第2話「あの日の夢~兄弟が海に出た訳」

 眼下に青い海が広がる港町ラ・ブランシュ。


 丘に作られた坂の町には、白亜の建物が積み上がるように並んでいる。その建物の間を縫うように、階段や通路があちこちに伸びていた。


 通路の途中に作られた小さな公園で、一人の少年が、海をながめていた。


 沈みゆく太陽が海と交わると、海に光が溶け出して、海や町は夕日色に染められる。

 一日が終わり、水平線の彼方に日が沈むこの時が、ラ・ブランシュの町の最も美しい瞬間だった。

 それをながめる少年の白い肌もまた、町の建物と同じく、オレンジ色に輝いていた。


「待たせたな、ベリル」


 ふいに、少年の頭上へ声が降ってきた。

 声の方を仰ぐと、建物と建物の隙間から、別の少年が顔を出した。両足だけで体重を支え、広場を見下ろしている。少年は、手と足で左右の壁を突っ張って、ここまで登ってきたようだ。


 ひらりと広場に着地する。色白の少年とは対照的に、日焼けした肌をしていた。


「なに一人でたそがれてんだ?恋の詩でも考えてたのか?」と日焼けした少年は言った。

「兄ちゃん、階段の使い方を知らないの?」とベリルは呆れたように笑った。


 弟の皮肉を兄は相手にすることなく横に並んだ。腰に帯びている汚れた布バッグに手を突っ込むと、青いリンゴを取り出してベリルに放る。もう一個取り出すと、自分もガブリとかんだ。


「ありがと」


 両手で受け取ると、ベリルは兄の顔を見上げた。


「これ、どうしたの?」

「どうしたのって、帰り道で買ったに決まってんだろ?」

「そう……」


 夕日に染まる兄の横顔を見て、ベリルは、兄の額が腫れていることに気づいた。額の左側が丸く青紫に変色しているのだ。


「ジェイド兄ちゃん。そのあざ、どうしたのさ?」

「あ、これ?いやぁ、積み荷を運んでる時に角でぶつけちまってさ。めちゃくちゃ痛そうだろ?ホラ」


 兄のジェイドが冗談めかしてそう言うと、額をベリルに近づける。見たくないといった感じで、ベリルは顔を背けた。

 身体をねじったせいなのか、ベリルの腹がぐぐぅと大きくなった。ごくりと喉が鳴る。


「遠慮せずに食えよ」


 ジェイドが、弟をひじで小突く。


「う、うん」


 ベリルは、かぷりとリンゴにかじりついた。


「おいしい」

「だろ?うまいだろ」

「うん。うまい」


 夢中でリンゴにかじりつくベリルを、ジェイドは黙って見ていた。


「小ちぇけど、今日はパンとチーズもあっからな。ふたりで半分こして食おうぜ」

「ほんと?お金は、平気だったの?」

「心配すんな。船着き場の積み荷運搬の仕事は重労働の分、給料もいいんだぜ?だれかさんの靴磨きのお仕事と違ってな」

「僕だって……。もっとがんばるよ」

「冗談だよ!真に受けんなよ」


 そう言うと、ジェイドは、ベリルの背中を叩いて大きく笑った。


 兄弟は、その日、いつもよりも長く夕日を見ていた。




「ねえ、兄ちゃん」

「ん?」

「今日、港で働いている人の話を聞いたんだけどさ。近々、この港から大きな商船が出港するらしいね」

「ルミエール号とか言うでっかい商船だな。知ってるぜ」

「船乗りを募集してるんだってさ」

「そうか」

「乗らない?その船」


 それは、兄ジェイドにとって思いがけない提案だった。


「お前、船乗りの仕事がどんだけ大変か分かってて言ってるのか?」

「わかんないよ。やったことないんだから」


 それを聞いて、ジェイドは、呆れたようにため息をついた。


「あのなぁ。あの船は、フラバルト王国テール・フラバルト内の港を回ったり、近隣の国を巡るなんてもんじゃないんだぜ?遠い東の国々まで行くんだ。戻って来るのは一年以上先になるんだぜ?」

「いいよ?そんなの平気だよ」


 弟には珍しく、挑むような言い方だった。


「お前、どうしたんだよ……」

「ジェイド兄ちゃん」


 ベリルが兄を見上げる。


「大変な仕事なのはわかったよ。けどさ、その分、給料は、とびきりにいいらしいじゃない?なら申し分なしだよ。ね?」


 その目は真剣だった。冗談で言っているのではなかった。


「ああ、わかった。けど泣きっ面見んなよ。毎日船酔いでゲーゲーなっても知らないからな。大人でも『いっそのこと殺してくれ』って泣きわめくらしいぜ?」


 ジェイドは、肩をすくめて、弟の華奢な肩に目を落とした。


「兄ちゃんと僕は兄弟なんだ。ジェイド兄ちゃんは、僕をひ弱だと決めつけてるみたいだけど、案外僕も頑丈だからね」


 ベリルが、兄の考えを見抜いたように、少しふくれっ面で返す。

 ジェイドは笑い、じきに船出することになるラ・ブランシュの海を見やった。


「ジェイド兄ちゃん、海を果てしなく進んだ先にはさ。なにがあるんだろうね?」

「さあな」

「広い世界を見てみたかったんだ。本で読むだけじゃなくて、自分の眼でね。ね?ワクワクしない?」

「ああ」




「──イド」

「…………?」

「ねぇ、ジェイドったら」

「!」


 弟の声で、ジェイドは目が覚めた。真っ暗闇だ。一体どういう状況なのか、記憶が戻るまで数秒を要した。


 乗っていた商船ルミエール号が海賊の襲撃に遭い、命からがら、木箱の中に、ふたりで逃げ込んでいたのだ。そのまま寝ていたらしい。


「こんな状況で、よく寝てられるね」


 ベリルが言う。暗くて顔はよく見えないが、弟の呆れた顔をジェイドは簡単に想像できた。

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