の午前中も同じくガイドさんの案内でバス移動をしながら奈良県を巡り、午後からは大阪府にあるテーマパーク内という限りこそあるが、初めて自由行動が解禁される。


 その後、旅のしおりにはここで京都府にある先程のホテルに戻り二泊目をすると記されていたが変更になり、大阪府にある別のホテルの名称に赤ペンで修正している。


 最終日はバスで再び京都府へと戻り、そこを中心として、班別に設定された予算内なら府外に出る事すらも許されている、本当の自由行動が僕らを待つ。


 他にもホテル内でレクリエーションやビデオ鑑賞、雨天の場合を想定したスケジュールなども記述されていたけど、つまむとこの辺りが主点だと思う。


 行き先が小学生の頃と同様なことに不満を抱く生徒も少なからずいたけど、こうして当日を無事に迎えた途端とたん瑣末さまつごととなっている。


 以前が高速バスでの移動で、今回が新幹線なことも理由の一つかもしれない。


 そんな同級の生徒達をよそに、僕は関心を寄せられていない左側の車窓から映る太平洋を流し見たのち、狸寝入りをする。


 寝ていて気付かなかったと装えば、帰ってきた武藤が勿体ないと同情する事もない。折角の景色。僕が水を差す訳にもいかない。


「……これはこれで良いかな?」


 最後に海面を視界に捉えながら眠ることも、存外特別なように僕は感じる。

 長旅の幕間、体力の蓄えには丁度良い。


「ねえ皆本。隣の席、使わせて貰ってもいいかな?」

「えっ?」


 僕の苗字を呼称されたせいで、咄嗟とっさにその双眸が意に反して開いてしまう。


 時間に換算すると、眼球と下目蓋の間に数滴点眼てんがんして、その薬液がこぼれないように閉じていたくらいの短期な空寝だった。


「起きてるよね?」

「……うん」


 声を掛けてきたのは、僕と武藤の座席からは対極。みんなが乗車してから一番の隆盛りゅうせいを迎えている右側後方に割り振られ、シズの隣席でもある。

 生徒会長にして学級委員長、そして今回は僕達の班の班長も務める種川たねがわだった。


 どうやら諸事情で席を外していたらしい。証拠に近くの自動ドアが閉まっていく。


「みんな通路を塞いでいることに気付いていないみたいだし、私が自分の席に帰りたいだけで空気を壊すのも良くないし、ここで休ませてよ」

「……それは別に良いと思うけど」


 種川が僕の隣の席。つまり今頃、何処かで眺望しているであろう武藤の座席に着く。


「……どうかした?」

「いや、なんでもない」


 教室にいる時と相変わらずだけど、種川の姿勢は、自動的に脊柱せきちゅうが矯正される仕組みなのかと疑念をいだくくらい凛としている。


 それに影響を受け、僕も背筋を伸ばす。

 そこに種川が、座席の余分な箇所を優しく叩いて知らせてくる。


「ここ、武藤だっけ?」

「そうだよ」

「それなら無断でもいいか。お互い様だし」

「お互い様?」


 僕が訊き返すと、種川は煩わしそうにする。


「右後ろの私の席、振り返った私達の視点からは左だけど。あそこ、見ればすぐに分かるよ」


 僕は種川が指示する方角へと促されるまま、座席から少し乗り上げつつ振り返り見る。

 シズと種川の場所は把握していたので、迷わずともすぐに導き出せた。


「……っ」


 そこには当然だけどシズが居る。

 車窓に向けて驚きを含んだ笑みを惜しげ無く浮かべていて、本来なら種川が居る筈の隣には、何故か武藤が着席している。


「武藤、あんなところに居たんだ……」

「そう、私が戻ってもあいつが居るから。

 帰れって言っても絶対駄々捏ねるし、一時的に入れ替わってた方が面倒じゃない」


 種川は普段通り達観として佇む。


 その武藤は隣のシズになにやら話し掛けていて、それに対し何度も頷いている。


 なんだかクイズ番組でよく目にする、有識者が披露している蘊蓄うんちくを熱心に聞くパネラーみたいだと僕は苦笑いする。


 そんなことよりも、武藤はやはり自身と他人ひととを繋ぐことに長けているのか、いつの間にか、シズとの距離感が縮まっているように見受けられた。


「あと武藤が志津佳しづかの側に居てくれるなら、私的には少し安心」

「随分と信頼してるんだね?」


 種川が武藤に対する多数の文句の裏返しのような気もする。


「班の三人の中では最悪だけどね」

「それ、武藤に伝えてあげたら喜ぶんじゃないかな?」

「嫌だよ、めんどくさい」


 僕の冗談交じりの提案に、種川は苦笑いながらすぐに拒む。なんだか示し合わせていたかのような流れだった。


 それに危うく、僕が聞き逃してしまうくらい自然に、種川はシズを下の名前で呼んでいる。取り巻く関係性の変化の一端を如実に表している。


 シズの初登校からこの日まで一ヶ月。

 修学旅行の打ち合わせなどを通じて、まだ遠慮がちではあるけど、シズと他の生徒が雑談する姿を数度目撃していて、特に班行動が同じの武藤と種川とはその機会が多く、かなり打ち解けた様子だった。


 そうして同性ということもあってか、種川とはかなり親しくなっているみたいだ。


 女の子同士で、種別は異なるけど自発的な行動原理を併せ持つ二人だからこそ、通じ合えるものがあるのかもしれない。


 そんな二人で買い物に行って来たと、シズ本人から報告を受けた事がこの短期間で三度は記憶しているから、種川が当然のように下の名前で呼び捨てる関係なのも肯ける。


 でも僕には、種川に対してどうしても気掛かりなことがあった。


「そういえば、種川は良かったの?」

「えっと、なんのこと?」


 僕は一度咳払いを挟んでから本題に入る。


「そのシ……楠木くすのきさんの担当みたいになっているから。例えば種川が、本当は別の誰かと修学旅行を回りたいとかあるんじゃないかなって、勝手に思ってたりしていて——」


 元を辿れば、自身も初対面なのに込み入った事情のあるシズのサポートを裏で請け負っていたり、行動を共にしていたのも見掛けていて、この修学旅行でも班別行動やホテルの部屋割りも同じはずだ。


 例えば先生方に指示されただけならば、種川にだってしんどいものがあると思う。


 実は前々からこのことを訊ねたくて、その機会がようやく訪れてくれた。

 ここを逃す訳にはいかない。


 あとシズのことを苗字である楠木と呼ぶことは、いつまで経っても慣れそうにない。

 愛称だと流石に悪目立ちするから仕方ないけど、胸につっかえる。


 種川は隣の席で暫し俯いて思案していたけれど、再度姿勢を正しながら言葉を紡ぐ。


「——私は志津佳が戻って来ると分かったときからそうするつもりでいたし、先生には私から無理言って頼み込んだからね。

 今も志津佳と一緒で良かったと思ってるよ」


 国語の時間の音読のように静心しずこころで語る。何事も大人びたと称されている種川にしてはあどけない、屈託を知らない少女の笑みに映る。


「あと。わざわざそんなことを心配してくれる男の子が居てくれると私も、多分だけど志津佳も恵まれてるね」

「別に、ちょっと気になっただけだよ」


 絶え間もない新幹線が車体を揺らす中、種川が僕を揶揄からかうようにそんなことを言う。


「……なんか、うらやましいな」


 京の都への行方ゆくえ

 僕は良き理解者に巡り逢うことが叶ったシズへと思いを馳せる。


 まだ同級生として受け入れられたとは言い難いかもしれない。けれど果敢にもシズは着実に進歩している。


 それも難しい年頃とされる中学生で、たったの一ヶ月での成果だ。


 僕は基本、傍観しているだけに過ぎない。

 シズとの仲をある程度知っている武藤と種川も、あの日以降はただしてこない。


 僕とシズの反応を修学旅行に向けた班会議などで見た上で、意向を汲んでくれたのかもしれない。


 最初は成り行きではあったけど、結果的にクラスで最良のメンバーだ。


 シズはその三人を取り敢えず苗字で呼んでいるようだ。


 そもそもだけど僕も武藤も種川も、苗字で呼ばれる事がほとんどどの三人衆だ。


 武藤のフルネームは、武藤たけふじ 昌剛まさたけ

 種川のフルネームは、種川たねがわ 令月れいげつ


 ついでに僕の名前を加えてもやはり苗字の方が呼びやすいと、個人的に思う。


「そうだ、皆本は見なくていいの?」

「なにを?」

「なにって、分かってるでしょ。みんながどこに注目しているかくらい」

「ああ……うん」


 律儀な種川が言おうとしていることは、なんとなく分かる。


 中学生の僕らにとってこの修学旅行は、小学校からの九年間を共にした学友との、最後の団体旅行になるかもしれない。


 もう一年と経てば。同じ進路を辿ることの方が稀で、大抵は別々になってしまう。


 だから種川は僕に、本当は見たかったけど仕方なく諦めたという思い出を残して後悔する事だけはして欲しくないんだと思う。


「——そこの自動ドアを抜けて、乗降扉の窓からの景色がさっき綺麗だったから、皆本がちょっと気になるならそこをお勧めする」

「へー……」


 若干遠回りな話し方だけど、種川の厚意はよく伝わる。そういえば僕が入院明け初登校のときも、こんな感じだった記憶がある。


「……うん。あの種川が勧めるなら、僕も気になるから行ってみようかな?」

「あのって程の人間じゃないと思うけど、まあいいか。あ、その荷物守っとくよ」


 気の利いたありがたい提案だ。


「あっ助かる……あと武藤の分もお願い」

「はいはい」


 僕は種川に二人分のナップサックを預けて、

 両膝に触れないように大股で横っ飛びするとすぐ近くの自動ドアが開き、それをくぐる。


 次の停車駅まで余裕があるせいも相まって、そのスペースには僕以外に誰もおらず、貸し切り気分で乗降扉の車窓から不意に鑑賞する。


 そう、不意に。

 そのように表現したのは、車体の揺れに僕は堪えることが出来ず、よろけた景色が視線の先に映り、瞳孔を拡大させたからだ。


「おぉ……」


 それはテレビや写真や絵画などで幾度と見てきた。だから今更、感銘を受けようがないと僕は思っていた。


 等間隔とうかんかくの標識が瞬く間に去っていく。

 それすらも演出の一環だと勘違いさせるくらい、悠然ゆうぜんそびえる銀嶺ぎんれいとりこになる。


 通路が点々と反響している。

 実際に言葉を失った訳ではないけれど、比喩的には過言ではないかもしれない。


「ここいいね、きっと特等席だよ」

「……うん」


 僕は声の主を確認することなく答える。

 迫って来ていた忍ばない忍足と声質から、シズによるものと判別出来ていたからだ。


「私、邪魔だった?」

「ううん。寧ろ、ありがたい」


 そうしてシズが僕が立ち尽くす隙間へと割り込むと、乗降扉に左肩が触れそうで触れない絶妙な位置で背を委ね、秋波しつつそれを見据えていた。


「よく来たね、通行路塞がってなかった?」


 僕もシズへと相対するように、身体を左側へ九十度回転させて対面しながら訊ねる。


 ここは非常に幅狭で知られているけど、僕らが横向きなればして問題じゃない。


「武藤が一瞬でき分けてくれました」

「……どこかで聞いたような台詞だね」


 実質的にノートが主人公で、それを巡る壮絶な知能戦が描かれていそうな、林檎が好物の死神が出てくる漫画の一場面かな。


 そんなことはともかく、今日の髪型はシンプルに一結びのポニーテールにして、制服のスカートの前で両手を組むシズが、今にも溢れ出しそうな笑みを抑制している。


 そのせいで思い出し笑いをしているみたいになっている。けれどこれはこれで横目の景色と対峙してもせなく閑麗かんれいだ。


「その武藤は? ここに居ないけど?」

「えっとね、今そこでタネと言い争いしてると思う」


 学校なら茶飯事ではあるけど、大体いつも理由が異なるから一応訊く。


「言い争いって……なんで?」

「なんか武藤のバッグの中にゲーム機があったみたい。多分先生に没収されてると思う」

「あっ……武藤に悪いことしたな」


 僕はシズに聴こえないような小声で、武藤に謝る。


 そういえば新幹線へと乗る前に、修学旅行では禁止の電子機器、この場合はゲーム機をホテルで密かに楽しむと豪語していた。


 禁止ではあるけど、それは非道な悪事ではないから、僕は先生に告げ口をせず黙認するつもりだった。


 しかし、この中学校にける生徒代表の種川に発見されると話は別。


 種川が武藤のボストンバッグを盗み見るとは考えられないから、武藤はゲーム機をもう既に預けたナップサックの方へ移していたことになる。


 裏をかこうとしていたのかもしれない。


 憶測だけど、僕が種川に預けた後に種川が重量や手触りで違和感を抱いた。

 もしくは武藤とシズが種川の元へ向かってから墓穴を掘ってしまったかのどちらかだと仮定する。


 自業自得とはいえ、不必要に誰かの楽しみを奪うのは少し気が引ける。


「……そういえばシズ。そのタネって、やっぱり種川のこと?」

「うん。そろそろ呼び方を固定しようってなってね。

 私はそのまま下の名前。向こうはみんなからずっと苗字で呼ばれてるからそれでいいって。でもちょっと堅苦しいから短縮してタネ。私の呼び方もいずれそうなるのかな」


 シズが渾名あだなで呼ぶ相手は珍しい。

 シズ自身は病院内で愛称が浸透していたけど、逆はウメ婆さんくらいだと僕は指折る。


 他の人にはそのまま本名か、それに敬称を加えたものが多い。


「凄いね、シズは」

「んっ? 凄いってなにが?」


 シズは思い当たる節がないと首を傾げる。


「だっていつの間にか、武藤や種川や他の人とも関わりあって仲良くしているみたいに見えたから……本当、僕はいらなかったよ」

「……」


 素直にそう感じている。僕とシズが反対の立場なら、きっとその初日も初登校すらもなく、部屋で一人寛いでいた。


 勿論それが駄目なことでは決してない。

 賢明な判断でもあったと思う。


 余計な恐怖と戦うことなく、後ろ指もさされず、独りを取り繕う必要もない。


 そしてなにより、大病を患っていたことに対する偏見だって知らずに済んだ。


 シズは自身の病気の事は隠している。

 先生もそのことを喧伝けんでんしてはいない。

 当然、僕もそうだ。


 けれど一年生二年生全休の事実と、昼食時の服用薬の数量から大方の推論が立てられてしまっている。


 そうなるとどうしても、シズを露骨に避ける生徒も現れてしまう。


 あのシズが、意味を分からない筈が無い。


 学校で勉強をする時間こそ短いけど、誰よりも好奇心旺盛で予期しない所で学習してくる、柔軟な思考回路を巡らせるのがシズだ。


 毎日万全な状態を維持することが困難な身体でこの一ヶ月、欠席はおろか早退すら一度もなく、精神的な苦痛にまで耐え忍ぶ。


 それら全てを受け入れてシズは僕たちと、小学生の頃に果たせなかった修学旅行の舞台にこうして参加している。


「えっとね——」


 シズ本人は、他の生徒なら当たり前のことをしただけで褒められたくはないと思う。


 けれど幾多の劣勢を跳ね除け、目標の一つを達成し、僕以外の理解者も居て、なお平然としているシズを称賛しない理由がない。


 自分にとって当たり前のことが、誰かにとっての当たり前ではない。


 少なくとも僕は、そんな当たり前を知らない。


「——それ、違うよ」


 シズは車窓を名残惜しく眺め否定する。


「違う?」

「うん……だって全部、私の正面にいる、真面目な嘘付き人間のせいだから」

「——え、どういうこと?」


 現在。シズの正面にいるのは僕だけだ。

 あるいは雄大な景色も含まれていたのかも知れないけど、人間とまで限定したのだから誤りはないだろう。


 嘘つきと揶揄されるようなことをした自覚が僕にはない。突き付けられ、何度か反芻しても、同様の答えにしか導かれない。


「そんなことより皆本、ちょっと見張りと誤魔化しを頼みたいんだけどいいかな?」

「いやまだ僕の話が終わって——」


 なのにシズは、そんな僕の問い掛けを既に終わったことだとなおざりにする。


「——実はポケットにスマホがあるんだ。これで記念に一枚撮っときたくてね。ほらっ」


 僕の言葉をさえぎったシズはおもむろに、スカートにある右ポケットから桃色カバーのスマホを披露する。


 そしてすぐ、空いた左手の人差し指だけを立て、自身の唇に当てている。


「これ、二人だけの内緒だからね。

 じゃないと私も武藤みたいになるから」

「あっ……うん。禁止だったね、それも」

「そうなの。皆本、告げ口しないでよー」

「……しないよ」


 僕は腑に落ちないままシズの意向に従う。

 スマホのカメラ機能を起動。車窓に向けカメラを構える間に、背後の往来を監視する。


 お互いの背中を預け合うなんて形容は大袈裟だけど、雰囲気は悪い気がしない。

 アクションドラマにおけるダブル主人公の佳境みたいで、少しくすぐったい。


「よし、この角度完璧」

「こっちも問題ないよ」


 自動ドアのガラス張り越しに観察しても、こちらに来るような気配はない。


「あ、シャッター音どうしようか?」

「……咳払いとかで誤魔化そうか?」

「それ採用。じゃあお願い」

「……僕がするんだ? いやいいけど」


 そしてシズから僕に向けて、カウントダウンなどの息を合わせる指示はない。


 それは阿吽の呼吸というよりは、僕の間合いに全てを委ねるシズが、聴き耳で合わせる暗黙の算段だ。


 再び通路に誰も来ないことを確認し、息を整え、シズの悪戯に付き添うための噓鳴きをする。


「——んっんんんっんっ!」

「—— ふっ!」


 タイミング良く、シズの踏ん張ったような声が背後から聴き取れた。


 しかし肝心のシャッター音は、僕が聴き逃したというよりは、そもそも鳴らなかった。


 その代わりに、如何いかにも機械的で簡素な二音が数回、微弱ながら僕の鼓膜に届く。


「シズ?」


 僕がどうなっているのかと疑問符を浮かべながら振り返る。そこにシズが居る。


「ごめん、皆本——」


 シズは謝罪の弁を口にしているけれど、その表情は綻んでいて、左手に持ち変えられたスマホを掲げて揺さぶり事後報告する。


「——いまの、動く方なんだっ」


 動く方、というのは動画の事だ。

 現にそのたった数秒の映像が、スマホ画面の中でリピートしている。


 道理でシャッター音がしない訳だと、納得の溜息を吐く。いくら絶景とはいえ、一枚の写真がこんなにも躍動的にならない。


「……僕の咳払い、いらなかったよね?」

「確かに。でも……ふふふっ、そんなわざとって分かるやつ、私初めて聴いたよー」


 スマホをポケットにしまっているのか、それともお腹を抱えているのか、どっちつかずなシズの、この日一番の笑顔が咲く。


「満足いくのは撮れたの?」

「うん。あの左手を挙げてる感じもちゃんと収まってると思うし」


 それは何よりだ。ただシズが、僕の考え及ばない解釈を語ったのが気になる。


「えっ、左手ってなに?」

「ああーえっとね。あれを人に例えたとして、あそこに出っ張りがあるでしょ? 私的には手を挙げて応えているみたいだなって」


 シズがジェスチャーを交えて僕に説明してくれている。


「なるほどね……」


 言われてみれば、そう見えなくもないくらいで、きっとシズの感性をないがしろにしていたら僕は一生そのように理解しなかっただろう。


「なら僕も、挙げ返そうかな」


 そう言って僕は車窓に向けて左手を挙げる。謙虚になっているせいで、これから見物する予定の大仏様みたいな格好が反映されていて、なんだか恥ずかしい。


「じゃあ、私も」


 シズは偶然の再会を祝すように、その左手を振り上げている。

 こういうのは雑多なことが一周回って、素直な心情を体現した方が、羞恥心が最小限で済むみたいだ。


「皆本、そろそろ戻る?」

「うん、そうしようか。あんまり席を外すのもよくないと思うからね」


 僕とシズの順で自動ドアを何食わぬ顔で潜り、それぞれ車両の自席へと直る。


 盛りあるものには必ず衰えもある。

 塞がれていた通路は既に開かれ、生徒達を含め先生すらもみんな着席している。


 シズは元の席に戻れた種川から迎え入れられるように手招きされていて、僕の隣席で項垂れている武藤とは対照的だった。


「その……ごめん、気が回らなくて」

「いや、皆本はなにも悪くない。俺の日頃の行いが悪いんだ。はぁ……一狩りしたかった」


 僕がいない間に、種川及び先生方から搾られたらしき武藤は、それ以降京都駅に到着するまで終始こんな感じだった。


 しかし新幹線から降車後、徒歩圏内にある宿泊先のホテルにボストンバッグやキャリーバッグなどの大荷物を一時置く。


 四人部屋の一室のベッドに僕が腰掛け、武藤がそこに飛び込んだ辺りになると、無事に英気を養えたように見えて安堵する。


 初日の京都巡りは、京都駅周辺の世界遺産を中心にバスで探索する。


 とはいっても正確には古都京都の文化財という一つの世界遺産だ。


 その構成遺産の幾つかを中心に巡るとした方が趣旨に沿っているけど、僕達の年齢など遠く及ばない歴史的造詣に変わりない。


 バスに乗車して、予め出席番号で配置が決まっているため難なく席に座る。


 僕は後方ではあるけどまた左隅の座席で、隣には部屋も同じの真鍋まなべだった。


 基本的に男女で分かれているけど、その配置バランスの都合で武藤と種川が隣同士になり、先程の一件もあって怪訝な形相でいがいをしている。


 ある意味で平和な二人さて置き、僕はシズの隣の人物が気掛かりで仕方なかった。


 種川という絶対的支柱が武藤と共に居る。

 つまりは僕とその二人以外、別の人物が割り振られていることになる。


「皆本なんか調子悪い?」

「いや、酔わないかどうか心配なだけ」

「そう……ならいいけど」


 シズの出席番号の通りにいけば、正直あまり理解を示していないと思われる生徒と隣り合わせになるから、動揺を禁じ得ない。


「はーい皆さん。京都までの長距離移動にお疲れかとは思いますが、今回ガイドを務めさせて頂く鳥井とりいと申します。

 今日は京都、明日は奈良と、二日間存分に魅力をお伝えするので期待して下さいねー」


 僕達の中学校を担当するガイドさんが同乗する。偶然にもそちらに視線を移すと、前方で担任の千条先生と共に着席しようとしているシズを発見することが出来た。


 どういう経緯かは不明だけど、先生なら一先ず胸を撫で下ろしても大丈夫だと思う。


『あー、私は鳥井、ピヨピヨ。音声の調子は問題ないですね。あ、マイクテストのやり方についての突っ込みは受け付けませんよ?』

「……」


 ガイドさんがバス車内で盛大な失笑を買うと、それを帳消しにするようにバスが進行していく。


 大政奉還が執り行われたとされる離宮、先日に田宮さんの下の名前と同じ名称の祭が開かれていた神社、舞台から飛び下りるといえばの音羽山おとわやまの寺院。


 時間の関係でこの三箇所を主に巡り、その他名所は降車せずにバスに乗車したままとなった。


 だけどそこはガイドさんが腕の見せ所と解説を張り切った結果、明日の奈良県の名所まで先行して喋り尽くす。


 帰り道にはもう完全に独演会状態で、最後まで退屈しないままに初日が終わる。


 基本的に隊列を組まされて周辺を気ままに散策することが出来ず、初見単語に躓いたりの制限下、この魅力を一日で把握することは恐らく誰にも敵わない。


 けれどその末端に触れ、歴史に興味を持つ好機になっているのは言うまでもない。


 ホテルに帰着すると、夕食や大浴場、ビデオ鑑賞に今日一日の感想文の提出を求められたけど、疲労困憊からかあまり記憶がない。


 それは他の生徒も同様らしく、午後十時の就寝時間には四人部屋の僕以外の全員が即座に寝付いている。


「はぁ……」


 柔らかいホテルのベッドの上で回顧かいこする。

 ホームシックということではないけど、寝心地が良すぎて逆に落ち着かないでいた。


 新幹線の一件以降、シズと直接相対することなく初日のプログラムを終了している。


 班別行動も自由時間もないため予想はしていたけど、それでもどこか心残りだ。


 ようやく同じクラスに通えるようになってからというもの、僕とシズはこの修学旅行に関する打ち合わせ以外で会話することが殆ど無かった。


 当初予定していた放課後の約束は、何一つ叶えられてはいない。


 それ以上に喜ばしい状況には成っている。

 けれど寂寥せきりょうかんも同時に混在している。


 中学生男女の関係の煩雑はんざつさを、僕は今更になって痛感している。


 隣のベッドで武藤が寝返りを打つ。

 心置きのない眠りについているだろうか。

 シズが僕のようになっていないことを祈るばかりだ。


 僕はそこで、双方の瞳を閉じる。

 温冷の変化による枯れた反音が、まるで秒針のように急かされて、内心が締め付けられている。


 どんな明日が訪れるか分からない。

 願わくば誰もが羽を伸ばせて、楽しみ尽くす一日になって欲しい。

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