第9話 進歩

 直立したときの率直な感想は、同じくらいの身長だったんだと初めて知ることが出来た喜びも相まって、右膝が震動していた。


 ただ、その震動が恐怖心に起因しているということも同時に分かる。


 けれど、それが瑣末さまつ事に思える。

 僕の対面にいるシズが口を結んだまま両手を広げて、今にも迎え入れてくれようとしているからだ。


 僕の病室のベッドと内窓を開閉するためのクレセント錠を、どうにか出来る位置までの直線。


 これが僕とシズの距離だ。

 およそ三メートルにも満たないそれが、途方とほうもない旅に感じる。


「……」


 僕は大袈裟に酸素を吸い込みとどめながら、まず右脚から踏み込んだ。


「ゔっ……」


 痛みは全くなかったけど、苦心に顔をしかめて、うめき声まで漏れる。


 踏み込んだ瞬間、下腿骨かたいこつがまた膝からしになるという想起そうきが、僕の精神を締め付けてくる。


 依然いぜんとして震えてはいるけど、実際に剥き出しになど、なってはいない。


 リハビリのときのアドバイスを一つずつ思い返しながら冷静さを取り戻す。

 そして右脚は、しっかりと地に足がついていることを確認して胸を撫で下ろす。


 その勢いで右脚を軸にして左脚を上げる。


「あっ……」


 僕の想定よりも軽々と、まるでそのまま跳躍してしまうかのように爪先で蹴っていた。


 追い風がないのに感じる。

 久々の二足歩行の加速度が制御出来なくて、でもそれが新鮮で、気付けば僕は右膝の恐れを失念していた。


「おっ、おー!」

「ごめん、シズ!」


 加減出来ないまま迎えているシズに突進してしまい、シズがよろけながらも僕を抱えて制止してくれる。


 当たり前だったことがそうでは無くなって、再び達成出来たときのこの感情は、怪我という不幸を経験してしなければ決して味わうことはなかっただろう。


 その高揚が収まりそうにない。


 そして、それを讃えてくれる人物がいるとなお、格別だった。


「ううん。それよりちゃんと歩けてたよ!」

「ほんと?」

「うん! 最初の一歩目はまだ不安が払拭ふっしょくしきれない感じだったけど、そのあとからはもう両脚を怪我していたとは思えないくらい綺麗だったよ!」

「そっか、ああ……」


 シズが僕の背中を軽快に何度もはたきながらねぎらってくれている。


 嬉しさの上限を超過すると、こんなにも呼吸が難しくなることを初めて知った。


「なんか、このまま歩き回ってみたいかも」

「うん!」


 そして僕は病室の中をあてもなく歩いた。

 段々と感覚が掴めてきて、僕のものになっていくのが自覚できる。


 シズもそんな僕に付き合ってくれて、そのハイポニーテールが、本物の尻尾のように僕の目の前で振られていた。


 一段落して、僕はベッドに腰掛ける。

 しかし漠然とまだ物足りなさを感じていた。


「こうなったらいっそ、病室を飛び出して遠くまで行ってみたいな」


 僕のその言葉にシズは嘆声たんせいと左手を上げながら提案してくる。


「はいっ! 駐車場まで行って、皆本のご両親を迎えに行きませんか!」

「確かにもうすぐ来る時間だけど、何でシズが知ってるの?」

「えっ? 本人に聞いたから?」


 シズは疑問形で答える。

 本人に会ったというのは、つまりはそういうことになるのだろうか。


「僕の父さんか母さんにまた会ったの?」

「うん! 皆本のお見舞いの後なのかな? わざわざ小児科まで来てくれたんだよ。

 なんか私のお父さんとお母さんとも話してたけど、私を入れてくれなかったんだー、凄く気になる!」

「あ、それ田宮さんに聞いたような……」

「葵さんに?」

「うん」


 僕の両親とシズの両親が知り合いなのかどうか訊かれた。

 そのことが自体が初耳で、そもそもシズの両親を知らないと答えたと思う。


 シズは頓智とんちでも働かせようと瞳を閉じ、こめかみに人差し指を当て円を描く。

 僕はそれをしばらく見守っていた。


 それから唐突に開眼すると、こめかみにあった人差し指を僕に向けて結論を言い渡す。


「皆本と私の両親が何を考えていたのか、分からないことが解りました!」

「そ、それは良かった?」

「なので私は、葵さん陰謀論いんぼうろん提唱ていしょうします」

「ただ見ていただけのはずなのに……」


 漫画の小さな一コマで、くしゃみをしている田宮さんが目に浮かぶ。

 それはもう理不尽な扱いだ。


 ミステリードラマにでも影響されたらしいシズは、なんだか得意顔で鼻息を漏らす。


 そして一通り演じ終えて満足したのか、脱線した話を戻して実行に移す。


 手始めに両手を叩いた。


「ということで! これから駐車場まで二人で歩いて、皆本のご両親にご挨拶に行きます!」

「おお、それはご丁寧に」


 僕が感心していると、シズは一礼して話を続ける。


「先ずは張り込むための場所を確保します。

 そこで、皆本のご両親の車を見つけ次第、尾行して病院のロビーで驚かせよう!」

「挨拶はどうなったの?」

「サプライズ挨拶!」

「……僕が思ってたのと違うけど、まあ問題はないか」


 改まった挨拶よりも、それくらい友好的な挨拶の方が、僕の両親は喜びそうだ。


「そういえば車の種類が分からないんだけど、皆本は知ってる?」

「そりゃあもちろん。四角い真っ白のワゴン車だよ。母さんの運転」

「了解! あとそうだ皆本、歩くのがしんどくなったらすぐに言ってね。私が背負ってでも連れて行って魅せるから!」

「うん、分かった……」


 厚意には甘えて遠慮はしない、それがこの入院生活で学んだことだ。

 最小限の迷惑で済ませることも、正直恥ずかしいこともあるけど、とても大事だと思う。


「さて! そうと決まれば行こう!」

「うん、僕らの探検の始まりかな?」


 僕が照れ隠しながら言うと、シズは僕の両手を無理矢理に引っ張り上げながら、満面の笑みで言い放ってくれた。


「そうだね! 偉大な一歩だよ!」

「……」


 僕は図らずもシズの導きで歩みを進めて、自らの脚で病室から踏み出した。


 そしてシズの先程の台詞はあながち間違いではなかったと、この機能する両脚を眺めながらせていた。




 駐車場近くのアベリアに身を隠し、僕とシズはその様子を監視かんししていた。

 シズが中腰で、僕は膝に負担を掛けまいと尻餅をついている。


「こちら異常ありません! どうぞ」

「同じく」


 結局エレベーターを降りた辺りで、両脚よりも衰えた体力の方が先に限界を迎えてしまう。

 それをシズに告げると問答無用でおんぶして、本当にここまで連れてきてくれた。


 途中。他の人の視線が痛かったけど、思いのほか快適かいてきだった。


 とにかく今度は、ある程度まで体力を取り戻さないといけないと心に誓う。


 そうして現在、灌木かんぼくの入り組んだ枝分かれの隙間から、拡大性能かくだいせいのうのないゆび望遠鏡ぼうえんきょうを覗いている。


「あっ!」

「見つけた?」


 僕はシズを窺うように見る。

 やはり視点が高い方が把握出来るものなのかと僕が関心しながらそうすると、いつの間にかシズが駐車場とは逆方向を見て、立ち上がって手を振りながら呼び声を上げていた。


「ウーメ婆ー! こーんにちはー!」

「……」


 僕もシズと同じ方角を向いた。

 ウメ婆と呼ばれた人物は、その無邪気な声に気付いてはいたものの、応える様子もなく車椅子を発進させて病院内へと帰って行ってしまった。


「またねー」


 シズは屈することなくまたその背中に話しかけていた。


「うん、今日も元気そうだね」

「あの……シズ、思い切り無視されてたんだけど?」

「いつもあんなもんだよ。

 なんか子どもが苦手みたいだから気にしないでって他の人は言うけど、そんなことないと私は思うんだけどなー」

「そう、なんだ?」


 僕が腑に落ちないようにしていると、シズが何かを発見したみたいで、迅速じんそくに僕の隣にしゃがみこんでいた。


「いたいた! あれだよね?」

「……そうだね。今日はやっぱり二人で来てる。僕のリハビリの成果を聞いたのかな?」


 両親が揃って来るよりも、母さんだけで来る頻度の方が若干だが多い。


 簡単な荷物なら、自動車を主に運転する母さんが仕事帰りに寄って渡してくれたりする。

 二人がいるときは決まって、僕の主治医から患部の経過を訊くときだ。


 最近で思い当たる節はリハビリともう一つくらいたろうか。


「——私の予想だけど、皆本の退院時期の話じゃないかな?」

「僕の?」


 僕自身でも内心そうではないかと思っていたが、気付けばシズに訊ね返していた。


「うん。もうかなり前から膝も大丈夫そうだし、あとは精神面くらいだもん。

 多分、皆本が小学生だから考慮して入院期間を長くしたんだろうし、これが大人の人なら歩けなくても退院してたと私は思う」

「そう、なのかな?」


 僕がうかがうように訊ねると、シズは迷いながらも頷く。


「間違ってたらごめん。でも私、こういう予想を外したことって少ないんだ。ここで過ごした時間だけは、誰よりも長いからね」


 シズはいつになく冷徹れいてつなまま、そして僕のことを案じながら言う。


 その清廉な言葉を反芻はんすうしながら右膝をさする。


 本来ならば念願が叶うくらいのとてつもない出来事のはずなのに、身体のどこかでそれを望んでいない僕が住みついているみたいだ。


「皆本! お父さんとお母さん、入っていったよ!」

「あ、うん」


 シズが病院の自動ドアの方へ進んで行く。

 僕もその背中を無理のないようにして追う。


 その自動ドアを通過するやいなや、シズは僕の両親がいる受付から距離を取る。


 人差し指を唇に当てながら歩いているせいか、シズを見知る誰もが、話し掛けることを自重している。


 そうして僕とシズは両親の背後を取り、受付の人との話し合いが終わるまで待機する。


 案の定と言うべきか、僕のリハビリの進捗しんちょくに少し触れている。


 そのとき、受付の人が僕とシズの存在に気が付いた。目を見開いて驚いていたけど、すぐに僕の両親に悟られないように愛想よく相槌を打って誤魔化している。


「そうですね、とても精力的みたいですから。ではお部屋に行かれる……その前に、後ろの子たちがなにやら企んでるみたいですよ?」


 受付の人が平手を差し出して、僕の両親に促すと、二人揃ってこちらに振り返る。


「「……っ!」」

「皆本のお父さんとお母さん、こんにちはー!」


 絶句している両親を尻目に、シズは予告通りに清々しい挨拶をしている。


「私たちから迎えに来ちゃいました。ほらほら皆本も!」


 シズが僕の脇腹をつつく。

 僕は一歩前に出て、言葉を紡いだ。


「えっと、今日は二人で来てくれた——」

「——っ!」


 僕が言い切る前に、待ちきれないと母さんが僕の両肩に手を置いて、僕の足元から確認するように眺めている。


 やがて僕と同じ高さの、いつくしみのある視線が送られて来る。


「笹伸……もう、親らしく冷静にしてようと思ってたのに、まだ少し掛かりそうって、聞いてたのに——」

「——ごめん、急だったから」


 母さんが瞳を何度も瞬いて、下唇かしんを噛んで感情をこらえているのがわかる。


 そんな姿を見据えていると、僕の頭上に謎の重量が乗っけられる。

 その少し加減が出来ていないまま、髪の毛を巻き込みながら不器用に揺さぶられたことで、それが無言を貫いている父さんによるものだと僕は感覚で理解していた。


「あんまり揺さぶらないでよ父さん」

「あ、ああすまん」

「ここに来るまで無理はしなかった?」

「うん、途中でシズに背負って貰ったから。その、脚じゃなくてまだ体力が戻らなくて」

「……」


 僕がそのように伝えると、母さんがいつのまにか遠慮気味に後退しているシズに優しく声を掛けていた。


「そう、ありがとね。笹伸のために色々と」

「いえいえそんな」


 シズが高速で両手を振っている。

 そんな多忙な手振りを見て微笑む母さんが話を続ける。


「ほんと可愛らしい子ね」

「ありがとうございます!」

「ご両親とお話ししたらじゃじゃ馬娘だなんておっしゃってたけど、そんなことないよね?」

「はい! 明日会う予定なので文句言ってやります!」


 シズが拳を込めて朗らかにファイティングポーズをとっている。

 その戯けた雰囲気が、良好な家族仲を表しているような気がした。


 受付前で長居は良くないと座席の方へと移動しながら、母さんが僕の歩く姿をまじまじと見ている。視界に入ってないけどきっと父さんも同じようにしていると思う。


「歩いてるの、見た感じは違和感ないね」

「うん」

「皆本、モデルさんみたいに歩いてるよ!」

「それは大袈裟だよ」


 僕がそうツッコミを入れると、シズは分からないよと言いたげに微笑む。


「意外と足とか速そうなフォームしてる気がするから私と競走でもしてみる?」

「嫌だよ疲れるし。それに、まだ走るのは良くないんじゃないかな」

「あー、それもそうだね。じゃあまた今度ね」

「いやだから……」


 そんな僕とシズのやり取りを母さんが感慨深く眺めていた。そして僕に耳打ちしてくる。


「それにしても笹伸が同じ年頃の子と仲良くしてるなんてね。しかも女の子」

「……うるさい。たまたま今まで出来なかっただけだから」


 こうして僕が悪態をつくのも久々だ。

 正直。初めて入院することになって、両親にさえそんな余裕がなかったんだと思う。


「でも母さんは嬉しいよ。正直なことを言うと、入院している間、ずっと天井ばかり見てないか心配だったからね」

「別に……」

「ねえ笹伸、志津佳ちゃん……あ、シズって言ってたねさっき。そのシズちゃん、家に呼んであげたら?」

「えっ? いや——」


 戸惑いながら歩く僕を見て、母さんは揶揄からかってくる。


「——ふふっ、もしかして恥ずかしいの?」

「違うから」


 僕と母さんで小声の応酬し合っていると、その後ろにいるシズと父さんを流し見る。


 何故か数年後に完成予定の水族館の話題で持ち切りになっていて、シズは特にジンベイザメがご所望らしい。


 そんな僕に母さんが再び耳元でささやいてきた。


「いつでも良いからね」

「……いいよそんなの」


 僕は気持ちがこんがらがって素っ気なく返した。複雑になればなるほど、結局単純な解答しか出せなくなる気がする。


 そんな僕を母さんは見抜いているみたいだ。


 その張り付いた微笑みはとても見慣れていて、反射的に後退あとずさりしたくもなるけど、同時に安堵出来る。


 親と子の関係は、互いに知り尽くしているからこそ、どこかやるせない。


 でもなんだか、悪い気もしない。

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